夢酒場

村上 馨


 いくつになっても女は恋に興じたいものだ。もてはやされるのは女の勲章とも言える。

が、それも俗塵にまみれていけば、やがてのこといつしか安逸な方へと向きを変えてはい

くだろう。だが、世の中には、少なからずこの本能めいた指向を顕著に持ち続け、いくつ

になっても男の含みあるまなざしに輝くばかりの瞳を投げ返す女がやはりいるものである。

結婚してようとしてまいと。それは男にとってやはり憎めないものだ。

 こずえと名乗ったその女も、歳とは裏腹にやはりそうした無邪気なほどのあどけなさと

一方で天真爛漫かつ奔放な女の官能のほとばしりを感じさせるものを持っていた。胸とき

めかせる恋との遭遇には、いついかなる機会をも逃さないと思わせるスタンバイの信号が

灯されている。こずえという名が本名なのか源氏名なのかほんとのところは結局わからず

じまいだった。(本人は本名だとは言っていたが・・・・)



 業界の会合があり、そのあと皆で夜の街に流れた。懇親の宴席が終わって二次会までは、

参加者全員が打ち揃ってつき合っていたが、さすがに三次会ともなると、それぞれ思い思

いの好みのグループに分かれ、三々五々散って行った。

 私はN氏と二人きりで流れた。N氏とはそう肌が合う間柄でもなかったが、N氏には仕

事のことで頼んでいたこともあったし、そのきちんとした返事もまだもらっていなかった

こともあった。そのことで、N氏が会合の途中でも、懇親の席でも、今まで何の素振りも

見せなかったところをみると、色よい返事のもらえる可能性は少なかったが、それでも当

人の口からちゃんと確認をしておきたいという気持ちがうごめいていた。

「今夜は俺の店につき合え。安いが面白い店だ」と、先立つN氏が入ろうとした店先に近

づいたとき、私はその怪しげな店構えにまず驚いた。怪しいというのは正しくないかもし

れないが、店構えに漂う雰囲気に、私が常日頃行くような店とはちがうものを感じとって

いたのはたしかだった。鉄筋や鉄骨造りの今時の何階建てにもなった雑居ビルでもなく、

場末の平屋の長屋造りで、しかも旧来の木造の古ぼけた建物で、狭い間口から奥へと四、

五軒ほどの店が入り組んでいる。その一番手前入り口、道路に面した店にN氏は勢い込ん

で入ろうとしていた。『夢酒場』と書かれた電光看板にはなるほど洒落たロマンっぽい響

きはあったが、その配色たるやどうもいただけなかった。まるでどこかの風俗店と見紛う

ほど生々しいピンク色で彩られていた。この場合、やはりネーミングよりも視覚的という

か色彩的インパクトの方が人目見には勝る。

 N氏がドアのノブに手をかけたとき、すでに中から歌声とも嬌声ともつかぬざわめきは

漏れてきていたが、ドアを開けるなり、それはどっと雪崩のごとく押し出されてきた。そ

う広い店ではなかった。入り口側にカウンター席が十席余り、奥は一面だだっ広いボック

ス席になっていた。そのボックス席はもう宴たけなわハーレム状態だった。一人和服に身

を固めたママとおぼしき女は、すでに襟足を崩し、グラスをかざし、ボックス席のど真ん

中で飲めや歌えやの気勢を上げていた。なるほどN氏が面白いと言ったのも肯ける。

「ここは、スナック?それとも・・・・」と、訝る私に、「普通ののスナックだ」と、N

氏はことも無げに言った。それが可笑しくて私は思わず噴き出してしまった。

 当然のこと、喧噪のボックス席を尻目に空いているカウンター席の中ほどにN氏と私は

陣取った。

「あれがママだ」と、N氏は私に目配せすると、さらに付け加えて言った。

「中学のときの後輩でなあ、人柄はよくわかっている。人も自分も楽しませることのでき

るサービス精神旺盛な面白い女だ。あけっぴろげだがきついところもある」

「なるほど・・・・」と、私はただ相槌を打った。

 店のホステスは、ママを入れて全部で四人。私たちの座ったカウンターの前に二人、一

人は、まだ二十代そこそこ。この店で一番若そうな娘だった。器量も悪くない。パンツス

