第3章

 翌朝教頭は本校へ飛んで、校長を伴って帰ってきた。  総務課長の話は山本と園田がみんなに自慢話として撤き散らし、職員朝礼前の職員室は いつになく騒然としていたが、数教時間経って昼休みごろに校長が現われると我がちにし ゃべる者はいなくなった。それじゃこのまま職員会議にきりかえましょう。白髪の教頭が 室内をグルリと見回してそういうと、校長も上座に用意された椅子に腰を下ろした。のっ ぺりとした丸型の顔で、きちんと夏上着を身につけている。話は自然と校長と麻生のやり とりに絞られてきた。 「ここで改めて聞きますが、校長は県から事前に打診を受けていながら、どうして分校の 教頭にさえも相談しなかったんですか」  すると、校長の顔が膨れた。 「麻生さん、佐山課長がどんないい方をしたか知らないがね、県が内密にしてくれといっ たことはたとえ教頭でも話す必要はないよ」 「じゃ、佐山さんの話の件は全く酔余の出まかせだと考えていいんですね」  校長は顎へ手を当ててしばらく思案するような表情をしていった。 「あながちそういうわけじゃない」 「じや、再来年度募集停止の線はこれから表面化するんですね」 「飛躍しちゃいけない」 「知事の訪問と募集停止とを結びつけようとすれば結びつくんですね」 「直接に、じゃないでしょ」 「とにかくやるにはやるんでしょう」 「ええ、全県的な立場で必要とあれば──」 「相談をうけられた時、校長はもちろん反対の意思表示はされたでしょうね」 「私も教育者ですから──」  それから校長は基礎になる生徒数漸減のようすを数字で示した。四十年に百三十九名だ ったものがわずか四年で六十五名になり、それから急激に生徒数がダウンする見込みで、 現在の家代町立小学校の生徒数は合計で百五十名足らずであることを強調し、矢江高校尾 立分校がその点では見通しが明るいことをつけ加えた。 「尾立分校に統合されれば、家代のこどもの中に高校へ行きたくても行かれないものがで てくると思うんですが、彼らはどうなるんですか」  そういいながら麻生は意に反して口が滑ることを恐れた。 「麻生さん、熱意のある親ならできるかぎりの方策は講じますよ」 「でも、経済的なものは乗り越えることができないと思いますが」 「県としてもいろんな手段で手をさし伸べることになると思うね。しかし、なおかついけ ないという生徒は当然出てくると思う。──そりゃもう、しかたのないことだね」  しかたのないことだ、ということばは麻生の体に網のように絡ってきた。そしてすべて のトゲトゲしたものを軟らかく包んでくれるようを気がした。 「統合ということが年次的に行なわれるとすると、われわれ教員の配置換えはどうなるん ですか」 「まだ公表の段階ではないのでそこまで計画されていないが、いろんなケースがでてくる と思う」 「もし、全町的反対運動を盛りあげた場合、方針変更ということも考えられますか」 「そりゃ県としても無視できないが、全県的な立場から必然的に結論がでてくるわけで、 いったんそうと決まれば方針は変えられないでしょう。今はもう、地元からの要請によっ て分校を云々する時代じゃない」  そういうと職員室は急にざわついた。山本が挙を振りあげて、反動じゃ、と叫んだ。校 長は無視するように目をつむった。たまりかねたように教頭が立ちあがった。「みなさん、 お気持ちはよく分かりますが、まだこの問題は県にとっての重要課題のようで、公表され ていないことですし、校長としてもそれ以上触れられないと思いますし──」  新館の南の隅をベニヤ板で仕切った生徒会室からは球よけの金網ごしに校庭のようすが よくわかった。そこではその時六限目の三年女子の体育の授業が行なわれていた。ソフト の試合をしていた。山本が自らピッチャーをしている。信恵はサードを守っている。短パ ンの足は一様に日焼けしていた。麻生は職員室の空気を避けるようにここにきていたが、 一人になるとよけいに心が研ぎすまされてきて、動揺は静まらなかった。と、どこからか 羽音がしたかと思うと、蜩が一匹飛んできてネットの支柱に止まって絞り出すような声で 鳴き始めた。  声は頭の芯を共鳴に誘った。彼はその音をふるい落とそうと思ってソフトのゲームに熱 中した。