第6章

県教委から明日実情調査に町へやってきて分校関係者とも話し合うそうだ、という連絡 が県執行部からあった日の朝、信恵が急に家を出た。  その日は朝からひどく雨が降っていた。  信恵がなかなか起きようとようとしないので、夏子は不平をいいながら部屋に向かった。  すると間もなく蒼くなって帰ってきた。 「信ちゃんの姿が見えないわよ」  駆けて行って見ると布団をきちんと片付けて、位牌や部屋の持ちものの目ぼしいものは 全部持ち出してあった。 「黙ってたけど、きのうの夕方母親が電話してきたのよ。なんだか九州だったみたい」  無責任な夏子のことばは麻生の心を混乱させた。 「どうして隠してたんじゃ」 「隠してなんかいないわよ」  彼はやり場のない怒りを感じた。  夏子は慌てて台所へ逃げた。  ドアを閉めて部屋の角にある信恵の机の前に坐ると、机の上の額にはいった写真が裏返 してあった。しかし抽き出しを開けても置き手紙らしいものはなかった。  昨夜、あんな家代の暗い谷間の道をひとり下っていったのかと思うと気が遠くなるよう な寂しさを覚えた。もしかすると今ごろはどこかの駅で途方に暮れて佇んでいるのかも知 れない。いや、母親から電話があったとすれば、まっしぐらに一番の列車でそこへ向かっ ている途中かも知れない。あんなに母親を憎んでいたのに・・・。  麻生は信恵の気持ちを測りかねた。写真を立て直してじっと見つめた。いつの写真か分 からない。微笑んでいる顔はどこか寂しげだった。背景は自分の家の庭に違いない。  部屋を見回すと、女らしくいつものようにきちんとかたづいていた。彼は今にも信恵が 背後から現れそうに思った。でも ・・・、もし何か変な気もちでも起こしたとしたら。  困惑している彼の心の中にまた新たな不安が走り抜けた。  一応捜索願いは出しておかねば………。  彼はもぎ取るように腰を上げた。  翌日もいっこうに雨勢は劣えなかった。朝から分校の職員室の空気は張りつめていた。 教頭は盛んに麻生を牽制した。本校の校長は一行と一緒にこっちに上がってくるという 連絡があった。  朝礼の時、教頭は真先に彼に板山信恵の件について説明を求めたが、彼は詳細に述べ ようとしなかった。すると教頭は不満げにいった。 「高瀬康助が後を追って出ていったこと、麻生さんはご存知じゃないですか」  麻生はまた新しい事実を突きつけられた気がした。部屋は急に静まった。しかし、彼は もう少しも驚く必要はないと思った。 「それじゃいっそう安心じゃないですか」  どっと笑い声が湧きあがった。 「君は担任でしょ」  教頭は白髪を掻きながら麻生に対する怒りを露わにした。  すると山本が挙手して立った。 「教頭さん、その問題は放課後にでも回して貰えませんか。その前に今日の県教委の訪 問について話し合っていただきたい」  そう大声で申し入れると、横の方で「守る会ガンバレ」といったものがいた。山本は鋭 い目をしてにらんだ。  教頭は訪問は午前中にあることや、顔ぶれはだれかということなどを簡潔に話した。そ して最後のところで、何がなんでも県はみなさんの意見を聞きたがっているんですから、 けっして心得ちがいをして失礼なことのないようにといい足した。隣りの山本はそれを聞 いていて盛んに麻生の手を押さえて、「いいか、いいか」といった。  生徒朝礼は山本に頼んで、麻生は図書室にあがった。どうしても生徒に対して平静な心 を装って向かい合うのはできないと思ったからだった。二十人足らずの二年のクラスの中 で、心の通い合った者が一度に二人も不意にいなくなるということは、彼らにとって大き い衝撃に違いなかった。そんな生徒達の前でもうどうにも説明がつかないと思った。敢え て説明できたとしても、自身がひどく傷つくことは目に見えていた。山本なら比較的冷静 に処することができると思ったし、生徒の追及の鉾先も和らぐだろうという一時しのぎの 想定もあった。  書架に向かって坐ると、それでもすぐに飛んでいって生徒達の前に立とうという気持ち が背筋の辺を走り抜けた。そしてそれと同時に先程の山本の手の温か味がまた蘇ってきた。 体温は急激に腕を伝って体全体を包んだ。すると書棚の本の背文字のひとつひとつが彼を 貫く夥しい視線に変わってくるような気がした。彼は目をつむった。──闇の中で遠ざか る信恵の後ろ姿がはっきり浮かんでいた。  窓を開けると、雨音がなだれ込んできた。裏山は淡くかすんでいて、夕暮れ時を思わせ た。平屋の教室棟の屋根ごしに山を長らく見つめていると、山の色あいが時々に変化する ことに気づいた。それは雨の層に波のような疎密のくり返しがあるからだと思ってみた。 麻生は暫く放心して山の蒼い色の変化に見とれていた。見つめているうちに底知れぬ哀し みが込みあげてきた。  彼は三年の教室に目を移した。生徒の急増期に建てられたとかいうその棟はいかにも安 ものらしくちゃちで、強い力が加わればあっけなく潰れてしまう感じだった。  三年の教室からの声は何も聞きとれなかった。破れた樋から水が激しく石廊下に流れ出 しているのが見えるだけだった。  「山本さん」。 彼は思わず呟いた。  窓を閉めると、もうじっとしていられないほどいら立ってきた。彼は部屋中を歩き回っ た。そして歩いているうちに、体中が得体の知れぬ熱に冒される気がした。それから久し 遠のいていた嘔吐感が足許をすくった。彼は閲覧台に思わず手をかけた。しかし思いのほ か腹部の痙攣はこなかった。そのかわり、目の前を蒼黒い光の帯が通り抜け、強い眩暈を 覚えた。一限の始業のチャイムがガンガン頭に響いた。  雨は十一時過ぎになると視界をはぎとるように強く降り出した。  職員室には麻生の他に山本と安部がいた。二人とも一言も口を利かなかった。  麻生は時々窓の外を見遣った。  十一時半になると麻生の目に坂を登ってくる車の車幅灯がかすかに見えた。麻生は突然 席をけって立ち上がった。すると山本も立って麻生を力いっばい抱きかかえた。しかし麻 生の力はそれを振り切った。  雨の中に駆け出した麻生は、もう校庭に上がりきった二台の車の前に両手を伸ばして立 ちはだかった。どしゃぶりの雨は容赦なく彼の全身を濡らした。彼は必死に叫んだ。だが 自分でも何をいっているのかわからなかった。  車が止まった。先頭の車の中から上背のある男がゆっくりと出てきて、何やら麻生に話 しかけたが、少しも彼の耳にははいらなかった。彼はひたすら両手を広げて車をはばむ姿 勢を崩さなかった。雨はまた一層激しくなってきた。硬直した姿勢のままの彼の頭の中に ぼんやりと浮かんでは消えるある色があった。それはダムの暗い水面の色と、少女の日焼 けした肌の色だった。そして、だんだんと二つの色がしだいに溶けあっていった。それが 麻生にはこの上なく快かった。                                      <了>
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