ーツを身につけていてスタイルも佳い。話しぶりも、若いに似ず、チャラチャラしたとこ

ろがなく、落ち着いていて気立ても良さそうな印象を受けた。案外この女の存在でこの店

はバランスが保たれているのかもしれない。もう一人は、明らかにフィリピン国籍と見て

取れた。日本語がまずまず話せた。聞けば日本人と結婚し、すでにこちらで暮らしている

のだと言った。まだ二十代後半と思えたが、その種のパブで大枚稼ぐには、いささか太り

すぎた体と思えた。『夢酒場』と言うだけあって、ここは、美人を堪能したり触ったりす

るところではなく、ただ酔いしれる場所なのかもしれない。一人落ち着いて飲める酒場で

はなさそうだった。

 後ろのボックス席からやけに甲高い声が響き渡る。その声の主がほかならぬこずえだっ

た。はじめは、年甲斐もなく、まあなんと派手な女だろうと思ったし、淫らとも映った。

誰彼となく両手を相手の男の後ろ首に回しては踊りまくっている。まあ今日は今日、二度

と来る店ではないなと、そのときは思っていた。だが、そのこずえが、私の前のカウンタ

ーに付いてからは、私の態度はがらりと変わった。

 やがて、N氏の見知りの客が三人連れで入って来て、N氏の横に座った。それでN氏は

また勢いづいた。客と話し込みはじめた。そのとき、私はカウンターの隅に一人座り、静

かに飲んでいる男と目が合った。私は、賑やかな男と二人連れ、はじめから私に気が付い

ていたのに違いなかった。以前はN氏同様同業のライバル社にいて、人となりも幾分知っ

ていたし、私の行き付けの店でもたまに会うことがあった。社長と折り合わず社を辞めて

今はケーブルテレビ局で加入者の工事業務に携わっていると人づてに聞いていた。女関係

も多い男だった。謎めいたところもある。なぜか私は嫌な予感がした。彼がただ酒を飲み

たいという目的だけでこういう店に出入りする男でないことはよくわかっていた。この店

で、彼のお目当ては誰だろう。

 どうしてこずえに興味を持ったのだろう。歳は、低く見積もっても、とうに四十を越し

ていると思われた。私と話しはじめてから、ときどき厨房に入っては、一人目頭を押さえ

ているのが目に映った。私の前にいるときでも、私に背を向けて、ときどき後ろの棚のボ

トルやグラスを取り出すとき、目頭を押さえないまでも、うっすらと目が潤むのを私は見

逃さなかった。その意味するところが私にはとても気になった。私を前にしているときは、

明るすぎるほどに明るかった。歳には似合わないほど、くりくりっとした大きな目を剥い

て私を見つめた。襟足が白く、後ろ髪をアップにしたその姿には艶めかしさが匂っていた。

こずえの背後に忍ぶものが気になった。

 二度ばかり、こずえと踊った。その眼差しが私をじっと捉えて離さない。見つめ返す私

の目は、その目に潤むものの意味を問いかけているのだが、その目は何も答えようとはし

ない。それにしても気の大らかな女だった。アピール力という点では、この店ナンバーワ

ンだろうし、いやこの界隈探したってこれほどパフォーマンス豊かな女は少ないだろう。

それほど身振り手振りに表情豊かなものが溢れ出ていた。昔バレエをやっていたというだ

けあって上半身の姿勢もすっくと保たれていて、脚も長くはないが、つま先まで筋が通っ

ているほどすらりと伸びていた。年齢を補って余りあるほどのものをその表情にもスタイ

ルにも持っていた。そういう女にはなかなかお目にかかれないものである。問題はそのポ

リシーだった。金とか勢力にものを言わせる手強いファンもかなりいそうな気がした。手

を出せば、私などは首をへし折られるかもしれない。

 やっとママがカウンターの方へご帰還遊ばして、今度は人が変わったようにすましこん

で私の前にきた。ママに促されてこずえは場所を替えた。N氏が改めて私をママに紹介し、

私に名刺を出すように促した。

「ママ、この男また使ってくれるそうだ。こずえちゃんがたいそう気に入ったようでもあ