球速をセーブした山本の球は女生徒に媚びるように繰り出された。しかしバッタ ーはほとんど振り遅れて、当たったとしても山本の前にころがる程度で二人続いて殺され てしまった。三塁の信恵はその度に細い体でダッシュしてボールを捕えようとした。しか し二回とも山本がつかんでファーストに送球した。その時口惜しさから艶のある嬌声を発 して地団駄を踏んだ。そのようすはまことに嬉々としていて、体ごと打ち込んだ者が見せ る危なっかしいような無防備さを感じさせた。彼は妬ましい気持ちになった。それは山本 に対してではない。信恵自身に対してだった。一番身近にいる筈の彼に見せたことのない 一面を惜しげもなくさらしているからだった。信恵が毎年七月の末に行なわれる氏神の夏 祭で、ここ数年女神楽の主役をやっていたことを他の教師から聞いた時も、それに近い気 持ちになっていた。しかし信恵がこの分校を中心とした家代の空気を思いきりよく呼吸し ていることは確かだと思った。  高まる蜩の声の中で、麻生は朝出かける前のできごとを想い出してそれをかみしめた。  宿酔はいつも彼を死にたい思いにさせた。先に信恵を送り出した夏子は、頭をかかえ込 んで食卓に向かおうとする麻生の前に立ちふさがっていった。 「ゆんべ、信ちゃんの部屋に何しにはいったの」  声を震わせ、目の奥を光らせてにらんだ。彼は咄嗟に口ごもった。  昨夜遅く寝ようと思って便所に立った彼は、信恵の部屋から泣き声が洩れてくるのに気 づいた。声をかけてやろうかどうしようかと迷ったが、手だけが意志を持っているかのよ うにひとりでに動いてドアを引き開けていた。体を中に滑り込ませて後手にドアを閉めて はじめて頭を打たれたようを強い後悔を感じた。闇の中で挑ね起きる信恵の姿が黒く動い た。無言のままで急激に身構える風であった。彼は入口で棒立ちになった。 「せんせ」  彼女がそういうのと部屋が明るくなるのと同時だった。枕元のスタンドが点けられてい た。タオルケットを首まで被って床の中で上体を起こしている。彼は何かいおうと思った が旨いことばが見つからない。 「ごめん──泣き声がしたもんじゃから」  彼女は上瞼を赤く腫らしていた。 「すみません」  そういうと、それ以上口を聞こうとせず、俯いてしまった。そのようすは何かしら次の ことばを待ちうけているようでもあって、彼はそこに釘づけにされた。信恵の体臭が煽る ように送られてくる気がした。 「夏子があの後でどういったか知らんが、あいつもあれでいて悪い女じゃないんじゃ」 「奥さんを恨むなんて──」 「そうか、そりゃよかった」 「ただ何とはなしに悲しくなって──」 「昔のことは忘れたがいい」  信恵はそれから佐山の話を立ち聞きしたことを打ち開けて、盛んに分校の今後のことを 聞きたがったが、彼は公開する段階ではないことをくり返しいって部屋を出た。  ──ただそれだけのことだったが、それは前に立ちはだかっている妻にとっては重大事 だろうし、旨く誤解されないように釈明するとなると、彼としてもはたと行き詰まってし まうのだった。 「泣いてたからさ」。麻生はしかたなしにそう答えた。  すると少し戸惑うような目つきになって、「やっばり、母親の里にひきとらせたがよか ったと思うわ」といった。 「そんなこと絶対に信恵にはいうなよ」 「まったくお人好しなんだから」 「立派に卒業させて、薄情なあいつらに思い知らせてやるんじゃ。爪の先で火を点すよう なあいつらの山国根性は大嫌いじゃ」 「偉そうなこといって──。やっと湖西の家から抜け出したかと思うと──」 「とにかく協力してくれ」 「協力するって、湖西の家の借金の手伝いまでちゃんとした上で信ちゃんを養ってるんで すよ」  そこへ長女の奈美が起きてきてしきりに目をこすって泣き出した。パシャマのズボンの 股のあたりがぐっしょり濡れている。夏子は慌てて手をひっぱるように奥へ連れてはいっ た──。  試合はチェンジになったがやはり山本が投げていた。校庭一面からの照り返しが眼を痛 くさせた。蜩は時々休んではまた鳴いた。  彼は湖西の家のことも思った。  家には母と妹と祖母を残していた。母の久野は酒とタバコの小売を業としていたが、父 が生きていた時分の借金が少々あってそれに縛られ、寄る年波から止めたい腹は十分にあ ったが、それも当分の間実現しそうになかった。