瀬 本 明 羅

山 峡 へ



                  第1章

 黒塗りのプレジデントが先導車とともに狭い車道をはみ出して雨後の校庭へゆっくりは

いりこんでくる。緩んだ土に深く長い轍をつけて停車すると、続いて坂を大小の車が七、

八台登ってくる。各々前車にならって校庭の中へ押し込んで停車させ、黒や紺の夏上着を

つけた男たちが中から出てきて、盛んに校舎を指さして首肯きあっている。案内役らしい

小男が玄関に向かって小走りに近寄ってくる。

「お出ましだ」

 職員室から外のようすを窺っていた教頭はだれにいうともなくそういうと、玄関に出て

いった。残された他の職員はばらばらと重い腰を上げ.全員起立して待ち構えた。

 知事は銀縁の眼鏡の奥に人なつっこそうな目を見せて室の中をのぞきこんで一礼すると、

随行者とともに教頭室の方へ案内されていった。

「なかなかハンサムだの」

 一行の足音が廊下の向こうへ消えるのを待ちかねたようにそういうものがいた。

「この前の選挙ン時、あの顔でおなごの票をボカボカ稼いだというけん」 

 別のものがそういうと、

「これで分校の改築は保証されたも同然じゃ」

 と、うわずった声でいうものもいる。

 知事の視察は、その日の数日前に急にもち上がったものらしい。家代町の町制三十周年

記念式典に祝辞を述べにやってきて、その足でこの分校を訪問するという計画が教頭に伝

えられたのは、前日のことであった。アワを食った教頭は午後の授業を二時間も割いて校

内外の大掃除にあたらせた。放課後臨時の職員会議がもたれ、迎える態勢について協議さ

れたが、あまりに突然なことなのでいい結論は出なかった。それにしてもどうして知事が

自ら足を運ばなければならないのか、という疑念が教職員九人の心を一つの糸でつないだ

格好で、話は一つところを堂々巡りして進捗しなかった。午後五時ごろになってやっと、

とにかくなりゆきに任せようということになり、もし授業中であれば授業参観をしてもら

い、同時に各部屋を案内し、校合の老朽化の具合や、施設・設備の貧弱さを訴えよう、手

すきのものはできる限り各係の部屋にいってその説明の任にあたろうということになった。

 麻生則夫は管理棟の三階の西にある図書室へ走った。昨日やり残していた目録カードの

整理の仕事を急いでやり終えてしまおうと思った。図書室の戸をあける時いつもするよう

に、彼は両手を把手にかけて力一杯引いて、少しあきかけたすき間に手をつっこんでもう

一度全身の力を手に集中させて引き開けた。戸車を換えれば簡単に直せる。わかってはい

るのだが、PTAの雇員の校務技術員が入院していることを理由にして、それまで手をつ

けずにいた。

 ──何と蟲の多い学校だ。
 
麻生は未整理のカードケースを引き開けて驚いた。銀色をした埃のような子蟲がたくさ

んカードの上を這い回っていた。蟲はいっせいに奥の暗さを求めて逃げようとする。指で

潰したのはそのうちのほんの数匹だった。

 ──昨日だってそうだ。彼は思い出す。午前中の授業の時に女子が急に悲鳴をあげて立

ち上がったので駆けて行ってみると、百足が二匹床に蠢いていた。山が近いせいか、熊蜂

が飛び入るのはよくあることだった。狭い職員室にはしょっちゅう蟻が歩いている。体育

館の窓から名も知らぬみごとな蝶が入り、全校集会をしている生徒の頭上を旋回していく

こともある。

 麻生はその日の朝は二時間ほど空き時間があったので、当然持ち場であるここで知事の

校内巡視に応対しなければならなかった。ケースの心棒を外してカードの順を正す作業を

つづけながら、這い出してくる子蟲を指で押しているうちに彼は底知れぬ腹立たしさを覚

えた。それはすでに消滅しているはずの感情に違いなかったが、突如変に生々しく甦って

きた。──この右手だ。今のように滑らかに動いてさえいたら、あの時みんなからけむた

がられなどしなかったんだ。回復は案外早かった。今ならトゲを含んだ同情のことばなん

か私にはいらないはず。ケイケンワンからくる書痙なんてまるであっけないもの。この手

を本校の校長に見せ付けてやりたい。──いや、ほんとはまだ治ってないかもしれない。