るし・・・・」なとど突っ込みを入れた。

 N氏がまた隣客と話し込みはじめたのを機に、私はママにこずえのことを訊いてみた。

まだ勤めはじめて四ヶ月なのだと言った。人づてに紹介されたのだと言う。離婚して収入

がないのではじめたのだと言う。水商売はここがはじめてとも言った。

「客受けが良くて助かっているのだけど、自分が気に入ると、周りが目に入らなくなって

しまうから困るのよね。客への気配りも足りない。もっとお客さんには平等に振る舞って

もらわなくちゃ。興に乗ると、ほんとに酔っぱらってしまうからね。始末が悪いのは、私

だって自分と同じと思っていることよ。私を見て振るまい方覚えたと言ってるぐらいだか

らね。肝心のところをぽっかり見落としてる。ほんとは、お客さんを酔っぱらわせてげな

くちゃならないのに、先に酔ってしまう。まだまだお嬢ちゃん気分よね。この仕事長くや

っていこうというなら、考え方変えてもらわなくちゃならない。あなたのこと気に入った

ようだから、あなたからも言い含めてやってよ」などと、ご丁寧にも辛口の分析までして

見せてくれた。

 当たらずといえども遠からずということなのかもしれない。だが、ものは見方によって

はどうとでも変わる。言外にはたぶんに嫉妬の思いが籠められている。それほど、こずえ

には、この店のしたたかなママといえども持ち得ない魅力がある。まさにこずえの存在こ

そが、私にとって予想外にも『夢酒場』となりつつある。客の心理は一様ではない。ママ

はママでたいしたものだが・・・・。

 時間が過ぎ、N氏は例によってくだを巻きはじめた。こうなれば退散するに如くはない。

私の気掛かりなことは、案の定、先刻たった一言で片づけられていた。

「いろいろやってみたけどなあ・・・・メーカーの思惑もあってダメだった」と。

「今夜は、この人を置いて先に失礼します。今日のは先ほどの名刺のところへ送っておい

ていただけませんか」と、ママに言い置いて席を立った。

 ママが「こずえちゃん、お送りしてあげて」と、ボックス席にいたこずえに大声で言っ

た。ママは、それでもこの私を金づるになる男とでも値踏みしてくれたのかもしれない。

 外に出た私をこずえが小走りに追いかけてきて言った。

「また来てくれる?」

「ああ、もちろん」

「いつ?」

「もちろん、あ・し・た・だよ」

「ほんとに・・・・?だったらこずえとてもうれしいよ」

 凡そ中年女らしからぬ言葉遣いだった。それがまた心地よかった。少なくとも、明日来

れば、N氏が居ることも、知り合いの謎めいたM氏が居ることも、確率としては極めて低

いはずだった。外の鈍い明かりにも、こずえの瞳は輝いて見えたが、さすがに目尻の皺か

げんは、歳の隠せないものを感じさせた。それが、私の興を殺いだわけではない。むしろ、

こずえの目頭から滲み出る涙をそこにとどめ置こうとする徴とも受け取れた。



 店が何時から開いているのか知らなかったが、私はこずえから彼女が店に出る時間と聞

いていた八時を少し過ぎた時間には、もう店に入っていた。こずえは、私を見るなり、素

っ頓狂な声を上げた。

「わあ、うれしい。こんな早い時間からもう来てくれたんだ」と、誰彼憚らず私の首に両

手を回し抱きついた。私は照れた。幸いなことに、ママはまだお出ましには及んでいなか

った。その夜は、ボックス席にも客はなく、歳だけだが、先輩格のこずえは遠慮もなくカ

ウンターから出て、私の横に座った。そしてはしゃいだのである。これがよくない兆候の

はじまりだった。こずえを挟む格好で隣に二人連れの中年客がいたのだが、最初は冗談も

飛ばしていたが、私とこずえがデュエットで歌を歌うなど、親密ぶりを匂わせはじめたあ

たりから片方の男がえらく不機嫌そうになってきた。険悪なムードが漂いはじめた。

「向こうにもついてあげろよ」と、私はこずえにこっそりと言った。こずえもそれを感じ

たらしく、「ちょっと待っててね」と、言ってすぐにカウンターの中に戻り、男の前に付

