Today,this day

村上 馨


 今夜は客多いだろうなあ・・・・金曜日だし、給料の出たあとの月初めときている。時

節柄減ってきたとはいえ、はしごを重ねていつもならもう閉店時刻とも言える頃になって

も客はまだこれからという顔で入ってくる。そういうとき、ママは嫌な顔をして客を追い

返したりはしない。稼げるときには稼ぎまくることに徹している。客から見ればとてもい

い店だろう。いつどんなときでも殿様気分で入ってこれるし迎え入れてくれる。わたした

ち従業員からすれば、いささか(いや甚だかもしれない)迷惑な話だ。いつ終わるとも知

れない店の閉店にとことん付き合わされる羽目になるのだ。そしてやっと終わっても、み

んなでごくろうさんとばかり、明け方まで開けている店に繰り出してお食事という段にな

る。気前のいいどっかの社長さんでも居残っていてくれればラッキーというもの。その人

の丸抱えでごちそうさま、というまことに結構な運びとなる。そういうわけで、家に帰り

着けるのは結局もう明け方近くになる。あたりは薄墨色、わたしの住む郊外の住宅地では、

鳥の鳴き声も聞こえてくる頃だ。見知りの新聞配達の人とすれ違うことも結構ある。バツ

は悪い。それから風呂に入り、化粧を落とし、少しばかりの睡眠を取る。八時にはまた起

きて、また薄化粧をし、朝食は摂らずにあわただしく出勤する。わたしは看護婦である。

と言っても勤め先は老骨の町医者。看護婦はわたしただひとり。あとはお尻に根の生えた

ようにしぶとく勤めつづける事務のおばさんがひとりいるきり。患者はと言えば、大半が

老人であるというただそれだけの理由でここにやってくるような人たちだ。わたしの看護

婦としての技量に磨きがかかることはもうないだろう。私はすでに齢三十六才そしていま

だに独身。今更バリバリの若い看護婦と張り合って大病院勤めもできない。跡取りの子も

いない老骨の先生ともどもここで心中するしか先行きのない身の上なのかもしれない。こ

れでも看護婦は、わたしの天職とは思っているのだけれども・・・・。私が中学のときに

離婚してしまった母とずっと二人暮らし。その習性がいつの間にか男を遠ざけてきた。看

護婦になる。それは、女がふたり誰にも頼らず生きていくためには、わたしのように経済

的にも恵まれないものが手に職をつけるためには、唯一手っ取り早い近道だったのかもし

れない。



 今夜は何を着て出ようかなあ・・・・毎日悩みのタネである。そうそう服も持ち合わせ

がないし、人前に出て恥ずかしくないほどの服が買えるほどに金も貯まらない。ほそぼそ

と営むこの医院勤めはわりと暇だから、あれこれと日中考えることが多い。今日はことさ

らそうだ。あの人のことも思い出す。きちんと別れたのかどうか、どうも釈然としないの

だけれど、少なくとも逢えなくなってからすでに三年近くも経っている。あの人のアパー

トで、半ば同棲状態だったのだが、わたしが内緒ではじめた今の店勤めが原因で、あの人

のところへ足が遠のき、不審に思ったあの人に跡をつけられ、バレてしまった。それから

諍いがはじまった。あの人は、私が内緒で店に出たことを怒り、わたしは、跡をつけられ

たことに腹を立てた。結局、わたしはあの人のアパートを飛び出した。ここのところが、

実は微妙で、ふたりの心理状態は、つまりは当事者でないとうまく伝えられない複雑怪奇

なものだ。今でもわたしの中では整理はついていない。あの人は、はたしてどうだろうか?

