第4章

その翌日である。遠く見晴らすと中国山脈の蒼い起伏が見える丘の上に麻生は蹲った。 眼下には肌色をした鉄筋の町役場と豪雪センターがあった。家代ではそこだけ都市の匂い がした。西から伊倉川が、東から久城川がそこに流れ入り合流した。役場の手前で増水し た二つの流れは合わさって逆巻き川幅を増して北へ下っていく。その合流点に久城大橋が 架かっていた。岸はすべてがんじょうな石垣で守られていた。──家代の全域はその二つ の川にほとんど囲まれていた。  夏の夕方近いころなので役場に出はいりする人影もまばらで、見つめていても気だるく なった。麻生は先刻まで町役場の教育委員会の応接で若い係長と話をしていた。おない年 くらいな、黒々とウエーブした髪をした係長の顔が、まだふやけたようになって彼の前に 浮き出ていた。  役場内では総務課長の噂流しがひんしゅくをかっていたようで、その軽はずみな行動の ため彼の立場が悪くなっていると開口一番語った。  「再来年から募集停止なら、もうとっくに正式に町にも意向打診がありますよ」  係長は小鼻をふくらませてそういった。そういう計画が県教委で審議されている事情は 部内では噂話程度に関知しているだけて、それまで少しも波風は立っていなかったそうで、 町教委としてもまだきちんとした対応措置は出ていないともいった。万が一、急にその話 が進展した場合のことも考えておいたがいいと彼が不安を誘うようにいうと、係長は、公 的な仕事の場合その仮定というやつがいちばん厄介でおぼつかないし、動きがとれたもん じゃないといった。  「最近小学校の統廃合を行ったばっかりで……」。係長はそういって危機意識のかけら ものぞかせず、彼と話しているのが時間の浪費とでも思っているかのように、しきりに壁 の時計を見た。腹が立ってきたができるだけ平静を装ってやっとのことで期成同盟の話を 切り出すと、そういうやり方はやはり下からの盛り上がりがなければ成功するもんじゃな い、上からの押しつけでは地元は動かないといった。  「それじや、町にとって分校は少しも未練じゃないんですね」。彼はどうしても追い詰 める形になっていく話し方に、自分のことながらいや気がさしてきた。しかもたった一人 でよそ者である自分が切り込んでいかねばならない意味が稀薄で、それが心のどこかにへ ばりついていてよけいに口調をトゲトゲしくしているのだと思った。  「教育の機会均等という点からいうと、そりゃなくてはならないでしょうね」  「建前からいっても、もちろん残すべきです」  「麻生さん、ところがですね。卒業生の就職先をここ教年調べてみますと、県外の方が 九十パーセント平均毎年いるんです。これじゃ過疎を進行させる拠点になってるといって もいい過ぎしゃない気がします」  「そりゃ家代に限ったことじゃない」  そういうと、係長はとどめを刺すようにいった。  「ところがうちの場合困るんです。毎年二百万も家代分校のために固定的に支出してる んですから。ほんとにそんなことじゃ困るんです。財政逼迫の折から二百万の捻出は並大 抵のことじゃない」  ──役場の教育委員会室のある一角を甜めるように見つめながら、麻生は四月に行われ た町の歓迎会での係長のようすを想い出した。六人の新任者や町関係者の前で頬かむりし てどじょうすくいを踊った男の印象はどこへ整理したものだろうかと思った。  私服に着がえた女の職員が二、三人ずつまとまって正面口から出てきた。玄関の庇をは ずれたところが階段になっていて、そこを足ばやに降りるとバイク置き場に行き、 ヘルメ ットを着けるとあたふたとエンジンをかけて走り去っていった。やがて男の集団がぞろぞ ろ繰り出され、そのほとんどが自家用車で消えていった。麻生も重い腰を上げた。