第5章

 奈美が自分の顔ぐらいなボールを抱えて縁先を駆け抜けた。後を追って妹の留美が泣き ながら通った。二人とも植え込みの陰へ消えると太い笑い声がした。信恵の声だった。  ボールの奪い合いをする二人のこどもをなだめながら庭の真中に姿を見せた信恵は、赤 い色のサマーセーターを着ていた。二人を間隔をおいて並ばせると、自分も加わってボー ルの投げ合いをさせた。留美はもう泣かず、笑顔さえ見せている。山間の朝の陽は弱く、 信恵のはずんだ声は麻生が見ている座敷にこだました。日曜日だった。  信恵が帰ってきてくれたことは麻生にとって心を落ち着かせる原因になったが、彼女に 対する怖れの気持ちは変な形で凝り固まってしまった。眼の前で屈託もなく興じている姿 を見つめていると全く奇異なものを見せつけられているような気がした。数日前、不意に 母親の里の祖父がようすを見にきた時も、けっして心の動揺は表に出さず、むしろ卒業す るまでここにいたいと強くいった。康助とのことはあれっきり何もいわなくなり、教室で も彼を避けるようになった。しかし、夏子はこの前の夜、二人とも遅くなって帰ったこと に強く拘って、彼を追及した。お前にも反省するところがある筈だと反発すると、いっそ 湖西に帰ったがましだといって泣いた。が、直接信恵につらく当たるようなことはなくな った。それがまた変に彼の目には無気味だった。書痙の手も確実に快方に向かっていた。 「今夜何時ごろにみなさんいらっしゃるの」  夏子がはいってきた。  その夜、山本と園田が会合にくることになっていた。 「八時、さあ、八時半ごろかな」  信恵たちの方を向いたままでそういうと、夏子は視野をふさぐように前に座った。 「やっばり、何かあったんでしょ──あんたたち」  昨夜もそのことを繰り返し床の中できいて迫めたてた。  彼が夏子を求めようとすると、手や足で押し返した。 「信恵んとこで寝たらいい」。 「信恵ときたら、このごろ憑きものが落ちたみたいになって」 「・・・・・・・・・」 「いい歳して──」  そういわれて彼は彼の中で記憶を訂正する心の動きが働くのを感じた。肝心のところが 薄れて、その前後が自動的につながっていく。そして新たな記憶の帯ができる。そうする ともうもともと訂正するような何ものもなかったのだという気になる。事実、自分は何も していないのかも知れない。ただ自分は妻があの夜のことに拘って、罪人に仕立てようと するからしだいにその罪の根拠を自分の中に形造っていたか知れない。それほどその時の ことは自分の中で実在感を持っていなかったのかも知れない。そう彼は考ええた。 「どう答えれば気がすむんじゃ」 「私の前で信恵にちゃんといわせてよ」 「何を」 「あるならある、ないならない」 「ばか」  どうあっても黒白をつけないと承知じない口振りだった。  信恵は全く聞こえないかのようにこどもたちとボール投げをしている。それが彼に悲し いような焦りとなって沈殿する。 「はっきりいおう。──何もなかったんじゃ」  彼はそういって空しくなった。例え何もなくても、三人がこうして一つ屋根の下に住ん でいれば、夏子にとっての切実な問題は同性の信恵であり、それはちょうど湖西の家での 夏子と姑である母との関係に似ていると思ったからだ。女にとって血がつながっていない ということは決定的な敵対関係になるという事実だった。彼は自分本位にそう思って空し くなったのだ。 「ここにくる時お前はどういったんだ。湖西の家を抜け出すことができたら、もうどんな 苦労でもする、苦労を苦労と思わない、なんていってたじゃないか」 「はぐらかさないでよ。それとこれとは別よ。変な娘しょいこんで、おまけに好きかって なことして」 「おい。だからいったんじゃろ──何にもなかったって」 「どうだか。あの夜信恵はものすごい顔して帰ったんだから」  流し目で信恵を見てふんという声を出したが、信恵からはその仕種も全く無視されてい た。すると、どっと前に崩れて泣いた。「こんなことなら、ここにくるんじゃなかった」 呻くようにいうと、奈美と留美がボール投げをやめて走ってやってきた。そして、おかあ ちゃんはどうしたのかと聞いた。奈美の方は縁を上がっていこうとした。成り行きを見守 っていた外の信恵は、やにわに下に落ちていたボールを勢いつけて蹴り上げた。ボールは 庭の植え込みの椿の葉群の中へ鈍い音とともに突きささった。それを下で見ていた留美が、 ボール、ボールといって椿の木の下の方へ走った。  九時前になると山本と園田が揃ってやってきた。山本はビクの中に数尾のヤマメを入れ てもっていた。