笑う樹          瀬本明羅

                   1  便器の中の、今出たばかりの尿の底に、血液の流れが一筋沈殿した。  男はそれを見つめながら、昼に聞いた医者の言葉を自分の言葉として口にしてみた。  「生検は判定の最後の手段です。単なる前立腺肥大ではありません」  もし、判定が「黒」と出たら、真っ先になにをすべきか。男は妻や二人の娘の顔を交互 に思い浮かべながら、家のトイレから出てゆくのをためらった。夕食の時間が重苦しく感 じられ、男は逃れるようにキッチンから出てしまっていた。 仕事を変えてから、男は安らかに眠れるようになった。いつもなら、枕に頭を乗せるや、 ほんの数秒で意識がはぎ取られた。そして、自覚した夢も見ずにそのまま朝を迎えること が多かった。  ところが、その日は夏の夜の蒸し暑さに加え、組織検査のことが息苦しさとなって胸を 締め付けていたので、いつまでも寝入ることができなかった。しかし、一時ごろになると いつのまにかうとうととしていたようだった。  一本の大樹が亭々と聳えている。  ささやきや笑い声が聞こえてくる。しかし、どこからそれが発せられるか、皆目見当が つかなかった。・・・男は、寝付きがいいし、寝覚めもいいと思っていたが、そういえば、 この光景はいつかの夢の中で見た記憶があった。男は、かすかな記憶を刺激してみた。  一台のアメリカ軍のジープが砂煙をあげて突進してきた。うしろの窓から機関銃の銃口 がのぞいている。ダッダッダッという音がした。少年は咄嗟に小路に逃げ込んだ。  しかし、弾らしきものは飛んで来なかった。空包だった。恐る恐る小路から出て、表通 を走り抜けた一台のジープの窓を透かして見た。覗いている米兵のにやけた笑い顔が少年 の目に焼きついた。・・・そのとき、かすかな笑い声が空の方から降ってきた。彼が空を 見上げると、そこには一本の椎の大木が聳えていた。少年は、足元にあった石ころを拾う と、覆い被さってくる枝めがけて力一杯投げた。と同時にガザッという音が降ってきた。 すると、その音は、激しく鋭い鳴き声に変わった。・・・男はその声で眠りから引き戻さ れた。    猫の声だ。二匹の猫が、今寝ている床のすぐ近くで、いがみ合って鳴いている。   大きな太い声と、やや弱い声とが聞き分けられる。内か外か分からない。が、男は外に 出てみた。    すると、声はぴたりと止んで、何もなかったように静まり返っている。・・・夢だった ろうか。不意に男は体が強張ってきた。探るように廊下を進んでいくと、客間から光が洩 れていることに気づいた。 こわごわ近づいてのぞいてみると、蛍光灯の明るい光の中で、扇風機だけが首を振って 動いていた。あたかも、今までここに誰かが座っていたかのような気配が漂っている。二 人の娘のどちらかが、遅くまでここで何かをしていたのか。そう思ってもみたが、二階の 子どもたちが、居間ならまだしも、客間で遅くまで何かをしているということは今まで一 度もなかった。それでは、誰がここに座っていたのか。何をしていたのか。男は眠気がす っかり醒めてしまった。脈が速く打つのが感じられた。それにしても、猫たちはどうした のか。いや、猫に姿を変えてあの世から戻ってきた父母と祖母が、さっきまで、猫語で何 か怒鳴りあっていたのではないのか・・・。  男は、また床に滑り込んで、夏蒲団を頭から被り、気持ちの昂ぶりを抑えようとした。 隣で妻がくぐもった声で何か言ったが、聞き取れなかった。