丘を降 りて、下に転がしておいた自転車を起こして帰ろうとしたが、いつしか反対方向に向かっ て走り出していた。  伊倉川を遡って、信恵の家に行き、その足で伊倉ダムに行こうと、もう心で決めていた。 川に沿って彼は力をこめてペダルを踏んだ。その自転車は前任者から譲りうけたものだっ た。塗装が色あせてところどころメッキがはげていた。荷台がぶかっこうで広い。国語の 前任者は彼より十も年上で、今は湖西市の普通高校に帰っている。彼もきちんと四年だっ た。事務引き継ぎの時、もう嬉しさをかくしきれないといった風で、ただで彼に与えた。 彼は大切に磨いて使った。少しチェンがゆるんでいる他は全く異常がなかった。  川面からしきりに夕方の風が渡ってきた。  砂洲がほとんど水没してしまって、流量はあい変わらず減っていない。彼は湖西市の東 端を流れている大川を懐かしく思った。  道はチェンがきしむほど勾配をみせてきた。彼はやみくもに踏んだ。サドルの辺が汗で 湿って、股やふくらはざの筋肉が痛んだ。川の両岸に山がせり出してきて、山の狭間に集 落があった。ほとんどがワラ屋根で夕霧の中にくすんで並んでいた。黒田山が西の空に猛 々しくそびえている。  ──家代の町と分校とがしだいに遠くかけ離れていくような気持ちが、彼の心をどこか 深い淵に連れ込んでいく胸苦しさを覚えさせた。自分の立っている土地が間断なく崩れて いく感じだった。踏みしめれば踏みしめるほど足下から亀裂がはいり、どす黒い谷間に雪 崩のように土塊が吸いこまれる。だが不思議と彼の体は宙に浮いた状態で少しも土塊と一 緒に落下しようとしない。いっそ落ちてくれればいいと念じてもまるで目に見えぬ糸で吊 り下げられているようで自分の意志が働かない。そんなもどかしさの気持ちでもあった。 彼は道ですれ違う通行人に、一人一人、分校がなくなるのをひき止めて下さいと土下座し て頼みたくなった。よそ者の自分にとって、生家を脱してきた自分にとって、もうかけが えのない世界のように思えてならなかった。彼は大声あげて叫びたくなった。チェンのき しるギリギリという音は頭の襞にもみ込むよう食い入った。  黒田山がのしかかってくるような山下の裾で、信恵の家は哀しさに震えている生きもの の臭いを放って建っていた。  もう遠くの稜線がぼやけて見えるくらいに夏の陽は弱まっている。彼は頭を冷やそうと 川岸に降りたった。まだ少し濁りのとれていない川水は手をさし入れると生ぬるかった。 ダムの凝った熱が内に篭っているようだった。彼はそれでも思い切りよく顔にぶっかけた。 川面は信恵の父が自殺したその日のように暗く深い色をたたえていた。ーー彼はハンカチ で顔を拭いながら瓦葺きの信恵の家を見上げ、そこに飾ってある父親の写真をふと思い出 した。生垣の銀木犀が新芽を伸びほうだいに伸ばしていた。庭の植え込みも親戚の者が一 度だけ手入れしただけなので、もとの形を大きくくずし、見るからに野生的になっている。  麻生は玄関に立って、しまったと思った。家から鍵を持ってくるのを忘れてしまってい た。舌打ちをしながら硝子戸をよく見ると、いつもかかっているライター大の南京錠がな い。悪い予感がした。すぐ引いてみた。鈍い音がして戸があいた。すばやく中に飛び入る と薄暗くなった屋内をすかしてみた。音も聞こえないし、ものの動く気配もない。「だれ かいるか」。彼は自分の怖さをまぎらすようにできるだけ大声で呼んでみた。声は空しく 反響するだけで、そのために屋内の影のどこかが揺らぐこともなかった。「だれかいるか」。 何度も彼は闇に問いかけて土間を進んで台所の入口につけてある電燈のスイッチを手探り で捜した。そして気がついた。もうとっくに電気はこなくなっているのだ。そう思った途 端足元で何か固いものを踏みつけた。とり上げてみると女ものの靴だった。信恵だ。そう 気がつくと同時に奥の襖が開いて細い黒い影が近づいてきた。