ほら、この足の速いやつはもう三度も潰しそこねているじゃないか。いや待て、これはこ

いつが速すぎるんだ。そうに違いない。ああ、それに夏子だ。あいつ変にうきうきして、

まるで別天地に来たみたいだ。その証拠、腹部にむくんだ脂肪がついてきて。けど、あい

つにも痛いところはある。信恵を内心憎んでいることは素振りでわかる。・・・ともかく、

われわれにこの別天地を恵んでくれた運命に感謝だ。

 カードをケースに納めると、麻生はこの三棟の狭い校舎のすべての物音に耳を傾けた。

 南の平屋の新館には二、三年の教室があり、そこからは一限目の授業の声が開け放たれ

た窓から時々高まっては消えてゆく。特別棟の北の端の一年の教室の方向からはもの音ひ

とつしないかわりに、久城川のP音がからみつくように漂ってくる。裏山からは風の葉裏

を返す音に時たま蝉の声も混じって、遠く近く音の帯がゆらめいてくる。

 そういう音の中に麻生は異質な硬質の足音を聞き分けようと息をこらした。教頭が先導

するに違いない。すると、心もち右足を床にこすりつけるように歩く彼の足音はいち早く

ここに届くはずだ。そして、つづいて数人の足音。するとぼくはここでこう身構えて。・

・・またひとしきり蝉の声が風のように湧きあがってきた。

 知事は図書室にはいる時また黙礼した。それは麻生に対してではなかった。彼は麻生に

一瞥も与えず、ぐるりと書架を見回しながら教頭の説明を聞いていた。耳の上の部分に白

髪を見せた横顔は、学者知事という異名をとっているだけあって蔵書の内容を詳密に確か

めるといった風で、麻生は自分の心の秘密を探られているような気がして体を硬直させて

いた。しかし反面心の底では、いままで用意していたさまざまなことばが沸騰しそうにな

っていた。それは僻地勤めを立派にこなしていることを認めさせる自己弁疏の空々しい内

容のものだった。閉塞的な世界につかっていると、外部からの訪問はすべてすべて自分に

向かって投げかけられた救いの糸のように感じられた。訪問者に精一杯のことばを浴びせ

掛けて自己の存在を認めさせ、向こうから返ってくる手応えを肌で受け止め、自分がここ

で生きている意味を見出す思考がいつの間にか定着していた。

 教頭はここでの自分の説明を早々に切り上げた。

 「蔵書の少ないのには驚かれましたでしょう」

 そのことばに対して知事は目で笑って答えようとしなかった。

 側近の一人が代わって、

 「となりの尾立分校よりいいじゃないですか」

とこざかしげな口調で応じた。教頭はすかさず、

 「基本図書の十パーセント余りなんですよ、それでも」

とやり返しながら、しきりに麻生に目配せした。心もち体が前のめりになるのを感じなが

ら彼は口を開こうとしたが、溢れようとすることばを喉の奥で呑み込もうとする力が働い

てひとこともいえなかった。

 「うちの図書係です」

 たまりかねた教頭はそう紹介することで気まずさをまぎらわそうとした。

 「どこからここにおいでですか」

 知事は彼に聞いたのか、教頭に聞いたのか区別がつかないような曖昧な聞き方をした。

 「湖西市からでございます」

 彼の機先を制するように教頭が答えた。

 「ほう、宍道湖の近くだ。たいへんですね」

 「ほとんどがこっちで宿をとっております」

 「そうなるでしょうね。頑張ってください」

 そういいながら知事は時計をちらっと見た。数名の側近が気を利かして先に立って部屋

を出た。すると知事はこんどはきちんと麻生に黙礼して出ていった。最後に教頭が、

 「麻生さん、ご苦労さん。よく整理してあったね」

といい残して出て行く。

 足音が階下へ消えると、雑音まじりのチャイムが上から押さえつけるように鳴った。す

ると、校舎内に生徒たちの声が堰をきったように広がりだした。



 「麻生分会長としては今日のこのできごとをどう見るかね」

 山本教諭は興奮さめやらぬといったようすでそういった。

 「寒村に春風吹く、じゃね」と麻生。

 「夏に春風もいなじゃろが」

 山本は体操服姿のままでむき出した日焼けの太い腕を二、三度グルグル回した。