                   2  「そんなばかな」  翌朝、朝食を食べながら昨夜のことを詳しく話すと、妻は声を高くして言った。  「縁側のガラス戸が開いてたのよ。私、ピンときたわ。うちのクリの臭いにつられて野 良猫がはいってきたのよ」と妻。  「じゃあ、扇風機と電燈はどうなるんだ」  男がそう言うと、先に食べ終わっていた高校生の次女が、「お父さんのいつものプッツ ンボケじゃないの。気にしない。気にしない」と言いながらそそくさと台所から出て行く。 その時、銀行員の長女の「行ってきます」という声が、玄関の方から響いてきた。  「あなた、ほんとにすっかりボケたわね。夕べ遅くまで客間で何か仕事してたでしょ。 スイッチ切り忘れてそのまま寝たのよ」  「じゃ、クリはどうしたんだ。その時いなかったぞ」。彼はむきになってそう言った。  「驚いて外に逃げ出した野良猫の後を追って出たんでしょ」  男は足早に縁側に出て、ガラス戸を確かめた。猫の体がやっと通れるくらいサッシの戸 が開いていた。またやったか。男は、全身が羞恥心で火照ってくるのを感じた。そして、 一週間前に、ガスコンロの火を点けたまま寝てしまい、妻にひどく叱られたことを思い出 した。記憶が瞬時に喪失する恐ろしさを、彼はまたしみじみと感じ、不安に襲われた。  家を出る時にも、一番最後に出る彼は、鍵ををかけ忘れたのではないかと思って、車を 戻して玄関の戸を確かめることがよくあった。鍵はいつもきちんとかかっていた。  図書館員の妻は、鏡台に向かいながら、落ち着かない様子の男を横目で見た。  「今日は休んだら。慣れない仕事で疲れているんでしょ」  男は、そうかも知れない、俺は疲れているんだ、そう思い込むことにした。今は嘱託な んだから、俺が休んだってほとんど業務に支障はない。でも、俺は銀行をどうして辞めた んだ。男は、一年前の出来事を思い出そうとするが、何かが煙幕を張って隠してしまう。  今の仕事・・・。俺は編集者。そういう自負が辛うじて彼を支える。ローカル経済誌で も編集者に変わりはない。実家の商売は、なんとか軌道に乗ってきた。実家の弟一家は、 みな元気だ。長女は俺の仕事の跡を継いでくれた。次女は・・・。これからだ。しかし、 何の心配があろう。  いつの間にかあれこれと自分の周辺をなぞる癖が、男にはついていた。そして、最後に は、辞表を出した日の妻の泣き顔が大きく浮かんできて、鏡に映った妻の顔と重なる。  「疲れてるのよ、あなたは」。玄関で男を振り返りながら、妻はまたそう言った。声を 落とした妙に優しい声音が心にからんできたので、男は、書きかけの原稿に向かう意欲を 失った。取材という口実を思いついて、会社へはそのことを電話した。
                     夏の真昼、男は人影がまばらな町の表通りに出てみた。 人口が二十万にも満たない山陰の都市の建物は、実に雑多で高低の差が甚だしい。木造 の建物の中に、突如として鉄筋の電信柱様のビルが聳えていたりする。男は気まぐれで飛 び出したことを後悔しだした。乾いた歩道から、時折、熱風が吹き上がってきて、息が詰 まるようだった。台風が近づいていることを報じた今朝のニュースなどは、全く嘘のよう に晴れわたっていた。  町の中心部に来ると、ケヤキの巨木の並木が続いていた。その木陰を選んで、男は歩い た。すると、大樹の群像が男を、上から押し潰しそうに迫ってきた。息苦しさは一層つの り、逃げ出したくなった。──この道はどこにも通じている。ということは、俺は何処へ でも行けるし、何処にでも隠れられる。男は、木に向かってそう心の中で呟いた。男にと って一番嫌なことは、閉塞状況であった。例えば飛行機の中、船の中、特急の電車の中。 そんな中から逃げ出すことは、死を意味していた。少しでもそう思うことだけでも、男は 息苦しくなった。──この気持ちは、いつから自分に取り付いただろうか。男は、そのこ とを思い出す努力を放棄した。救急車の音がいつしか彼の耳の中に湧き起こり、それが却 って快いリズムを醸し出していた。  ケヤキの並木が尽きると、次はプラタナスに変わる。その並木に面した小さな集合店舗 の自動扉の前に立ち、彼は、この店の友人の小太りした姿を思い浮かべた。  扉が開き、冷えた空気が男の全身を押し包んだ。