あの人も同じと思いたい。あの人は、わたしを追いかけてきてはくれなかった。わたしは

あの人を待っていた。あの人はあの人で、わたしが店勤めを辞めるのを待っていたのだと

思う。男と女、無条件で愛し合えるものではない。条件が狂いはじめれば、ただの打算的

関係に陥る。相手を責めるしか能のない女に成り下がってしまった。ならばもういいと・

・・・。



 実は、昨日思い切り髪を切った。木曜日は午後休診なので、その時間を使った。理由は

わたしにもよくわからない。待ちつづけることにしびれを切らしたのかもしれない。あの

人と出逢って以来、わたしは髪を揃えることはあっても短くしたことはなかった。あの人

のそばにいた八年間にわたしの髪は伸びつづけ腰近くまできていた。それは、あの人の偏

執的なほどの好みでもあったからだ。髪を伸ばしつづけることが、あの人への愛の忠誠で

もあると思っていた。もともと、髪の量の多い方ではなかったから、丁寧に束ねてアップ

にして、昼間は看護婦らしい体面を保ってきた。夜その髪を下ろし、あの人に身を任せる

歓びが、わたしのすべてだった。

 おとといの夜、店で客のある人から誘われた。その誘いが何を意味するかうすうすわか

っていた。その人が私に気があるのも承知していた。わたしは、男好きのする顔をしてい

るのかもしれない。髪を長く伸ばしていることがさらにそのことに拍車をかけているのか

もしれない。むろん、わたしは男の人と話すのが好きだ。女ともだちと話しているよりず

っと気が楽だし、楽しいし、得るところも多い。だからこんな仕事もしているし、ほかの

仕事よりも較べものにならないくらい収入も多い。看護婦といっても町医者勤めでは、以

前勤めていた大病院とでは報酬も張り合いも雲泥のちがいだ。母とふたり、もっといい暮

らしもしたい。だが、こんなわたしのわがままは、あの人にわかってもらえないことくら

い百も承知だった。偶然が重ならなければ店に出ることは、おそらくなかったのではない

かとは思うが、起きた事実は覆しようがない。だから、やはりこのことは、必然性を帯び

ている。あの人との間が少しずつギクシャクしはじめた頃、この店によく出入りしている

女ともだちに誘われて、気晴らしに飲みに出かけた。年端もいった女がふたり飲んでいる

と、常連客によく声をかけられ、こちらも愛想良く応ずるものだからしだいに見知りにな

った。そうこうするうちに、この店の女の子がひとり病気で出れなくなった。困ったママ

がわたしたちふたりに誘いをかけた。客とも見知りだし、客あしらいも良さそうだと踏ん

だようだった。わたしの連れは、夫も子もあると言ってにべもなく断った。それに較べわ

たしのほうはいささか曖昧だった。あの人のことが頭にあって、いい返事はしなかったも

のの、スキがあった。そこを見抜かれ、老練なママにつけ込まれた。むりやり頼み込まれ

てわたしが断り切れなかったような形に持っていき、私の店勤めの責任をママがしょい込

むふりをした。助けてほしいと懇願もされた。提示されたギャラも私の知るこの世界の世

間相場よりもかなり高いものだった。「隔日の週三日ほどでもいいのよ。時間も昼の仕事

があるのなら八時からでいいわ」とも言われた。ぐらついていたわたしはとうとう負けて

しまった。あの人を裏切ってしまったという疚しさはあったが、同時にあの人ならわかっ

てくれる、許してくれるという都合のいい読みも働いた。だがこれは大きな計算ちがいだ

った。あとでわかってもう遅きに失したことだが・・・・。あの人にとって、店勤めをす

る女など恋人の条件にも入らなかった。看護婦でいることが唯一あの人の恋人たる条件で

あったみたいだ。つまりは、ここでわたしはあの人の恋人以下に成り下がってしまったこ

とになる。

 肩先までしかなくなった髪にそっと手をあててみた。それはもうあの人の恋人ではなく

なったことをわたし自身から宣言したことになるのか?いやそうではない。理由はもっと

ちがうところにあるような気がしていた。それが何なのかはっきりと自覚することはでき