彼が家にいる時は返済の援助を続けてい た。転勤の話がもち上がった時、母がまっさきにそのことを心配して反対をした。そこで 彼はひき続き同額の援助はするという条件を出して母を納得させていた。それに、母と祖 母のタキはあまり折り合いがよくなかった。父親が元気だった時はそれでもお互いに遠慮 して、さほど対立することもなかったが、父が死んだとなると急に二人は態度を硬化させ た。彼はその度に中に立ってなだめねばならなかった。おまけに夏子が機会あるごとに、 出たい、出たいというものだから彼としても自分の身の処し方をひどく苦慮していた。  転勤は夏子にとってはひどく好都合だったが、残された母と祖母とが旨くやっていくだ ろうかという危惧がいつもつきまとい、それまでに、月に二、三回は家に帰ってようすを 見ていた。その度にタキが繰り言を述べた。一緒に住むのはいやだから、家代に連れてい ってくれと哀願した。彼は夏子のことを思うと、それを承諾するわけにはいかず、いつも 縋る手を振り切るように帰っていた。  ──自分も夏子と同じように家から逃げ出したかったんじゃ。  彼はもうすっかりなじんでしまったそのことばを改めて自分に向けて投げつけた。する と、下腹の辺に何か熱いものが凝集してくるような気がした。体の末端部にすべての神経 が散って、肝心の中枢部はいたずらに空回りしていた身内に、一気に火が点いた感じだっ た。  ──そうじゃ。期成同盟、期成同盟じゃ。  麻生は背すじが伸びていくのを感じた。  校長のさっきのことばはことばとして、いずれ県が正面きって廃校に向かって動き出す にきまっているから、それまでに反対のための会の下準備をしておかなければならないと 思った。彼はさしあたり、PTA会長にそのことを相談に行こうと企てた。  帰ろうとする信恵をつかまえて案内に立たせた。麻生は会長の家を訪問するのは初めて だった。近いというから二人は自転車をひいて並んで歩いていった。  道は狭いが学校の近辺はアスファルト舗装が行き届いていてハンドルを持つ手にほとん ど抵抗感がなかった。信恵は少し癖のある短かい髪を両側て束ねている。後ろから見ると 襟首のあたりが茶色に日焼けして、妙に女を感じさせる雰囲気があった。とてもこれを自 分の妹のようには感じられない、と麻生は改めて思った。昨晩のことが生々しくまた甦っ てきて彼は息苦しくなった。 「せんせ」。信恵は振り返っていった。「せんせのおかあさんてどんな方です」 「えっ」 「りっぱな方でしょ」  皮肉とは決してとれないまじめな響きが底に通っていた。そういうとまた前を向いて歩 き始めた。 「商売をやっていると人間が悪くなる」 「でも、男と駈け落ちしたりせんで、せんせを立派に育てたんじゃないですか」  肩のあたりがその時硬直するのがよくわかった。 「家を飛び出したからって、信ちゃんが憎くてそうしたんじゃないと思う。後悔しながら 今でもきっと心で思っててくれてるさ」 「どうだか」 「ダム工事の請負会社に全部当たってもらったんじゃが、どうも行き先がつかめんのじゃ。 里の方でも八方手を尽くしてもらった。もうだいぶ日も経ってしまったし──」  彼は今更のように忙しく飛び歩いた数か月前のことを想い出して苦々しく思った。伊倉 川一帯の住民は完成ま近いダムエ事のためにすべてを犠牲にして生活のリズムをそれに合 わせていた。その反面、多額の金が労賃という形で落とされたことも事実だった。山間の 町にとって大きな現金収入の手段としてそれはそれで意味があったのだ。しかしダムが完 成してみると、あちこちでその一時の繁栄の破綻がきた。よそ者の一人である麻生の目に もそれは痛々しく見えた。信恵の父親の自殺はその象徴だと理解していた。 「やっばり信ちゃん、九州じゃろ。なんでも長崎訛りのある男じゃったとかいうけん。あ れこれ聞いてもらって住所つきとめても、もうそこにはいなかったそうじゃが、きっと九 州のどこかにいるような気がする」  信恵は久城川に小石を蹴った。波紋も音もなかった。 「会いたいじゃろな」そういうと少しカールした髪が横に揺れた。 「葬式ン時、おかあちゃんいい喪服着てたなあ。