園田は気を利かして一升壜を下げていた。玄関をはいると、山本が夏子を 前にして挨拶もそこそこ、「守る会、万歳!」と胴間声を上げた。二人とも多少下地があ るらしかった。  信恵が一度も顔を出さないので、先ずそのわけを盛んに聞きたがったが、彼は気分がす ぐれないようだからと嘘をいってその場は納得させた。その夜の会は分会の役員会といっ てよかった。分会の活動は常に三人の世話役を中心に行なわれていた。こんどの件でも山 本と園田は分会長である麻生を助けてあちこち働きかけていた。期成同盟のことについて も積極的に賛成して動いてくれた。しかし他の者についてはいざというと協力しようとい うものは出なかった。真先に古株の三人が反対した。このことは麻生にとって戦意喪失の 原因になった。特に安部などは意外と淡白で、少しもこの学校に未練はないといった。そ れから今年転勤してきた六人の中の教頭を含む三人がなりゆきを見てからがいいという消 極的な態度をとってどうしても他の三人と一緒に行動できないといい張った。残された三 人は自然発生的に「分校を守る会」らしきものを作ることになった。この問題が起こった 当初、校内は急激に熱していたが、その実行動に移る段になると各々自分中心に思惑して いた。狭い学校て身振りを大きくすれば結局自分の首を締めることになりやしないかとか、 分校が廃止になれば、自分らが都市部へ帰れる時期が早まりはしないかとあからさまにい うものもでてきた。 「教頭なんかまだ未公表だもんじゃから、表だって動けないんじゃ」  山本は手薄になっていく活動の行手を不安がるようにそういった。 「皮肉なもんじゃ。新任者の俺たちが結局残ってこれからどうこうしようというんじゃか らなあ。まだ半年も経っていないのに」  苦笑して園田がいった。 「分校がなくなったって俺たちにゃどうこうないんじゃが、周囲が冷たくなると、変なも んで俺たちにゃここしかないちゅう気持ちが湧いてくる」。山本は隣りの園田の肩を力を 込めて叩いた。園日は眉をしかめた。  山本と園田が県や地元の関係者をあくまで組合レベルからいろいろ当たっていた。二人 の報告によると事態はいよいよ表面化しようという緊迫感を増しているようだった。県教 委は大々的に分校や定時制の生徒数の見通しなどについて全県的な立場から調査の再検討 を行っているとのことで、問題になる分校は現地に直接赴いて地元や学校の関係者から意 見を聴取する方針を打ち出し、その第一の候補に家代を上げているということだった。 「こりゃいよいよ本物になってきた」 「手応えは十分じゃ」  二人の話を聞きながら麻生は深呼吸していった。 「玉砕じゃ」  驚いた二人は不審げに麻生の顔を見つめた。 「もう他の誰の力も借りん」 「おいおい麻生さん変な気を起こすなよ」  山本がなだめるようにいって杯をすすめた。 「もし公表されれば県の執行部としても全力あげて対抗する構えじゃから俺たち三人だけ じゃない」  園田もなだめた。しかし麻生は聞き入れようとせず、思いつめたような表情になった。 「いくら執行部が対抗しても、地元がああいう具合じゃ、運動が全く嘘になる」 「麻生さん、俺たちは先ず県教委が学校にくるのを待って徹底的に反対意見を述べるんじ ゃ。それしかできんじゃないか」。山本は「守る会」の消極的運動策を述べた。 「地元はもう何とかならんのか。町長はどうしてるんじゃ」  園田が歯ぎしりしていう。「それにしても県のやり方は全く陰険じゃ。裏であれだけ動 いていて、今まで一言もわれわれに相談したことがないんじゃから」。山本は手酌で飲み ながらいった。  ところへ、廊下の電話が鳴った。夏子が出た。「湖西のおかあさんから」。夏子が部屋 をのぞいてそういった。  麻生は電気に打たれたように廊下に出た。 「──おばあちゃんがね──」  母の久野は押し殺したような声でいった。声は麻生の耳から粘液のように流れ入った。 タキが最近気がおかしくなって手におえなくなったという。 「店のお金をごまかしたと疑われていると思い込んで、私の前で着物脱いで素裸になって 見せるんよ」  明日にでも家に帰って話を聞いてくれ。そう久野は哀願した。 「このところ手が離せない。ちょっと待ってくれ」。そういうと一時も待てないという。 「必ず帰るから」  そういって音をたてて受話器をかけた。  部屋に戻ると二人は盛んに何かあったかと聞いた。彼は答えなかった。するとまたベル が鳴り出した。また夏子が廊下を駆けた。
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