第2章

久城川に沿っただらだら坂を一心に自転車を漕ぐと家に着く頃には腹の周囲や背中に不 快な汗がにじみ、喉の奥がねばついてくる。四月当初はそれでも張りつめたものがあって、 この自転車漕ぎもたいして苦にならなかったが、一学期も終わりかけようとしているこの 頃は積もった疲労のためかひどくおっくうになっていた。  麻生の借家は久城川が急にせり上がって泡立った流れにかわる地点の高台にあった。 いつもより早い風呂につかって汗を流していると、焚き口でだれか人の気配がした。も の音で麻生はすぐ信恵と分かつた。  「信ちゃん。焚かなくていい」というと、信恵は歯切れの良い調子で「はい」と学校で するような返事をした。  「それより台所の方を続けて手伝ってくれ」  そういうと、また「はい」と元気よく返事して台所へかえっていった。  ──あの子を自分はいったいどうしようというのか。麻生は首まで湯につかりながらい つもの疑念を反復した。明かり窓がほの明くなり、向うの黒田山辺に陽が傾きかけている。 山の裾に板山信恵の家があった。今、そこには誰一人住んでいない。近在には珍しい赤瓦 葺の大きな家である。家のすぐ前を久城川の支流の伊倉川が這うようにのたっている。  信恵はその家の長女で、実質一人子だった。兄がいたが急性肺炎て幼い時に急死し、お まけに父親はあまり丈夫ではなかったようだ。家代分校に転勤して落ち着くと何度か家庭 訪問をした。それも母親の身もちが悪くてよく家を出るので、信恵の担任としてどうして も父親と相談しなければならないからだった。母親は上流のダムエ事現場の若い男と関係 があったらしく、その噂は里の人々の口にのぼるようになっていた。  ぬるい湯とはいえ、麻生は顔にまた汗をかきそうになるほど長くつかっていた。洗った ばかりの額が手を触れると油を塗ったようにぬめっていた。台所の方から二人の子どもの 声がする。そしてそれを叱る夏子の声もする。子どもは腹をすかしているのだ。彼はモヤ モヤした頭の痺れをふっ切るように激しく立ち上がった。しかし風呂桶を跨いだとたんに 目の前が暗くなった。そして、体が急に萎んでいき、芯のあたりがドロドロに融けていく ような気がして、軽い吐き気を催した。何かにとり縋ってはみたが、その物体も勢いよく 倒れていくような感じだった。やっと両脚を支えて立つと呼吸を整えようと焦った。する と風呂場は異様な音に満たされた。水底から湧きあがるような鈍い反響を伴うサイレンの 音のようだった。音は継続的に鳴らされ、事の急を告げていた。麻生はその音をここに来 てから幾度か開いた。伊倉川上流のダムの放水を住民に知らせる合図のサイレンだった。 数日間の強雨でダムは極度に増水していた。その音は周囲の谷にむせぶように拡散してい く哀しい獣の鳴声に似ていた。  手探りで腰かけを引き寄せて麻生はそこへしばらく体を落ち着かせようと思った。吐き 気はやはり首のつけ根のあたりにへばりついていて、こんどはそれに軽い心臓発作のよう な症状も加わったようで、息が荒くなった。なに、軽い湯まけに違いない。すぐ治る。彼 は自分にいい聞かせた。サイレンの音はいつしか止んだ。しかし、彼の頭の中はひき続き 音の波がからまっていた。音は暗い画面を際限なく頭の芯に吹きあげていた。夥しい人間 が黒っぽい土手で川中を不安げに見つめていて、水面には高瀬舟のような小型の舟が浮か べてあり、盛んに竿か何かで川底をつっついている。人込みの中に板山信恵の悲しみに歪 んだ顔もある。駆け下りた麻生が名前を呼ぶと、とりついて泣き出す。増水した川面は暗 くて巨大な生きものの内臓のように思わせた。「お父さんはもう帰ってこない。諦めるん だ」。そういうと信恵は口を開けたまま声にならない叫びをあげる。  ・・・麻生は葬式の時に一度だけ母親の姿を見たが、その後どうなったか知らない。母 親の里からひきとる話が出たが、話を進めるうちにその誠意のなさに業をにやし、半ば喧 嘩ごしで信恵をひきとることになった。里の老いた祖父の顔がとてつもなく大きく風呂場 のタイルに写し出されていた。  「ともかく、後わずか。卒業まで何とか」。彼は遠のく嘔吐感に勇気づけられながらそ う思った。  「あなた、どうかなさったの。だいじょうぶ」  夏子が外で心配そうな声をかけた。麻生は「なんでもない」とわざと元気よく答えた。  酒がはいると山本は大きな目玉をますます大きくして身振りも激しくものをいう。園田 は薄くなった髪を掻き揚げながらしきりに調子はずれな笑い声を出す。二人とも体育部の 顧問をしていたのでお互いの気心はすっかり分かり合っていた。