平日の昼の店内は、客らしい姿もなく、 BGMの音響の層が規則正しく揺れていた。  喫茶室のいつもの席に腰かけ、週刊誌を広げ、ブレンドのコーヒーを啜りながら、やっ と自らの体形を取り戻したような安らぎ覚えた。  「支店長さん」  背後から声がしたので、振り向くと、さっき思い浮かべた当の友人が、こぼれるような 笑顔で立っていた。男にも増して頭が薄い。半袖のユニフォームの右胸に、緑色のマーク が入っている。卵のような体を、男の前の席にゆったりと落ち着かせると、「今日は来る と思ってたよ」と言って、その男もコーヒーを注文した。──せっかくの一人だけの時間 を・・・。男は少し不満だったが、久しぶりに打ち解けて話し合える相手を得たことに心 が自然に和むのを感じた。 「最近、どうも調子が狂ってね・・・」  男は昨夜の猫の話などをしようと思ったが、あまりに私的なことだし、たとえ言ったと しても、彼の言う答えが予想できる感じがして、喉まで出てきた言葉を呑み込んだ。  「定年まで勤めれば、そんなこともなかったろうに。支店長の地位を棒に振ったんだか らなあ。」  「そのことは、もう言わないでくれ」  「世間ではいろんなことを言ってるぞ」  「・・・・」  「娘さんが、ライバル銀行に就職したからだとか、部下の不正の責任をとらされたとか、 女がからんでいたとかさ」 「ほっとけ、ほっとけ。・・・しかしな、これだけは確かだ。俺は辞めさせられたんじ ゃない。辞めたんだ」  「じゃ、どうして」  「他にやりたいことがあったからさ」  「もの書きということか」  「それもある」  「でもな。嘱託じゃお前、これからどうやっていくんだ。下の娘さん、進学だろ。上の 娘さんのこともある」  「分かった。もういい」    男は、不機嫌な気持ちを露にして言った。  「いやな、お前を見てると、やりきれなくなって・・・」 「・・・・」  「お前見てると、特攻隊の生き残りのお父さんを思い出すんだよ。復員してからは、も うやけになってたことがあったそうだね。子どものころのことだけど、親父から聞いてし っかり覚えてる。それで変な酒に手を出して・・・」  二人の間に、気まずい雰囲気の時間が流れた。男は、また頭の中に、ザワザワと葉裏を 返す樹木の戦ぎの音を聞いた。この一部始終を見つめている視線を、その戦ぎの中にしっ かり感じ取っていた。一筋の血の流れ。父母からの。その父は、盲目の父。血の流れは、 弟と私に。・・・長男が家を出ることなど、早死にした父は、想像だにしていなかったの ではないのか。そして、その受け継いだ血を汚し、尿と一緒に流している私。・・・仕事。 まあ、仕事なんてなんとかなるさ。命が続けば。・・・ガサガサ、ザワザワ。  友人は、やたらと顎を撫でながら、苛立つ気持ちを制御していた。卵が左右に揺れた。 そして、揺れが止んだと思うと、急に友人は立ち上がった。立ったまま、残りのコーヒー を飲み干すと、「じゃ、またな。・・・うちの会社でよかったら、経理担当として雇って もいい。・・・いつでも・・・」と言いながら、喫茶室から出て行った。  男は、書籍部で「猫の飼い方」という本を立ち読みした。中のコラムに「猫の民俗」と いう記事があった。ヨーロッパでは、霊獣視する観念が浸透した反面、魔性を備えている 動物とも見られている・・・。男は、そんな記事を拾い読みしながら、クリの行方を考え ていた。  中央のコートでは、大型テレビが大きな声を発していた。見ている者はだれもいない。 ニュース番組だった。そう確認すると、しばらく釘付けになった。台風はどうなったか。 画面では、特別番組が組まれ、強い勢力を保ちながら、九州の東岸に接近しつつあること を、若いアナウンサーが興奮気味に報じていた。予想進路の図を見て、男は驚いた。山陰 地方は直撃だ。まさか。こういう風に暑すぎるかんかん照りだ。今まで、予報はすべてと 言っていいほど外れている。  男は、また通りに出た。  プラタナスの並木道は、三百メートルくらいで途切れた。そこへ定期バスが近づいてき たので、近くの停留所に走った。  町の外れの停留所で降りると、足の向くままに歩いた。汗が体中に吹き出てきた。
