『尾道水道』
何の気もなしに読んでいた林芙美子の出世作『放浪記』の冒頭のくだり。
「海が見えた。海が見える」
それが、この地に立つと、なぜか言葉として鮮烈に迫り来る。
「見えた。見える」と過去形と現在形を同時に使って言い切ろうとする言
葉の裏には、苦難多き作者の、たった一言で人生を言い得て妙なほどの凄
味と凝縮感を感じさせる。言葉の持つ力は、やはりこういうところに潜ん
でいると思わずにはいられない。
いくら苦難多きといえども、その過去を単に言葉が追いかけるだけの再生
に過ぎないなら、何の力もない。先に言葉が生まれ、それを支えに新たに
生き直すというのであれば、文学とはやはり凄い魔術である。
その土地土地で吹く風の違いを感じるのは面白い。山肌に傾斜する街並み
島と陸との間の海道・・・・
そういう地形は、やはりその土地独特の風を生み、ひいてはそれが、われ
われを人生の郷愁へといざなうのかもしれない。
写真:村上 馨 (広島県尾道市の千光寺公園から撮影)