あれ高いじゃろなあ」  半袖シャツから細い腕が涼しそうに伸びていて、それを後ろから彼は見つめた。 「葬式の時何も聞かずに帰してしまったのはうかつじゃった」  道はいよいよ狭くなり、舗装が切れた。緩い勾配をみせてきた。民家が丘の下のところ に十数軒かたまって建っていた。信恵は自転車のスタンドを立ててから、その集落の一番 上手の一軒を指さして、そこが高瀬会長の家であることを教えた。礼をいって麻生が向か おうとすると信恵が呼びとめた。 「ね、せんせ。きっと康ちゃんのこというにきまってるけん、用心してね」  康助は信恵と同じクラスの生徒で会長の長男だったが、麻生はそのことばの意味を急に くみ取りかねた。しかし、信恵は自転車に飛び乗って忙しく帰っていった。  高瀬会長の家は小さな雑貨屋だった。  出て来た老婆に来意を告げると、裏の倉庫で仕事をしているからそこへ行ってくれとい うので回っていってみて驚いた。裏は岩山でその一番下に防空壕のような洞穴があり、入 口付近は冷気に包まれていた。少しでも入口に近づくと冷気は足元から上体部にまとわり ついて這い上がってきた。蒼黒い空洞から、見ていると盛んに白いガス状の煙のような帯 が流れ出てくる。麻生は思わず口を押さえた。しかし気体に臭いはなかった。空気中の水 分がこの冷気に触れて白い気体になって漂うのだと思った。「高瀬さん」。麻生は穴の奥 に向かって呼んだ。すると洞穴の底の方から返事する歪んだ声が煙のような気体に乗って 届いてきた。 「や、せんせ──驚かれたでしょ」  高瀬は色白で、商売人らしくなく分別臭い顔をしていた。真夏だというのにきちんと長 袖のスポーツシャツを着ていた。穴から出る時二、三度くしゃみした。 「防空壕ですか」 「いや、昔からあるんですけどね。どうも何か採鉱した跡のようです」 「深いんでしょ」 「怖くてとても」 「天然クーラーですね」 「それが冬は暖かいんですよ──夏腐りやすいもんは全部ぶち込んでおきますけん」  高瀬は麻生の気配を察して急に改まった態度になって、傍にあった木製の椅子を二つ向 かい合わせると一方に麻生を座らせた。そして声を張り上げて妻を呼んだ。裏口からエプ ロンをした大柄な女が出てきて麻生に頭を下げた。 「おいビールだ」。高瀬はそういいながらテーブルのようなものを運んできて真中に据え た。麻生は何度も辞退したが、かまわず女は皿に入れたつまみを持ち出してテーブルに並 べた。ビールも出てきた。「このビールは冷蔵庫のもんですよ」。高瀬は笑った。体に染 み込む冷えを気にしながら麻生はビールを口にした。女は一杯ほど麻生につぐと家へはい った。  二杯目を飲み干して麻生は本題にはいった。先ずいままでの経緯を述べると高瀬はその 点の事情はほとんど心得ているようだった。だから期成同盟の件もすんなり切り出せた。 廃校計画が公表されてからでは遅いということを強調して述べた。すると高瀬は溜息をし て考え込んだ風な表情になった。 「やっぱし町長に御輿をあげてもらわにゃいけんて」 「ですから会長さんから口火を切ってもらいたいんで──」 「じゃがなあ──」  高瀬は渋い顔をした。そして校長さんの気持ちはどこら辺にあるかと聞いた。その点は まだはっきりしないというと一層深刻そうな表情になった。公表されていない方針に対抗 して正式の期成同盟は組織できないともいった。ですが、事前の体制はつくっておいてい つでも期成同盟に改称して運動できるようにしておかなければならない。と麻生が主張す ると、高瀬はしまいに口許に笑いを浮かべた。 「せんせ。どうしてそんなにムキになるんですか」  問われて麻生は少しひるんだ。 「せんせ──いや麻生さん。そんなに分校が可愛いんですか」  麻生はしかし少しも驚かなかった。教員として、組合員として、学校自体に愛着を持つ ことは当然の倫理感覚だし、むしろそれは生理的なものといっていいかもしれなかった。 それから今の彼にとっては何かしら別に突き動かされる疼きのようなものも感じていたの は事実だった。 「学校がなくなることは、教員にとって一番寂しいことじゃないですか」 「じゃがね、麻生さん、学校がなくなってもあんたがたはちゃんと行くとこがあるんじゃ けん。──それに学校が残ったとしても、義務年限の四年がたてばさっさと大規模校に引 きあげていくんじゃろ。