                     男は、五十七歳。定年は六十だが、三年も早く辞職した。今まで仕事中心に生活を築き、 誰のためという事も考えるゆとりのないくらいにひた走ってきた。  ところが、辞める二年くらい前から、仕事の上でミスが目立ち始めた。男は、本店に何 度か呼び出された。「君、企業努力ということの意味を根本から考えてみなさい。この数 ヶ月の支店経営の落ち込みは、ひとり君の弱腰が原因だ」。男は、頭の中で、かつての言 葉を思い出していた。彼は、それまで、自分の限界ということを思ってもみなかったが、 行く先が何か淡いベールに包まれているようで、経営者としての眼力、勘を全く失ってい た。これ以上伸ばすことはできない。そういう内の声を聞くことが男を消極的にさせた。  そして、間もなく具体的な自覚症状が出てきた。ほんの数分間のことをふと忘れてしま うようになった。重要書類を応接室に忘れたり、さっきかかってきた電話の内容が思い出 せなかったり、ひどい時には、部下の名前さえ即座に出て来ないことがあった。  「半年間、ゆっくり休まれてはどうです。診断書はあなたの不利にならないように書き ますから。それに、・・・前立腺に少しばかり影があります。様子を見ましょう」  「影。・・・というと癌ですか。」    「決め付けないでください」  隣市の内科の開業医は、銀縁の眼鏡越しに優しい視線を感じさせながら、そう言った。  「半年もですか」  「ええ、日にちが何よりの薬ですよ。軽い抑鬱状態です。いい医者を紹介します」  「で、影とやらは・・・」  「今は何とも言えません。PSAの値の動きを慎重に見ていきましょう」  「PSA・・・」  「前立腺特異抗原です」  「トクイコウゲン」  「そうです。腫瘍マーカーです」  男は、帰り道、このことを妻にどう告げたものかと悩んだ。考えあぐねた結果、日ごろ の思いをぶちまけてしまおうと決心した。  が、いざ妻の前で述べようとすると、あらぬ方向に話が飛躍した。転職したい。今すぐ にでも転職したい。俺にはもっと他にやりたい仕事があった。今でないとできないんだ。 そんな調子の内容を主張する結果になった。妻は、みるみる表情が険しくなっていった。 そして、何かあったのかとしきりに詰問した。男は職場での現実には少しも触れず、メン タルな方面だけを強調した。「トクイコウゲン」のことも、とうとうその場では話せなか った。  ところが、次の日、職場で卒倒し、救急車で総合病院に運ばれて、その病院の担当医師 や駆けつけた職場のものから、妻は一部始終を知ってしまうことになった。  男は、長い間炎天下を歩いていた。そして、歩きながら、その日の行程を考えていた。  ──初めに娘の銀行、次に娘の学校、最後に町の外れの妻の図書館。  男が勤めていた頃、気が向くとライバル銀行の南支店の前を通ってみることがあった。 その時は、展示窓のレイアウトや、客の動きまでも観察するといった感じで見ていたが、 その日は、何かしら懐かしいものを見るような気持ちがした。ヤマモモの若木が十本、道 に面して植えてあった。  反対側の歩道から真正面に支店全体の姿を見て、それから中の様子を窺おうと思った。 しかし、色ガラスに換えてあって、中の様子は霞んで見えるだけだった。車の流れの間か らじっと目を凝らして奥を見透かすと、数名の社員が確認できた。一番奥の男が支店長ら しかった。何かしきりに手を振っている感じだった。それが自分に対する合図のような気 がして、一瞬男は狼狽した。  「シテンチョウさん」  男は、右の方角から、そう呼びかける声を聞いた。