雪 の 日

                       瀬本明羅

 ある土曜日の朝、姉の徳子からメールが届いた。章一が開いて見た。  連日の寒さで、城田湖が全部凍ってしまいました。湖が凍るのは、二十年ぶりというこ とで、こんな山地でも観光客が絶えません。みなさんお揃いでおいでください。湖の上を 歩きましょう。  そういう内容であった。  姉のところまでは、同じ県内とは言え、雪道のこと、ほとんど一日がかりの難儀な行程 であった。  山陰本線から支線に乗り換えて、章一は中国山脈の高地の沢田町に向かった。  移りゆく雪景色を眺めながら、姉の若いころの出来事を思い出していた。  姉とは言っても一回りも違ったので、早死にした母の姿を思い重ねていた。姉は姉で母 親として章一に接しているようであった。父は、四十九日が済んだら、さっさと再婚して しまった。義母は、章一に対しては、殊更冷たく当たったわけではないが、産まれた子ど もにこころの大部分を奪われていた。父は、母親の違う三人の子どもの中で、どう振舞っ てよいか、いつも迷っていた。その挙動が姉のこころに棘をさした。だから、父の反対を 押し切って、半ば駆け落ちでもするように中国山地のある農家の長男と一緒になった。  いきさつからして、徳子からの便りは、すべて章一が読むことを意識した内容になって いた。「みなさんお揃いで」と記してあるが、実質は、章一ひとりを指していた。  馥郁と匂いなき香り氷湖の芯   麦城  母方の従兄が詠んだ句を、章一は突然思い出した。城田湖は、出雲地方で言う「堤(つ つみ)」の少し大きいくらいのもので、そこから流れ出る水は、巨大な滝となって尾瀬川 の源流となっていた。しかし、凍結したため、滝の水は涸れていた。かわりに氷湖が忽然 と姿を現したのである。「匂いなき香り・・・・・・」。章一は、氷湖を前にしてその言葉をか み締めていた。  凍結した水面の対岸には、人影がたくさん動いていた。もう、夕方であるのに、一向に その数が減らない。  スケートをしているもの、氷に穴を開けて釣りをしているものなどと思い思いの姿で湖 面と戯れていた。  章一は、ケイタイを取り出し、姉にメールを送った。  「城田湖に着きました。章一」  そう書いて送った。  すると、姉から「待ってたわ。すぐそちらに行くからね」という返事のメールが届いた。  やがて、雪原の彼方から人影が近づいてきた。確かに姉であった。人影が大きくなると、 手を振りながら駆けてくる。  目の前に、コートを雪塗れにした姉が姿を現した。  去年産まれた子どもの姿が見えないのを章一は気遣った。  「里ちゃんは」  「里子は、うちの人と遊んでるわ」  徳子はそう答えた。  「久しぶりね。みんな元気」  「なんとかね」  「お父さん、何か出るとき言ってなかった」  「いや、何も・・・・・・ああ、そうだった」  と章一は言いながら、コートのファスナーを開け、内ポケットから一枚の写真を取り出 した。徳子の七五三の祝いのときの写真だった。  「これ、黙って出してくれたんだ」  「どういうこと、急に・・・・・・」  徳子は、父親の意図を計りかねるように、眉根を寄せた。  「俺もどういうことだか分からない」  「でもね、この写真、家を出るとき持って来たかったの。写真らしいものってこのくら いだからね」  徳子は、懐かしそうに写真を見つめていた。  「お父さんは、もう許そうって思っているかもしれないよ。姉さんのこと」  「・・・・・・」  「何しろ包丁をお父さんに突きつけたんだから」  「もう、その話は止めて」徳子は、章一の口を手袋の手で塞いだ。  冬の一日は短い。徳子夫婦が住んでいる離れの座敷に通されると、四囲はすっかり暮れ ていた。夫の雅男は、章一に挨拶すると同席を遠慮するように里子を負ぶって奥の部屋に 入っていった。炬燵を挟んで姉弟は、久しぶりにお互いの顔を改めてみつめた。エヤコン の音が沈黙する二人の間の空間を埋めていた。  徳子は、写真を取り出すと、じっと見つめていた。そして、決断したように大きく息を 吸い込んでいった。  「もう、章ちゃんは子どもじゃないんだから、言ってもいいかなって思う」  「何のこと」と章一。  「いやね。いままでこのときをじっと待ってたの」  「・・・・・・」  「さっき、うちの人が気を利かして出てったのも、気配を感じてたからだと思うわ」  「気をもませないでよ。はっきり言ってよ」  章一は、じれったくなっていた。  「いやね、もったいぶるわけじゃないけど、ほんとに、このときを待ってたの」  「だからさぁ、どんなこと。きっぱり言ってよ」  「・・・・・・写真のことよ」  「写真がどうしたの」  「私の子どものころの写真帳、と言っても、ほんの数ページのものなんだけど、その中 の七五三の記念写真が、突然抜き取られたの。・・・・・・そうね、私が二、三年生のころかな。 咄嗟にお父さんに違いないって思ったわ。そのころ、お母さんとの仲はあまりよくなかっ たの。」  「そのことと写真とどんな関係があるの」  徳子は、また息を吸い込んだ。  「初めて言うけどね、私、夜二人でひそひそ話しているのを隣の部屋で聞いてたの。内 容はよく分からなかったけど、お父さんがお母さんをひどく責めていることだけはよく分 かったわ。疑っているようだったわ。確か浮気とかなんとか言ってたわ」  「それで・・・・・・」章一は身を乗り出した。  