山本がバスケットで園田 がソフト。年は山本が三人の中で一番の年長で四十二歳、園日は三十六歳、そして麻生は 三十二歳でいずれも中堅教員である。国語の麻生は一人文化部で郷土研究クラブをうけも っていた。  以前発電所の職員宿舎だったとかいうこの平屋の借屋の床は、歩くとウグイス張りのよ うにきしむ。しかし八畳の表座敷があることが大助かりだった。麻生はここをよく会合に 使った。気楽な飲み会もあったし、組合の会合もあった。その度に夏子はお茶や酒や食事 の用意を進んでやった。信恵がこまめに手伝ってくれるので不平をいわないのか。あるい はそれ以上に家から解き放たれた安堵感があったのか。それは無気味に思えるくらいだっ た。  「安部さんを助ける手はただ一つあったんじゃが、こんなとこまで非常勤でくるもんは いないしな」  園田は箸を一本手につまんでそれをタクトのように振っていた。  「ないない、くるもんか。こんな山奥」 と山本ははき捨てるようにいう。  「何分A級の僻地じゃからな。隣りの尾立分校はバスの便もいいし、非常勤を頼めばい くらでもあるけんだいぶ楽にカリキュラムを組んどるらしい。おまけに生徒数もきちんと 伸びとる。・・・ こっちが校舎改築を先にやっちまえばそりゃやっこさんら腹立てるじゃ ろ。知事や県教委もその点にゃ気づいている筈じゃが……」  麻生がいうと、園田はつづいていった。  「いくら二十周年のついでじゃといっても、わざわざ辺ぴな分校まで足を運ぶとはよっ ほどのことがあったに違いないぞ」  「なに、町長あたりが頼んだんじゃろ」  そういうと麻生は大声をあげて台所の二人を呼んだ。今夜はそんなことにはあまり触れ たくなかった。知事がこようが誰がこようが、自分たちがここに四年間居座っていなけれ ばならないことに変わりはない。  山本と園田は、夏子と信恵がまた姿を現わすと、急に元気よく拍手した。夏子は額の汗 を拭とりながらやってきて、座るとエプ ロンをとった。信恵は白っぽいTシャツに紺のチ ェックのスカートをはいている。 「こどもはどうしたんじゃ」。麻生が聞くと、夏子は 「少し早かったけど、ご飯と風呂をすませて布団敷いてやったわ」といった。  「この鮎、信ちゃんにひどく似てる。おやじさんが元気だった時分は、伊倉の鮎は全部 おやじさんみたいな顔をしてたが」  釣り好きの山本は,皿の塩焼き鮎を箸でつっつきながらそういい、「信ちゃんが網打っ たんじゃろ。なるほど、信ちゃんの匂いまでしてくる」と信恵の肩を片手で撫でた。する と信恵はゴムのように後ろにつよくそり返って避けた。「じょうだん、じょうだん」。彼 はこわばっている信恵の顔に詫びた。  「縄打ちはおやじさんじこみじゃから、筋ガネがはいっとる。ぼくなんかああはいかん。 今日のために信ちゃんはもう三回も川行きをしたんじゃから」  麻生がそういうと、信恵はTシャツの袖をつまんで照れくさそうにして、「そんでも、 伊倉の鮎は年々少のうなるんじゃ」とぽつりといった。  「伊倉のダムができあがってから、川の濁りもひどい。あれじゃ鮎の命とりちゅうもん じゃ」  山本がそういうと園田はひどく慌てた仕種をして、「それじゃ、鮎も食いおさめになる かもしれん」と皿の鮎を食べ始めた。  またひとしきリサイレンの音が届いてきた。家代や尾立一帯に降った雨はダムに徐々に 染み出していたのだ。音がしている間中、みんなの会話が跡切れた。この家全体が余震に 微かに揺れているようだった。信恵は両耳を硬く覆って何かしきりに耐えているようだっ た。麻生と夏子は同時に信恵に声をかけた。音はやんだ。  「信ちゃん、今日はだいぶおかしいのよ」  夏子は麻生にいった。  「どうしてだ」  「皿割ったの 、・・・二回も」  「それがどうした」  「足が地についていないみたい」  「少しもおかしくないじゃないか 、なあ信ちゃん」  彼は信恵の顔色を気づかった。  「でも、やっばりおかしいわ」  「追いつめるよりなこというな」  「あら、皿のこといってるんじゃないわ」  「サイレンがいけないんじゃ」  二人のやりとりを聞いていた信恵は突然廊下へ飛び出していった。「おい信ちゃん」。 山本が声をかけたが、かまわずに奥へ駆けていった。奥の部屋の戸をたてる者がして、そ れきり静かになった。夏子はバツの悪そうなようすをしておもむろに腰を上げると、信恵 の部屋へ向かっていった。  「ほおっておけばいい。明日になりゃけろっとしてますよ」。山本はそう夏子に声をか けた。麻生は苦いものがこみ上げてくるようで、せっかくの酔いが醒めていくような気が した。