いた。

 私にもわかりはじめた。団体の使うボックス席は別として、カウンター席の一人か二人

連れの中年客は、結構というか相当に長居をする。この前来たときもそうだった。誰も彼

もお目当ては、こずえなのだと直観した。その客もこずえと話し出すと、すぐに機嫌が直

った。そういう男たちにとって、さしずめ私は積年培われたこの場を掻き乱す闖入者なの

かもしれなかった。私とこずえが歌った歌の科白ではないが、恋が魔法であるとするなら、

そこにトリックは付きもの。それは、仕事だってこの人生だって同じことだ。毎日、自分

の探し求めるものを意識しつづけているなら、いつか必ず巡り合うものだ。都合のいい話

ではない。そのときの煌めきは、あらゆる障害をものともしない。人のコツコツと積み上

げた時間の労苦でさえ、飛び越してしまう。それゆえ、私がその加害者であったり、被害

者であったりする。こういうことは、まあおあいこなのかもしれない。

 こずえとじっくり話をするには持久戦となりそうだった。先客の二人連れはいっこうに

腰を上げそうもない。私がどうしても突き止めたいもの、それは、こずえの目を潤ませる

涙の意味である。私がこずえのからだを求めたとしても、そこに官能の歓びはあるにして

も、突き詰めるとそこに辿り着く。それは、こずえにしてみれば、なんとも失礼な話だっ

たのかもしれない。

 厨房に入ろうとして、私の方をちらっと見たこずえを手招きして呼び寄せ、何時に退け

るのかと訊いた。十二時には間違いなく上がると言ったので、食事に誘った。私が先に出

て待つ寿司屋の店の名前を告げた。こずえは目配せして肯いた。そのあうんの呼吸に私は

悦に入った。



「お久しぶりですね。お元気でしたか」と、店のマスターは微妙な笑いを顔に含ませなが

ら言った。その意味するところは、『今夜はこのあとどなたがいらっしゃるんですか』と

でも言いたげだった。彼は、私が夜更けて一人鮨をつまみにくる男でないことはよく知っ

ていた。

「連れが来るまでビールにするよ」と、私は先んじて言った。もうマスターは何も言わな

い。そのあたりは充分すぎるほど心得ている。その表情の奥には、もう数え切れないほど

の男と女の顔が詰まっている。そして、その幾多の組み合わせも、長い間あるいは短期間

に入れ替わってしまうことが多いのもよく承知している。そんな男と女の綾なす中で彼は

長年稼いでいる。それゆえ値段は高いのだが、ホステスたちの需要は高い。むろん彼女た

ちが自分で払うことは稀で、連れの男が黙って払うのが世の習いだ。

「待ったあ?」と言って、こずえは勢い込んで入ってきた。十二時をまだやっと過ぎたば

かりだ。

「おなかすいたなあ。おいしいものいただいていい?」と、座るなり私に寄りかかりなが

らねだった。かなり酔いもまわっている。俯いて包丁をただ機械的に動かしつづけるマス

ターだが、その表情を注意深く窺えば、こずえがこの店に誰かとよく来る女であることぐ

らい、言わずもがなのことだった。予告通りに、こずえはよく食べた。それも、お品書き

に『時価』と書いてあるやつだ。

「何かスポーツでもしているの?余計な脂肪ついてないみたいだけど・・・・」

 それは、背中に手をまわして踊っただけですぐにわかる。

「家でまだバレエしているよ」と、言うなりこずえは立ち上がり、水平に広げた手に、真

っ直ぐ伸ばしてそのまま持ち上げた脚のつま先をきちんとくっつけて見せた。もちろんス

カートを穿いたままの格好だ。下着も見えるはしたない格好と言えば言えるのだが、こず

えがすると、嫌らしく見えないところが不思議な女だ。マスターは、笑っている。

「相変わらず、歳をとらない、きれいな脚だねえ。ほれぼれする」と、わざと私を意識し

たもの言いをマスターはして見せる。

「ありがと」と、返しながら、こずえは含みある眼差しで私を見つめる。また目頭がわず

かに潤んだような感じになる。涙が滲むから私を見つめるのか。それとも、私を見つめる