彼はマッチを探そうとポケ ットに手を入れた。するとその影の中心からかすかな光が点り、だんだんとその光源は大 きくなってきた。土間がまぶしい程明るくなってすぐ前に蝋燭を持った信恵の体が立って いた。  「信ちゃん」  「・・・・・」   「どうしてここへ」  「せんせこそ」  信恵はこの前の夜と同じような警戒の色を露わにしていった。しかしそれは熱した血を 包む薄皮のようで、すぐ融けていく脆さを持っていた。彼はそこに気づいて却って踏み込 むことをためらった。信恵は身を翻すと、もといた表座敷にはいっていこうとする。  「夏子が、また何かいったんか」  後を追って彼も表へはいった。蝋燭がもう一本つけられた。カビの臭いが畳一面に立ち のぼってきた。信恵の父親の写真が仏壇の上からほほえみかけている。しかし、中の位牌 は抜き取って信恵が彼のところへ持ってきていたので、仏壇全体が間の抜けた家具のよう に見えた。信恵は流れるようにへたり込んだ。彼もつられて前に座った。  いつものTシャツを着けているので一旦は帰ったものに違いない。そうすると夏子だ。 彼はそうきめつけた。  「頼むから我慢してくれ」  「こんなとこに寄らんで早く帰ってあげたら」  そう吐きだすようにいうと声を飲んで泣き伏した。  「もうアタシ、どうなってもいいんだから」  伏した丸い背中がヒクヒクと痙攣した。  ふと彼の前を康助の顔が横切った。そして会長のことばが生々しく響いてきた。康助を うけいれる信恵の涙の顔をそこに見た思いがした。  「信ちゃん。君はそんな気持ちから康助を許したんか」  キリッと体を起こして信恵は叫んだ。  「そうよ。ここでね」  「・・・・・」  「おとうちゃんも、ほら、そこでちゃんと見てたわ」  仏壇の上の写真を指さしていった。そして急にまたすすり上げた。  それから、信恵は、それ以来康助の態度が冷たくなって、今日は呼びつけて話をしよう と思ったが、今まで待っても来てくれない、恐らく自分を避けたのに違いない、といった。  「でも、康助のお父さんはちゃんと許してる」  「責任を感じたからじゃ」  「康ちゃん、やっぱし、うちの父のこと気にしてたんじゃ」  彼は信恵の口から異様なことを聞く気がした。「父」ということばを噛み砕くようにし て口の中で反芻した。そしてその新しい事実に気づかずに接してきた自分のうかつさを悔 いた。全く打ちのめされた感じだった。  「お父さんのことって、少しも分からないけど・・・」  「・・・・・」  「お父ちゃんは、・・・気がおかしくなってたんじゃ」  「そりゃ、君の一人合点じゃないんか」  「私の子どものころからずっとじゃった、・・・」  そういうと泣きじゃくるのをやめて赤くうるんだ視線をよこして、死ぬ、死んでやる、 と絞り上げるような声を出す。何もかも大嫌いじゃ。お母ちゃんだって、せんせだって。 そうじゃ、せんせも悪人じゃ。変に善人ぶってからに。女中と変わらんじゃないか―もう 居てやるもんか。ここで立派にのたれ死にしてやる。  「そうか ・・・そんなに憎いか」  「お母ちゃんだって、自分がまともだもんじゃから、もう、お父ちゃんをいじめてばっ かし」  「そうだったんか」  「ダムの人夫と逃げくさった時、アタシ、ほんとは手叩いて喜びたくなったんじゃ」  「・・・・・」  「こんな山奥で、もう、息が詰まりそうじゃ。……学校、ダム、精神病」  口許を歪めて無理に笑おうとしたが、笑いにならず、頬が一瞬震えただけだった。彼は 信恵がひどく恐ろしく見えた。手許を離れた小犬が姿を見せないうちに急にとてつもない 狼になって前に現れたようだった。そしてその前でおびえている自分を憐れに思った。も う、すべてが自分の周囲で自分に何の関りもなく大きく旋回していく気がした。