ないが、ただそんな気はしていた。適切な言葉は見つけられない。今夜、わたしを誘った

その人もきっとまた店にくる。そしてまた同時に、あの人がひょっこり、偶然にも店に現

れるかもしれないという、そのとき私の中を埋め尽くした妄想がいつまでも消え已まなか

った。そして、わたしはふとあることを思いついた。あの人がわたしに買ってくれた、あ

の人もお気に入りの服が何着か手元にある。そのうちのひとつを今夜は身につけて出よう

と。あの人からもらったものを身につけて店に出たことは今まで一度もない。それは罰当

たりというものだ。それだけは守ってきた。さてどれにしよう。とは言うもののかなり勇

気は要る。あの人の買ってくれたものは、どれもこれもまだ若いときのもので、色も鮮や

かな上にスカート丈も大胆なほど短い。店勤めの身、下手をすれば年甲斐もなく色きちが

いと受け取られかねない。逡巡したあげく、まあ白いスーツならそれでも無難かなあと思

った。あの人もことさら思い入れの強い服のことだし。



 午前中の診察が終わると三時まではお昼休みになる。この時間はただ思いっきり眠るだ

けだ。とは言うものの、店勤めし出してからというもの携帯電話、携帯メールもやたら相

手の数が増えてきて、なかなかゆっくりと休んでも居れなくなった。中身はとても薄いの

だが・・・・。でもあの人とのやりとりは、濃ゆすぎるくらい濃ゆかった。だから、今は

とても物足りない。メールは朝晩に欠かしたことがなかったし、しばらく逢えないときに

は、一度に全角250文字しか入らないわたしの携帯に、その1からその10くらいまで

細切れに分割してつづくせつせつと訴える愛しいメールもあった。こういうことは、もう

どこの誰とももうできないだろうと思う。とても懐かしかった。

 そうだ、と思い立って、机の中からわたしは古い何冊かの手帳タイプのダイアリーを取

り出してみる。高橋書店の長年愛用しているものだ。そこには記述らしい記述はないが、

あの人と逢えた日には○印が、エッチをした日には○印が塗りつぶされて●印にされてい

た。横には重ねたその累計回数も記されていた。あの人も同じような付け方をしていて、

ときどきふたりで照合し修正もしていたから、その事実はおそらく完璧に近いものだ。な

ぜわたしたちは、そんな子どもじみたことにこだわったのだろう。なぜかふたりとも、や

けにそのことにこだわっていた。どんな現実もいつかは必ず失われるものであることを肝

に銘ずる意味でもあったものだろうか。それともふたりの事実としての愛の証しがほしか

ったのか。よくわからない。

 ぱらぱらと一冊ずつめくり、最初の年の手帳を見つけ、そのはじまりの箇所を探した。

そして、驚いた。今日、この日こそ、まさにそのはじまりの日だったのだ。それは、まる

で子どもが新発見でもしたかのようなフレッシュな驚きでもあった。これは、何の予感だ

ろう。きっとあの人の身にも何か起きているのではないだろうか。携帯にメールを入れて

みようかとも思ったが、勇気が湧かなかった。もう二年以上もわたしからも入れたことは

なかったし、あの人からも着信しなくなった。わたしはまだ変えていないが、あの人はす

でにアドレスを変えてしまっているかもしれない。仮にまだ変わっていないとしても、唐

突にいったい何と切り出せばいいのだろう。



 三時から五時半までが午後の勤務になるが、暇なことにかわりはない。ただ夕刻近くな

ると、それでも勤めのある若い人がきたから、急に賑わしくなる。一日のうちで、わたし

が一番看護婦らしい仕事のできる時間帯でもあり、張り合いのあるひとときでもある。最

後に受け付けた患者さんの診察が終わって、退けるのは六時頃になることもあった。今日

もそんな日だ。そんな日はこれからがまた慌ただしい。急ぎ家路について、途中買い物に

立ち寄らなければならないときもある。夕ご飯は母が支度してくれる。その間にわたしは

風呂に入り、身支度をはじめる。七時半には家を出かけなければならない。わたしの可愛

がっている犬のモモの散歩も母の仕事だ。モモもわたしより母のほうへと情が移りはじめ