と涙が滲むのか。この違いは大きいようにも思えてくる。

「行こう。今夜。このままホテルへ・・・・」

 さも怪訝そうなふうを見せながら、こずえは私の顔を斜に覗き込む。食い入るような強

い視線を私は感じた。

「今夜はダメ。子どもと約束があるの。子どもだけは裏切れない」

 私は驚愕する。予想だにできない言葉だった。言い訳めいた言葉とは、私は受け取らな

かった。こんな時間に子どもといったいどんな約束があると言うのだ、との思いからでは

なかった。子どもだけは裏切れないと言ったその言葉そのものへの思いからだった。男に

は裏切るのか。その思いはたしかにあった。だが、そのとき受けたショックの大きさは、

ただそれだけのことからきたものとも思えなかった。ただ、それ以上はどれほど自分を突

き詰めて考えてみてもわからなかった。

「いつなら都合がいい?今度の土曜日は?」

 こうなると、私は執拗だ。それが言い訳なら具体的な約束はしないだろう。

「いいよ」

 こずえは、あっさりと肯いた。

「わかった。今度の土曜日、また八時過ぎには店に行く」

 店を出て、こずえを一人、先にタクシーに乗せると、私は一人とぼとぼと歩いた。道す

がら、私は尚も考えあぐねていた。『子どもだけは裏切れない・・・・か』



 約束の土曜日。私は予告通り、八時過ぎには『夢酒場』のピンク色の看板の下に立って

いた。N氏とここを訪れたのが同じ週の火曜日のこと。その明くる日の水曜日にまたここ

を訪れ、こずえを誘った。この日でまだ五日目ということになる。性急と言えば性急だ。

私は、ベッドでこずえを抱き終えたら、そのときこそ、あの滲む涙の意味をストレートに

訊ねようと思っていた。そこでなら、こずえは答えてくれそうな気がしていた。訊いては

いけないことを訊くには、そこしかない、と・・・・。

 こずえと三たび顔を会わすことにわくわくしながら、私はそっとドアのノブをまわした。

中にまだ客の姿は一人もなかった。静かである。それもどこかしら異様な感じの静けさで

ある。時間を過ぎているのに、そこにこずえの姿はまだなかった。遅刻するような女では

ない。ママは、例によってまだ出かけて来てはいない。

「こずえちゃんは・・・・?」

 物静かな若い娘の方に訊ねた。

「彼女・・・・やめました」

「えっ、今なんて・・・・?」

「おととい、ここで騒ぎがあったんです。それで彼女ここにいづらくなってやめたんです」

「何だって・・・・?もっと詳しい話聞かせてくれないか」

 店の二人は、顔を見合わせた。言ってよいものかどうか思案するふうだった。私を前に

しては、言いにくい話なのだ。

「ひとまず何か飲ませてくれないか」

 私は、呼吸を整え、それから先の展開に備える必要があった。

「きみたちも飲めよ」と、二人に促した。飲みながら多少酔いもまわれば興も乗る。元来、

他人の醜聞ほど酒の肴によいものもない。こちらが訊きたい以上のことを話してくれるに

違いない。

 やがて、二人がそれぞれ互いの了見で、補足し合いながら話してくれたことの顛末を要

約すると、凡そ次のようなものだった。案の定、この私も、影で重要な役回りを演じてい

たことになる。

 事件はこうだ。私が二日つづけて店に行った明くる日の木曜日のこと。最初の日に、私

が出くわした例の謎めいたM氏が、またこの日もやってきて、こずえと何やら訳ありげに

話していたのだと言う。二人のそばにいたフィリピン人の方の女の口を借りれば、どうも

私のことをあれこれ聞き出し、どうも私とこずえが怪しい関係にあるのではないかと疑っ

ているふうだったと。そのうち、急にひそひそ話になったから、たぶん毎度のことで、M

ちゃんがこずえちゃんを誘ったのではないかと思うと、私見も交えながら話した。その誘

いにどうもこずえがこの度は難色を示したと言うのだ。M氏は、いつも顔にはあまり表情

を出さない人だが、その日は、急に顔色が曇り、明らかに不機嫌になったそうだ。飲みっ

ぷりも激しくなったと言う。