その中心 にいる筈の自分は全く空虚で、湧き上がる眩暈さえ統御できなくなっている。  「信恵、自分の境遇を楯にして、そんなに甘えるな」  彼は必死にもち応えようとした。  「お父ちゃん返してよ、お父ちゃん」  信恵は急に彼の胸ぐらを叩いた。  彼は不意に戸外に人の気配を感じて、縁の障子を開け放って硝子戸越しに外をうかがった。 すると二、三人の人影が闇の中を逃げ帰るのが見えた。彼は硝子を開けて大声でどなった。 しばらく足音がしていたが、すぐ消えた。  「あいつらだって、おとうちゃんをいじめ抜いたに違いないんじゃ」  彼は硝子と障子とを勢いよく閉めた。  「信恵。おまえはそんなにぼくが憎いか」  彼は信恵の前に進んで顔を見据えた。信恵はひるんで後ずさりを始めた。かまわずに彼は 接近していった。そして近寄りながらまたかすかなサイレンの音を聞いたような気がした。 「おまえは、あの時のけたたましく鳴るサイレンの音を覚えているか。今も聞こえているあ のサイレンの音を」。信恵は立ち上がっていった。 「覚えてない、・・・そんなもの」。 唇をひきつらせてそういった。彼も立ち上がった。追いすがって手をとった。信恵はおびえ て青くなった。見開いた目から悲鳴が臭いとなって広がっていくような気がした。同時に夥 しい数の群集に一時に哄笑された思いがした。しかし、彼はいっそう強くその手を握りしめ た。信恵の顔から血の気がひいた。  彼の自転車は夜の坂道をおぼろな光を吐きながら登っていった。どこまでも舗装してあっ た。  ダムヘの道は崖を這うように伸びていた。もう引き返すことができないような気がして、 それが却って彼を陶酔させた。  ダムの灯が見えてきた。夜気はしだいに冷えて熱した体を包んで流れた。水面はダム上端 の天端道路の照明で、越流部の付近がかすかに光って見えた。上から見下ろすダム主要部は、 所々闇の中の星のような豆粒大の光がともっている他は全く黒々としていて、水門から落下 する水しぶきの色さえ見えなかったが、水音だけは地の底から間断なく聞こえてきた。  彼はダムサイドに自転車を立てかけ、天端道路に降りたった。全長は百メートルぐらいあ った。吐き出された流水は三つの水門から青白い飛沫をあげて落下して行く。集積する水量 はなかなか許容量を下りそうになかった。彼方の山々から無限に湧いて流れ出るように思え た。厚いコンクリートの壁に立っていると、その内部から際限なく熱が染み出してくるよう だった。彼は水面を見透した。二十万立方メートルとかいう容積は彼に想像もつかなかった。 向こうの端は闇に呑まれて茫漠としている。彼は後へ下がって、巻上機橋りょうに背をもた せた。背の柱が流勢でかすかに震動していた。  彼はふと一枚の葉書のことを思い出した。本校にいる時の担任の生徒からのものだった。 ある中国山地のダムエ事のもようをかんたんに知らせ、先生も一度来てみて下さい、という 文面である。数年前のことだった。彼は一度もそこへ行ってみたことはなかった。  信恵の日焼けした膚がまた水面に生々しく浮かび上がった。彼はそこから目を離そうとし たが、視線はけだるくそこにからみついていく。彼は思わず首を振った。すると、信恵の父 の顔がまた浮かんだ。しかし変に顔の中身はこそげ落ちていた。水の中で浮上したり沈んだ りしていた。そして突然信恵の膚の色と重って見えた。すると彼の頭の中に初めて得体の知 れぬ後悔の気持ちが青白い光のように走った。ダムの底部から稲光りがしてくるような気が した。  ダムの端から一人の男がこちらに近づいてくるのに気づいた。彼は底知れぬ怖れを感じた。 男は歩きながら盛んに手招きする。  近づいてよく見るとダムの当直員だった。
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