今年の四月はたいへんじゃった。九人のうち六人が変わったんじ ゃけん。その六人のせんせのぜんぶがぜんぶ愛校心に燃えた方じゃった。でも、さて転勤 する段になると嘘みたいて変に喜んじゃってウキウキして帰っていった。──いや少なく ともそう見えたけん」  そういう高瀬のことばは攻撃的ではないがいちいち麻生に突き刺さるものを含んでいた。 彼はあえて逆らおうとせずに聞くことにした。 「──麻生さん。家代の地元に働きかけていったい何人が賛同してくれるかね。あなたが 考えなさっとるよりもっともっと生活水準は低いんですよ。おまけに意識も低い。分校設 立の運動だって旧七か村がこぞって参加したわけじゃない。ごく一部のもんですけん。今 生徒がいくらいるかしらんが、狭い町じゃとお互い見栄ちゅうもんが働いて、無理してで も高校出させようとする。だからおかしな話じゃが、分校がなくなれば内心ホッとするも んも出てくるかもしれん。尾立分校に統合されても高校へ行かせられるとこはちゃんと行 かせられる。このごろは便利なオートバイが出回っとるけん。それから家代のもんは現金 収入ということにゃ目がない。伊倉ダムの場合だってそうじゃ。土方で稼げると思うたら 何でも飛びつく。ダム造りに反対したもんはほとんどおらん。板山信恵のおやじぐらいな もんじゃけん。ダムの仕事がなくなったらこんどは災害復旧工事。それもこのところ底を ついてきた。こんどは何に飛びつくかだ。つぎは誘致工場ですよ。もうとっくに廃校にな った二つの小学校の分校校舎を使って今サイレイ衣料が操業を始めたとこです。家代のも んにとっちゃ大喜びです。こんどは麻生さん、家代分校もあそこがひき受けるんじゃない ですか」 「サイレイ衣料」  麻生はその名前を初めてきいた。 「ごく最近町が誘致したんですよ」  そんなことを知らないのか、という顔をした。 「本社は大阪にあるんですよ。大きな縫製会社じゃ」  いつの間にか高瀬はビールを二本一人でほとんど空けていた。  麻生のよそもの意識はひどく刺激された。  一時的に逃れてここにやってきているにすぎない一人の勤め人なのだ、という実在感を 伴なわない人間としての認識が強まっていった。 「一度、サイレイ衣料をのぞきに行かれりゃわかりますよ。全く嬉々として働いてますけ ん。──あれがほんとの姿ですよ」 「いや、行くまでもないと思います」 「あんたがた組合の方はすぐ、のどかな山村に工業資本の手が伸びるちゅう図式でこの状 況を把握されるじゃろが、サイレイ衣料はその実救いの神じゃ」 「ところで──」。高瀬は不意に声を落として信恵の名前を口にした。 「せんせ。分校廃止阻止もいいが、ひとつ信ちゃんをよろしく頼みますけん。今学校にい るもんを立派に卒業させてやって下さい」  信恵についてはいいことをされたと手放しでほめた。そしてしきりに信ちゃんをよろし く頼むという。 「ええ、責任感じてます」 「実は──」  打って変わったようにどぎまぎして落ち着かない素振りを見せ、皿のつまみをボリボリ かんだ。 「嫁にしようと思うとるんで──」 「康助くんの」 「ええ」  打ち萎れたようになって高瀬はつづけた。 「うちン康助がどうも──」 「康助くんがどうしたんです」  麻生は少し陰気なところのある康助の顔を想い浮かべて、それを信恵のそれにダブらせ て強い衝撃をうけた。 「まさか」 「ええ──そうなんです。まことに申し訳ない」  麻生は頭から血の気が退く思いがして、洞穴から溢れてくる冷気がことさら邪魔になっ た。 「しかし、どこか県外に就職したいといってたんですがね」 「いや、もう、卒業してからすぐにでも来てもらった方が──」  ──麻生はそれから何かいたたまれないものを感じてそそくさと残りのビールを飲むと 腰を浮かせた。高瀬はしきりに麻生の気持ちを知りたがったが、返事したくなかった。  帰りに洞穴の中へ案内してもらってはいったが、変哲のない穴倉だと思った。  冷気を外れるとムシ風呂の中へはいっていくような感じで、汗が体中に吹き出て下着が べとついた。  帰ると、信恵は風呂を焚いていた。  顔が合うと、何もいわずに眼を伏せた。
     前章へ戻る     目次へ戻る     次章へ進む