 悪いことには、それからややあって、私が二度目に店に来たとき、二人連れで飲んでい

た片方のこずえに気のある方の男もその夜は一人でやって来て、M氏の隣に座ったのだと

言う。座るなり、こずえに向かって、この間の色男(むろん私のことを指してだが)は、

その後もおまえに会いに来るか、とけしかけたと言う。来ないわよ!と、こずえはむっと

して言ったらしいが、目に涙を溜めはじめた。男は、店に入る前からほかの店で相当きこ

しめしておいでだったらしく、腹に据えかねる思いをぶちまけはじめたのだと言う。矛先

は、私からこずえの方に向いていたのだと思う。そこへ、女を泣かすなよ、とM氏が割っ

て入り、とうとうM氏と男の掴み合いの乱闘に発展してしまったのだと言う。私たちでは

止められなかったが、ちょうどママがやって来て、喝を入れ、これ以上つづけたら警察を

呼ぶわよと言って二人を引き離したので、やっとその場がおさまった、と。このあとすぐ

に、こずえは帰り支度をはじめ、ママに、短い間でしたが、お世話になりました。最後ま

でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした、と詫びそのまま店をあとにしたと言う。

その後は、M氏も男も店に来ないのだと言う。

「私がその場に居合わせたら、いったいどうなっていただろうね」

「もっとはっきりしてよかったんじゃない」と、いつも落ち着いて物静かな女が意外なこ

とを言った。なるほど、この事件も二人や店にとっては、それ以上の話ではないのかもし

れなかった。



 話が終わったら、早々に店を出た。出たとたんに打ちのめされた。『夢酒場』の看板が

虚ろに見える。こずえに悪いことをしてしまったとの思いも強かった。M氏とこずえは関

係があったものと、私は踏んでいた。それとなく、こずえが、Mちゃんとは知り合いなの

と、私とM氏との親密度合いの如何を探るようなニュアンスで訊いてきたことがあって、

気にかかっていたし、M氏のこと女に関する行状は、いろいろなところから耳に入ってい

たからでもある。

 こずえともう逢わない以上、こずえが私に見せたあの涙との決着もはからねばならなか

った。こずえにとって『夢酒場』は、何の場所であったろうか。思うに、こずえは夫と別

れた今も、激しい恋慕そして未練を懐きつづけていたのではないのだろうか。その溝をう

ずめるために『夢酒場』はあったのかもしれない。こずえが、ふとしたはずみから、夫に

何か不義理なことを、夫にしてみれば、こずえの裏切りと取れる行為を働いたのではない

か。こずえの人となりなら、人からいいように誤解されて当人も予想だにできない災厄が、

いくら降り注いできたとしてもおかしくはない。その事実に呪縛され、こずえそのものま

で、夫は否定する羽目に陥ったのかもしれない。そして別れた。と、まあ、私の勝手な憶

測にすぎないが・・・・。

 こずえにしてみれば、誰からも、すべてを許していたと思える人からも、わかってもら

えないことが哀しかったのかもしれない。単なる言葉の羅列や憶測で整理のつく問題では

ないこともたしかだ。ただあるのは、私は、こずえが人知れず私に見せた涙を愛おしく思

うということだ。それで充分ではないか。

『子どもだけは裏切れない』

 それは、こずえがその自己を守るため、唯一こずえに残された最後の砦であったのかも

しれないと思えてくるのだ。天真爛漫この上なく咲き、誰からも愛され、そしてそれゆえ

裏切られていく。こずえの中で唯一強く、明らかな形で意識されていた意志とでも言うべ

きもの・・・・。

 もう一度、と思いきびすを返した。夢ではなく、『夢酒場』の看板はたしかにあった。

それも、あの日と同じように、どことなく怪しげな雰囲気もそっくりそのままだ。できる

なら、もう一度、今度はたった一人で、その名に惹かれて迷い込んでみたいものだ。そう

したら、今度こそ、もう一人のこずえにきっと逢えるのかもしれない。