ている。どうしてもそうなる。気持ちだけでは人も犬もわたしを一番にはしてくれない。

女にとって心底から安心させてくれることは、一番にしてもらえるということしかないと

言うのに・・・・。

 わたしはずっと考えつづけている。あの人にメールを打つべきかどうかと。ここ何年も

袖を通したことのないくだんの白いスーツを身につけた。もともといくぶん大きめに誂え

ることにしているから、上着に窮屈な感じはさほどなかったが、さすがにタイトのスカー

トは、はけないことはなかったが窮屈だった。ウェストがなんとか留まってくれたのが救

いだった。だが、こんなに太ってしまったことが徒となり、あの人を失望させることにな

りはしないか。そんな不安もよぎったが、きっちりと全身に身につけて、鏡の前に立って

みると、まだまんざらでもないな、とも思えたりしてきた。そして、このとき、わたしは

机の上の携帯を手に取った。届かないかもしれない。仮に届いたにしてももう返事すら返

ってこないかもしれない。でも、今日、この日。打つしかない。

「お元気ですか。ゆうべあなたの夢を見ました。とてもはっきりと。覚えてますか。八年

前の今日あなたにお逢いしました。今更かもしれませんが、今夜もう一度逢いたいです。

『花暦』という店に出ていますので、会ってやってもいいとお思いでしたらお出かけ下さ

い。お待ちしています」

 わたしは嘘をついた。昨夜あの人の夢を見たわけでもなかった。こういうところが、わ

たしの嫌なところ、小賢しいところだ。最後に書いた「会って」という文字だけは「逢っ

て」とせず、敢えて「会って」を使った。あの人からわたしをみた場合の「逢う」という

言い方をこのわたしから使ってしまうのは今さらおこがましいという気もした。「逢う」

という言い回しに籠められた切ない機微は、かつてふたりで交わした熱いメールのやりと

りであの人もわたしもよく心得ていた。ボタンを思いを込めて強く押すと、『送信しまし

た』という表示が出た。よかった。送れた。未達のエラーメッセージは返ってはこなかっ

た。第一段階はひとまず無事に通過した。さてこれから先いったいどんな夜がわたしを待

ち受けていてくれるのだろうか。

 玄関口で片足上げて、慌ただしくヒールサンダルの留め金の位置を調節するわたしを母

が呼び止めた。

「どうしたの?今夜は何かパーティーでもあるの?その格好は。それにあれほど言っても

切らなかった髪を昨日は突然切ったりしてみせるし・・・・」

「ううん、何も・・・・。心境の変化、ただの心境の変化よ。たぶん明日からはもとのわ

たしよ。きっと」

 車の運転席に座ると、さすがに窮屈さはいや増した。今夜はママに頼んでできるだけボ

ックス席での接客は避けて、カウンターに居させてもらうことにしよう。座ったときにミ

ニスカートの裾はさらにめくり上がって大きく露出する太腿も気になるし、何よりあの人

がきてくれたときに何も応じてはあげれなくなってしまう。それにわたしを気に入ってく

れている男の人のことも気になった。どうあしらうべきか。これで、お金をたくさん落と

してくれる大事なお客さんをひとり失うことにでもなったりしたらママに申し訳ない。

 窓を開けると初夏を思わせる涼しい風が舞い込んだ。川べりの道路を車を飛ばす。そう

言えば、そろそろこの川には蛍の舞う頃ではないだろうか。この頃は、蛍の舞い出る前に

家を出て、蛍の舞い終えた後に家に帰る。やっぱり今のわたしは尋常ではないな。実入り

は少なくても、蛍の舞いを見ることのできる生活にもどらなくてはならない。それがあの

人ののぞんだことでもあるのだし・・・・それにしてもあの人は今夜きてくれるのだろう

か?返信のメールはまだ届いていない。

 今日、この日・・・・Today,this day・・・・Today,this 

day・・・・英語はまるっきしダメだったが、この直訳的な言い回しが気に入って、わ

たしは歌でも口ずさむように何度も何度もひとりつぶやいていた。

                            (2003年6月18日)