 「ほんとはな、校舎ぶっ建てることより、遠隔地派遣の制度を根本から洗い直す方がさ

きじゃないか。このままじゃ本気でやろうとするものをダメにしてしまう」

 そういったものの麻生は自分が果たして本気だといえるだろうかと思った。義務年限の

四年がすむのをひたすらに待ち焦がれているのが本心じゃないのかと自分に問うてみた。

でもそれを終えて湖西市の家に帰って、残してきた母や妹、それに祖母とにぎやかに住ん

でみたところで何の生きがいになろうか。事実こんどの場合彼らを振り切るように出てき

ていたのだった。

 異動の問題が頭をもたげ始めた頃、彼はできるだけ大袈裟に組合を楯にして阻止する構

えを見せたが、それまでの僻地経験が浅いこと、いやそれにも増して根本に右手の書痙と

いう原因があることは否定すべくもない事実であり、内示の頃になるとむしろ積極的に出

ていこうという気持ちになっていた。やはり一番喜んだのは妻の夏子だった。さまざまな

問題を孕んでいる自分の家から少しでも遠ざかって生きられることが大きな彼女の魅力だ

った。だが麻生のほうには、残したものを見殺しにする気持ちは毛頭ないはずだった。

 二人話しているところへ数学の園田が首をつっこんできて、声を低くしていった。

 「安部さんなんか、佐倉宗五郎をきめこんだということじゃけん」

 「知事に何いったんじゃろ」麻生は追いつめるように聞いた。

 「資料室で、部屋の説明はぬきにして、分校人事の抜本的改革を訴えたそうじゃけん。

そしたら知事は熱心に耳を傾けたそうじゃ」と園田は説明した。

 「こんどの人事じゃ、安部さんが最も被害を受けたんじゃけん、気持ちは分かるなあ。

だがねえ・・・」

 さすがの山本もあきれたような表情を見せてそういった。

 「社会科は一人じゃ。やりきれんじゃろ。何分五科目もあるからね。・・・だが、相手

が知事じゃ暖簾に腕押し、聞き流すに決まっとる」と麻生。

 安部の件については、転勤した前分会長が全県的な立場から執行部と運動を展開したが、

どうしても生徒の漸減の傾向は各教科一名の線を呑み込まざるを得ない大きな根拠になり、

とうとう社会科一名減に対する組合的立場からの異議の申し立ては通らなかった。

 「九名のうち、六名もの転出があったんじゃから、残された安部さんなんか、ひどく困

ったんだと思う」

 そういいながら麻生は職員室の窓から体育館で防具をつけて剣道の指導をしている安部

を見つめた。面はつけていない。竹刀を杖のように立てて時々声を荒げてどなっている。

 「規則通りに動けば、否応なしに出さして貰えてまことに結構じゃが、このままゆくと、

四年先はまた大異動になるな」

 山本はそういって立ち上がって「あと三年半、あと三年半」と大声でいいながら、また

腕をグルグル回した。

 すると園田が、

 「ちょっと山本さん、今から逃げ腰じゃいけないな」

というと、スポーツがりの頭をかいて「じょうだん、じょうだん・・・六年でも七年でも

いるぜ。やりたいことがウンとあるんじゃから」といい、深呼吸をした。他の教員は一様

に押し黙っていた。

 「ところで今夜きてくれるじゃろ。山本さん、なあ園田さん」

 麻生は気になっていたことを一気に吐き出すようにいった。

 その日麻生は二人を宿に招待するように計画して、妻にも準備させていた。信恵も早め

に下校して妻を手伝っている筈だった。

 二人はほとんど同時に返事した。山本は舌鼓を打ちながら笑顔になった。

 「信ちゃんの酌といきたいところだね」

 すると園田は、「山本さん、生徒の酌とは穏やかじゃないね」と真顔で抗議した。

 「じょうだん、じょうだん。取り消し、取り消し」と山本は顔を真っ赤にして盛んに腕

を横に振った。

 麻生は急いでその日の教務日誌をつけた。記事の欄には「県知事、秘書ら数名突然来校。

校内各所案内す。この一件の真意はどこに」と記した。ボールペンの字はやはり書きにく

いと思った。苛立ちが先に立ち、机上を這っていた蟻を立て続けに潰した。 


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