「離婚した昔の亭主と逢ってるんじゃないかって・・・・・・、たしか、そんなことも話して たみたいだったの」  「そのことと写真のことは、どうつながるの」  「お父さんは、私を実の子どもとして認めたくなかったみたい」  「・・・・・・」  「だから、写真を抜き取ったんだわ」  「ほんと」  「そう言われると自信ないけど、お母さんがあくる日から元気を無くしてたから、相当 なショックだったみたい」  「・・・・・・」  「お父さんは、そうして疑ってばかりいたから、お母さんの命を縮めることになったん だわ。許せないわ」  「・・・・・・」  「そして、死んだら待ってましたとばかり再婚したんだから」  章一は、ふと、徳子が持っている写真の角が擦り切れているのに気が付いた。長い間、 父は身に付けて離さなかったのではないのか、と思った。これは、どうしてだ。憎い娘で あれば千切って捨ててもいいではないか。そういう思いが込み上げてきた。  「そりゃ、みんな誤解だよ。姉さん考えすぎだよ」  徳子は、睨み付けながら言った。  「私の勘に狂いはないわ。そうでなければ、どうして実の父親に刃物を突きつけたりす るものですか」  「・・・・・・」  「・・・・・・でもね。こうして写真を返してくれたところを見ると、お父さんは、前のお父 さんじゃなくなってるわ。そりゃよく分かるけどね」  徳子は興奮から泣き出した。  襖を開ける音がしたので章一が振り返ると、里子が小さな顔をのぞかせていた。後ろに 雅夫の姿も見えた。  徳子は、突然のことなので、顔を伏せてしまった。  章一は、気まずい空気をはぐらかすように、立ち上がって里子の体を抱き上げた。する と、奇声を発して喜んだ。人見知りをする様子は少しも見せなかった。雅夫にひょいと里 子の体を預けると、章一はまた炬燵にはまった。雅夫も里子を抱いて仲間に加わった。里 子は、悲しげな顔の母親を見て、膝を求めて徳子のところに移った。  里子は「ママ、ママ」としきりに甘えたような声を出した。  「里子は幸せになってね」と徳子が言うと、「おいおい、ここの家に来て、君は不幸せ になったの」と雅夫が言った。  「いや、そういう意味じゃないのよ。ちょっと、沈み込んだものだから」  「ここで、二人がどういう話をしていたのか。僕は大体察しがついている。徳子に今ま でさんざん言われてきたからね」  雅夫は、落ち着いた口調でそう言った。  「章一には今日初めて言ったわ」  「話してなかったの」  「ここに来るまでは、話せる状況じゃなかったからね。ここに来てやっとふんぎりがつ いたみたい」  「でも、いつも言ってるように、そりゃ想像の域を脱していないことだろ」  「あなたも誤解とでもいいたいの」  「今になったら、それはどっちでもいい話じゃないか。私は、お前の父親が、もう一人 現れても、どうとも思わない。どちらも父親と思うよ」  「人のことだと思って、無責任ね」  徳子は、そう言ったきり、何も言わなくなった。  章一は、この部屋の雰囲気と自分の家の雰囲気を比べていた。何かが違う。ここには何 かがある。家にはないものが。義母と父と腹違いの妹。そして、仏壇には、早死にした母 の遺影。なんとちぐはぐなことか。そう思っていた。  「章一さん、せっかく遠くまで来て頂いて、すみませんね。徳子もこれですっかり気持 ちが落ち着くと思います。私は、あなたのお父さんに謝らなければなりません。それをし ないと心が収まらないのです。なにしろ大事な娘さんを奪ってしまったのですから」  「お兄さん。とっくに父は貴方のことを許してますよ」  「そうだといいのですけどね」  「もう、昔の話はよしましょう。・・・・・・今夜、城田湖の夜の風景を見に出かけましょう。 不思議なものが見られますよ」  「不思議なもの」  「ええ、実に不思議なものです。ただし、深夜ですよ」  「ぜひ見せてください」  その夜、章一は雅夫の案内で城田湖に出かけた。夜気は、急激に体温を奪い、体が硬直 してくるのが感じられた。粉雪が舞っていた。  二人は。昼間賑わった西岸に腰を下ろして、湖面を見つめた。月光に照ら された氷湖の湖面は、さまざまな色に変化した。それは、この世のものではないような鬼 気迫る色合いだった。  「ぼつぼつ始まりますよ」  「えっ、何が、ですか」  「ええ、黙ってじっと湖面を見つめていてください」  章一は、いわれるまま、湖面をじっと見詰めていた。すると、底の方が、ぼっと明るく なってきた。そして、その光が湖面一帯に溢れ出た。それは、氷湖が巨大なサーチライト に変貌したような不気味な現象だった。  「この土地では、水神さんの光と呼んでいます。この光に向かって祈るとすべての願い 叶えられると信じられています。章一さん。願い事を唱えてください」  そう言われた章一は、咄嗟のことで言葉が即座に出てこなかった。  「綺麗ですねえ。しかし、これは目の錯覚じゃないでしょうか」  「そうかもしれません。土地のものでも見たことがないという人の方が多いのですから」  章一は、いろいろ角度を変えて見つめてみた。すると、ぱっと消える瞬間もあった。  「見る角度、それに月明かりですか、そういうことが原因でしょうか」  「ええ、そうかもしれません。でも、貴方も私も、錯覚にせよ同じ体験をしました。こ れは、奇縁です。徳子も見えたんです」  「なにかが繋がっているんですね」と章一は補った。  章一は、全くの異次元にさまよい出たような気持ちを処理できなくなっていた。いまま でのことが、今日のことが、今起こっていることすべてが、幻覚のようにも感じられた。  「さあ、帰りましょう」  雅夫は章一を促した。二人は、月影を踏みながら歩き始めた。章一は、父に、義母にた くさんのことを言いたい気持ちになっていた。それは、さっき光に向かっていい損ねた言 葉であった。