そして、改めてまた信恵を背負いこんだ自分の軽薄さを悔いた。  「おまえ、あんなり信ちゃんを可愛がると後悔するぜ」  山本が声を低くしていった。麻生は、バカが、と呟くようにいった。そのことばは空し く自分にはね返ってくるような気がして一層心を重くした。  だれかが玄関の戸を激しく叩く音がするので、麻生はふらつく足を踏みしめて廊下を伝 って出ていき、内鍵を外すと、黒い大きな影がとび入ってきた。灯りをつけてよく見つめ ると、町の総務課長の佐山だった。だいぶ酔っている。しきりに「分会長、分会長」と呼 んで床にへたり込んでしまった。声を聞きつけて夏子がやってきた。佐山課長は時々こう して酔って転がりこんできて長じりをして夏子を困らせていたが、その夜のようすはいつ もと違っていた。平生は寡黙てまじめな役人タイプの男として通っていたが、酒がはいる とガラッと変わってしまった。しかし麻生はそこにむしろ人間臭さを見つけ、親近感を持 っていた。  酒の臭いが充満している八畳に首を突っこむと、少しつり上がったように見える目尻を ことさら鋭くさせて「酒はもういい、もういい」と山本と園田に手を振ってみせ、「奥さ ん、水だ。先ず水を一杯」といいながら音をさせて坐りこんだ。すると他の二人も佐山課 長を囲むように座を占めた。夏子もグラスに水を持ってきて彼に渡すと、麻生の横に並ん だ。不安げな四つの顔が佐山課長の口の動きを注視した。  「さっき教頭せんせのとこへ行って、その帰り、下の路を通りかかったんじゃがの、や っぱし、教頭せんせにだけいうてみなさんにいわないのはひどく悪ィよな気がしての…… 下から暫く灯りを見上げて思案してたんじゃがの・・・」  そう前置きすると、佐山はグラスの水を一息に飲み干して口を手で拭った。  「つまりはの、今日の県知事の分校訪問の件じゃがの、なにも町で特別に組んだスケジ ュールじゃなかったんじゃ。それが二、三日前に急に町に伝えられた時にゃ、だれも不安 に思わなかったがの、行事がすんで直会の時に秘書に聞いたところによると、家代分校の 再来年度募集停止が県で徐々に表面化しているっちゅうことじゃ。知事の訪問はそれに拍 車をかけることになるんじゃと。町長や校長にはいままで内々に打診してたらしい。これ からああいう大ものがドンドン学校に繰りこむしゃろ。・・・だとしたらたいへんなこと じゃ。な、分会長」  「教頭は少しもそんなこと知らなかったんですか。・・・佐山さん」  麻生は昨日の重苦しい会議のことをちらと思い起こして、そういった。  「さあ、その点はどうも……」と佐山。  食い入るように佐山の顔を見つめていた園田は畳みかけるように問いつめた。「それじ ゃ、ぼくたちはどうなるんです」。「さあ、そんなことまで……」。「家代分校はそれで 全く姿を消すんですか」。「尾立分校への統合という線が出ているということじゃ」。 「それで、町としてはどういう態度をとるんですか」。「まだこの問題はきちんと浸透し てないんで、そんなことまで……」  「高校再編成の波がいよいよここにもやってきたっちゅうわけですな」  佐山はそう締めくくると、だれかの残り酒を顔をしかめて飲んだ。他の四人はそれ以上 口をきかなかった。濃い疲労の色が急にのしかかってきてその場はひどく気まずくなった。 数ひきの蚊の羽音がみんをの頭上を旋回した。  「まだ起きてるの」  隣の部屋で先に寝ていた夏子が起きてきて、寝床の中から眠そうな声をかけた。しかし またしばらくするとかすかを寝息がもれてきた。  麻生は夏子に明日の準備をするからといって先に寝せ、自分は教科書を用意して持って 出て少しも手をつけようとせず、冷たくなった酒を一人で飲んで、もう目が冴えて眠られ なくなっていた。  少しだけ開けてあるガラス戸のすき間から冷えた夜気がしのび込んでくる。麻生は縁側 に出て空気を思いきり吸いたくなった。もうさっきからの胸のムカつきは抑えきれなくな っていた。戸の響きは闇の中へ消えた。杉林の一帯から濃い靄のようなものが漂ってきた。 ほのかな艶のある光を見せているのが久城川のようだった。深呼吸をすると用囲の闇の色 がドロッと流れ入るような気がして彼はむせるような咳をした。途端に胸部と腹部を締め あげるような不快感が走り、とめどもなく吐いた。酒臭い異物は音をたてて踏み石の上に たまった。窒息しそうになって喘いでいる彼の限前を「連れていってくれんか」と懇願し ていた祖母タキの顔が浮かんで揺れていた。
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