またか。彼は、苦々しく思って前を 向いたまま黙っていた。軽やかな靴の音が近づき、すぐ近くで止まった。  「お父さんじゃない。どうしたの」 不意を突かれたように横を向くと、水色の制服姿の娘が目を丸くして立っていた。  「支店長、とさっき呼んだろう」  娘は、怪訝そうに父親の顔をのぞき込んだ。  「ええっ。ちゃんとお父さんと呼んだわ」  「そうか」 男は、また、自分の感覚を疑った。  「こんなとこで何してるの」  「いや、ちょっとね。・・・取材だよ。さっきスーパーにも行ってきた」  「ここで何取材してるの」  「いや、いろいろとね。・・・お前こそ勤務中にこんなとこで何してるんだ」  「得意先回り」  「お前がか。新米を行かせるのか」  「私、もう新米じゃないわ」  娘は日差しを気にしているらしく、しきりに手を額にかざした。「お父さん、早く帰り なさいよ」。そう言うと、駆けて横断歩道まで行き、大きく手を振ってこちらをちらっと 見て、それから向こう側に渡ると、そのまま建物の中に吸い取られていった。  男は、にわかに建物の中から自分に集まる視線を感じた。そしてまた、近くの停留所へ 急いだ。 バスの中で、男は、こんな時間を、こんな時に持っている自分を後ろめたく思った。そ して、俺は上の娘に今まで何をしてやったのかと考えた。仕事の忙しさを理由に、すべて を妻に委ねていたのではないのか。いや、それもあるが、その実一人で大きくなったにす ぎないのではないのか。親はそれを、育てたと誤解しているのではないのか。やがて娘の 前に現れるある男に、私は父です、と胸を張って言えるのか・・・。
                     体育館の巨大なかまぼこ型の屋根が、男にのしかかってきた。その中には、子どもたち の足音や奇声が反響していた。教室棟は二棟あった。そのつづきに白く輝く運動場が広が っていた。  小学校の時には、それでも保護者会に出かけることはあったが、高校ともなると、担任 の教師の名前さえ分からなかった。今、どこで、何を学んでいるのか見当もつかなかった。 教室のどこからか、笑い声が降ってきた。その声は、葉群の戦ぎにも似ていて、男の内面 はすぐに反応し、急に居心地が悪くなりだした。  運動場沿いの道に逃れると、娘が幼い頃の元気のいい歌声が耳の中に蘇ってきた。それ に重なるように、小学校の遠足の写真のおどけた仕種が頭を掠めた。「・・・でも、お前 は、お前でしっかりやれる」。彼は、そう呟くと、白い砂の照り返しを膚に感じながら学 校を離れた。  市立図書館は、町の南側の丘の上にある。  黒松に覆われた丘に、一筋のアスファルト道が通っている。風が強くなってきた。松籟 に雲が誘われて、集まってくる。丘の上の一本の公孫樹の大木の葉が揺れるのがよく分か った。夢の中に出てきた樹に似ていると思った。この樹は、たくさんの時間の流れを見て きたに違いない。人の生き死に。争い。  男は、坂の登り口でしばらくためらったが、意を決して登ることにした。子どもを連れ た若い母親が数名、彼の両脇を追い越していった。その日は、絵本の読み聞かせの会があ る日だということを、男は妻から聞いていた。男は、そう思うと、心が弾んでくるのを覚 えた。──はと に なった おひめさま は、 しろく しろく かがやきながら あ おく かがやく そらへ きえて いきました。幼児絵本を広げて、潤いのある声で読み 上げる女性の表情を見た男は、もうその人のことが忘れられなくなった。結婚してからも 妻は、ずっとこの図書館に勤務している。子ども好きだからつづけられた、と妻は男に話 していた。──妻は、今どう思ってここで働いているだろうか。男は、坂を登りながらそ う思った。  プレイルームの近くには、子どもと母親が溢れるように集まっていた。  「おじちゃんも、絵本聞きにきたの」  五歳くらいの男の子が親しそうに話し掛けてきた。「ああ、そ、そうだよ」。そう言い ながら男は、妻と顔を合わせることになる数分後の時間を、遠く気だるいもののように思 っていた。「疲れているのよ、あなた」。朝の憂いに満ちた妻の顔が目の前をさっと通り 過ぎていった。
                     あくる日の午後である。仕事の合間に、男は、職場の応接室で同僚たちと一緒にテレビ を点けた。予想に反して、どこの局も定時番組を削って、台風に関する情報を流していた。  ──来る。こんどは確実に来る。本当に直撃だ。中心付近の最大風速四十メートル。男 は戦いた。──今日の夕方だ。  残業は中止、一時間の拘束時間の短縮、という指示が出た。四時前になると、皆、会社 から逃げるように家に帰っていった。男は、原稿用紙の山を片付けると、胸騒ぎを抑えな がら車に乗った。  公園の樹木の枝がちぎれて車の前を吹き飛ばされていった。店の看板の留め金が切れて、 看板の文字の面が遠くの方へひらひらとチリ紙のように舞っていく。切れた電線が、水平 に揺れている。車がしきりに横揺れした。  家に着くと、もうすっかり日が暮れていた。玄関の戸を力いっぱい開けると、風が吹き 込んで、衝立が音を立てて転んだ。その音を聞いて妻が飛んで出てきた。つづいて、二人 の娘が顔をのぞかせた。  「ああ、みんな帰ってたのか。よかった」  「姉さんが怪我・・・」。下の娘が声を詰まらせて言った。見ると、足首を包帯してい る。薄く血の色が滲んでいる。  「どうしたんだ」。男は、鞄を下駄箱の上に置くと、腰をかがめて娘の足首を包帯の上 から触れてみた。「やめてよ、お父さん」。娘は足を引っ込めた。  「何かが飛んできたらしいの。もう靴の中を血だらけにして帰ってきたわ」。妻が説明 すると、男は、途端に眩暈がし、後頭部に寒気が走った。  夕食を済ませると、家族四人は、誰からともなく居間に集まってきた。停電に備えて、 蝋燭や懐中電灯やポータブルラジオを準備して、テレビの特集番組を食い入るように見つ めていた。外の風はますます強まり、唸り声を上げていた。  「五十六メートルを記録したって。家大丈夫かしら」と妻。  男は玄関に出てみた。アルミサッシの戸が、内側に膨らんで、今にもぶち壊れそうに思 えた。二階に上がると、夥しい獣が咆哮するような音の中で、家がギシギシと悲痛な声を 発して揺れている。──倒れる。壊れる。こなごなになってしまう。男は、建ててから十 五年しか経っていないこの家の不運を思った。すると、歯の根も合わぬように震え出した。 自分で自分を支え切れぬようになってうろたえた。  やっと階段の手擦りに体をもたせかけて降りようとすると、外の闇の中が蒼白い光で満 たされ、停電した。階下で悲鳴がした。  「きっと、電線がショートたのよ」  妻は、蝋燭を点けて部屋の真中に置いた。    三人の顔が、薄赤く闇の中から浮かび上がるのを、男は一人ひとり確かめた。  ──完全な閉塞状況だ。そう改めて認識したことが、男を息苦しくさせた。  二階でガラスの壊れる音がした。すると、反対側でもドンという大きな音がした。部屋 に風が吹き込むようすが、蝋燭の炎の揺らぎで手に取るように分かった。  「もう、だめみたい」  上の娘が妹に抱きついて言った。「もう二時間くらいの辛抱よ」。妻は、驚くほど落ち 着いていた。階下に吹き下りる風の勢いが徐々に増してきた。居間の戸がガタガタと鳴っ た。蝋燭が消えた。  「しりとりしようや」    下の娘が暗闇の中で唐突に言い出した。  「やろう、やろう」  妻が言った。声からして冷静のようだった。すると、上の娘が震える声で言った。  「お父さん、初めに言って」。精一杯私を励ましているような声だった。  「さあ、お父さん」。下の娘もしきりに催促する。妻は、手探りで私の背を触ると、ポ ンと叩いた。男は、口を開こうとするが、思うように動かない。しかし、頭の中でしきり に言葉を探った。「ち、ちち、父」。やっとのことでそう言うと、下の娘が、「ちまき」 と付けて、家族だけの尻取りが始まった。  「懐中電灯は、お父さん」。妻が言った。「ああ、なんだ、あれがあったんだ」。下の 娘が探し当て、パッと点けた。光は、男の顔を真正面から射た。男は、咄嗟にその光から 逃げるように二階へ駆け上がった。  吹き荒れる風の圧力で二階の柱や家具が悲痛な声を上げていた。彼は、道具箱を探し当 て、金槌と釘を出した。そして、畳を数枚はぐって積み上げた。その一枚を風が吹き込む 窓に運んで、釘で打ちつけようと試みたが、風圧は彼もろとも畳を部屋仕切りの土壁に叩 きつけた。頭を強く打った男は、意識が朦朧とする心の中で、亡父の幻を見た。小学生の 頃の父の姿。場所は男の実家。同じく台風の日。父と男は必死に破れたガラスの部分に板 を打ち付けた。盲目の父は、何度も自分の手を金槌で打った。手が血だらけになっていた。 その姿を思い出したことが、男に力を与えた。体を起こして、また、畳を烈風にかざして 挑みかけた。  「お父さん、降りてきてよ。死ぬよ」。下から三人が代わる代わる声を引き絞って呼び かけた。
                      総合病院の前庭には、スダジイの巨木が涼しい木陰を作っている。しかし、よく見る と、ところどころ枝が折れている。そこのベンチに一人で腰をおろし、男は、こもれ陽の ように空から零れ落ちてくる言葉に耳を傾けた。  ──「ウィルヒョウの呪い」という言葉をご存知ですか。  ──いいえ。そりや何のことです。回りくどい話し方はよしてください。  ──ウィルヒョウという細胞学者は、突然変異した細胞は際限なく増殖し、患者を必ず 死に至らしめると言ったんです。あなたは、そのことを信じますか。  ──そりや、信じますよ。  ──その呪縛から自らを解き放ってください。  ──ということは、私は確実に黒だと仰りたいんですね。  ──残念ながら・・・そうなんです。でも、まだ微小で、Aステージです。ウィルヒョ ウは、人間の秘めた不可思議な力、免疫力とでもいいますか、そのことを考えていなかっ た。・・・治りますよ。あなたが、呪縛から解放されれば。  ──先生、助け下さい。私は仰る通りにしますから。  男は、そんな形で告知がなされるとは思いも寄らなかった。まさか、という気持ちが勝 って、診察室に入るまで「患者」としての心構えなど一つとして胸の中になかった。ベン チに座りながら、医者の言葉を噛み締めて、やっと、ああ、来るところまで来たと観念し た。ただ、また妻に嘘をつくわけにもいかない、という思いが重苦しくのしかかってきた。 「患者」にとって、自然治癒力など頼りになるものか。・・・植物はいい。こうして枝を 伸ばしてさえいれば、生きられる。・・・助けてくれ。それにしても誰だ、私を陥れたの は。  車を、家の近くの空き地に止めると、妻への言葉をまた探しながら歩いた。男の家が視 野に大きく飛び込んできた。  破れた二階の窓には、畳が一枚ぶら下がっている。半分以上吹き飛んだ瓦。倒れたアン テナ。飴のように曲がった車庫のシャッター。まだほとんど片付けが終わっていない家の 外観は、まるで廃屋のようだった。  周囲の家並みも、遠くから改めて眺めると、まるで別の町にさまよい出たような錯覚を 覚えさせた。  家の東側の空き地の柿の木の小枝が、ほとんど折れている。わずかに残った葉が、余風 にヒラヒラ揺れている。風が男の頬を撫でた。男は、柿の木に近づいていった。樹皮に手 で触れ、額を付けた。涙がこぼれてきた。今まで泣くことさえも忘れていた。男は、重大 なことに気づいたような気がした。  車庫の傍まで帰ると、風で曲がったシャッターの間から、クリの黒い体が転がるように 飛び出してきた。男の足元まで来ると、しきりに足首に顔を擦り付けた。