手  紙

 簸川平野五月(画:杉原孝芳)
瀬本明羅

 郵政公社となる前の、ある地方の小さい郵便局でのできごとである。  「局長、大変なことが起こりました」と内勤の若い職員が青ざめた表情で局長のデスク に駆け寄った。  「君のたいへんは、もう何百回も聞きましたよ。で、こんどはゴキブリでも出てきたん ですか」  「いや、今度はほんとにたいへんなんです」  「ほう、どんになふうに……」。局長は、いつもと違う様子に、内心少し動揺していた が、煙草に火をつけると燻らして、余裕を作った。  「十年前の消印の手紙が、作業場のロッカーの下に挟まっていたのです」  局長は、その言葉を聞くや、煙草をぽとりと落とした。そして、手に持っている手紙を じっと見詰めていたが、気を取り直し煙草を慌てて拾い、また深く煙を吸い込み、自らを 落ち着かせようと焦った。  「君、冗談が旨くなったね」  「とんでもない、正真正銘、ほんとのことなんです」  局長は、若い職員が手に持っている手紙を改めて凝視した。  「見せて御覧」。手にとってみると、封筒の色も褪せ、消印のデザインも古くて、確か に十年前の日付になっている。差出人は男の名前だった。  「どうしましょうか」。若い職員は、どぎまぎして、声を震わせた。内心、こっそり始 末しましょうか、という言葉が口元まで出てきたが、その言葉を呑み込んだ。  「差出人は、……うん、住所は確かなようだ。あて先は、……うん、確かにここの配達 区域だ。……しかし、どうして……」  局長は、若い職員をとがめるような目つきになった。  「いや、私の責任を問われても……」。若い職員は今にも卒倒しそうなほど頭の血液が 逆流しそうになっていた。  局長は、意を決したように突然に笑い出した。  「深刻になることはない。このまま配達しよう。村山さんの家をしっかり調べてくれ。 配達は、……うん、桐本君にさせよう。私も一緒に行く」  局長と外勤の中年職員桐本は、同期に就職していた。  二人は、赤い色の車に揺られながら、別々のことを考えていた。  局長は、村山さんの家が消えていたらいいと思った。桐本は、かすかに覚えている差出 人の男の顔を、今家にいる一人息子の個性的な顔立ちにダブらせて思い出そうとしていた。 その息子の両親は突然二人とも家出をしていたことを考えると、この手紙に託されたメッ セージにはただならぬことが記してあるに違いないと考えていた。「自分がもし十年後へ の手紙を書くとしたら、だれに、何を書くだろうか」。桐本は自分の将来を想定して思い に耽っていた。  車が玄関に着いた。呼び鈴を押しても誰も出てこなかった。しんと静まり返っている。  二人は、玄関の横に貼り付けた小さい紙切れを見つけた。  <私たちは、長い旅にでます。郵便物、宅配の荷物など適当にご処分ください>  局に帰ると、局長は事の次第を本局に連絡し、指示を仰いだ。結論として、差し出され た局に送り返し、差出人に返すことになった。  ところが、受け付けた郵便局で調査した結果、もう差出人の家はなく、その手紙は宙に 浮いた格好になってしまった。  ……その後のことである。その手紙は開封されたかどうか、メッセージは何だったのか、 桐本は、気にかかってしようがなかった。しかし、一外勤職員の知るところではなかった。 見つけた若い内勤職員は、自分の責任ということを考えていた。しかし、局長は、何事も なかったように仕事を続けていた。  二、三日たってから、桐本は、考えた揚句思い余って局長に告げた。  「おかしいとは思いませんか」。同期とはいえ、いつも敬語を付して話していた。  「何がだね」  局長は、威厳を持たせて言いながら、相手の顔色を観察していた。  「いや、あの玄関の張り紙ですけど・・・・・・。長い旅とか、郵便物を処分してくれとか、 普通の旅行でそんなこと、書きますか。」  「うん、それもそうだ。君、何か思い当たることでもあるのかね」  「あの後、近所でも聞きましたけど、何も言わずに夜中にふっと出て行ったみたいです ね。まるで夜逃げですよ。警察に捜索願が出ているそうで・・・・・・」  局長は、腕組みをしだした。  「うん、それで君は、あの手紙と関係があるとにらんだんだね」  「さすが、察しがいいですね、局長。・・・・・・私は、あの手紙が届かないので、もうあの 家は歯車が狂ったのではないのかと・・・・・・」  「そんな・・・・・・。何しろ十年前の手紙だろ、考えすぎだよ」  局長は、関係ない、ということを強調した。  桐本は、引き続きあちこちで両親が家出をした理由を聞き込みで調査した。分かったこ とは、両親共に恋人が出来て、駆け落ちしているということだった。そして、いずれもそ の後の消息がわからないということであった。  数日後、意を決したように桐本は、局長に言った。  「局長、あの手紙は父親の遺書だったと思うんです」  「おいおい、君、今度は脅迫するのかね」。局長は、反射的に煙草に手を伸ばしていた。  「あの家の残された家族、と言っても、長男夫婦ですが、そのことがあってからとこと ん人間不信になっていたようで、近所付き合いもほとんどしていないそうなんですよ。助 けるものもいないし、孤立していたそうです。だから、・・・・・・」  「だから、夜逃げをした。ということを言いたいんだね」。局長は、煙草の煙を真上に 吹き上げた。  「甘いですね、局長。心中ですよ。遠い旅ですよ」  「君は、飛躍させるのが旨いね。・・・・・・引き算が旨すぎる」  「いや、これはたいへんな掛け算です。その算数は、十年の遅配にかかっている気がし ます。父親は遺書で助けを求めた。これは大きな賭けです。返事がなかったら、ほんとに 決行しよう。そういう決意があった。ところが、待ちに待っても返事が来ない。そこで、 父親は死んだのだと思います。子ども夫婦の苦しさは並大抵のものではなかった・・・・・・」  「君の推理につきあっていると、息苦しくなる。もう終わりにしてくれ」  局長は、荒々しく煙草を灰皿の底に擦り付けて消した。しばらく、どちらも何も言わな かった。  「たいへんです。たいへんです」。若い内勤の職員が、ある日、また局長のデスクに駆 け寄った。また、手紙を持っている。  しかし、局長は、今度は真顔で受け止めた。手紙を手に取って、宛名を見て心臓が止ま るほど驚いた。差出人は失踪していた息子、しかも、宛名は局長自身だったのである。も どかしげに開封すると、便箋一枚きりの短い手紙だった。走り読みすると、いよいよ局長 の顔が青ざめてきた。  「どんなことが書いてありましたか」。若い局員は、しきりに知りたがった。ところが、 局長は、便箋をズボンのポケットにしまいこんだ。「ちょっと頭を冷やしてくる。・・・・・・ これは夢だ。幻だ」。局長は、うわごとのように呟いて、応接室の中に入ってしまった。  それから、しばらくして職員がざわつきはじめた。口々に何かひそひそ囁いていた。見 かねて桐本が、応接室に入った。すると、局長はソファーに身を横たえていた。  「どうしました」。桐本は、感情を押し殺して尋ねた。いや、大丈夫だ。と前置きして 局長は、便箋を渡した。桐本は、貪るように読んだ。  「・・・・・・やっぱり、遺書だったのですね」  「うん。お父さんの遺書だった。君の勘のよさには、参ったよ。お父さんは、女と別れ て一人暮らしをしていた。それがつくづく身に沁みたんだね。息子に詫びを入れた。でも、 返事がない。だから・・・・・・。気の毒なことをした」  「でも、どうして、そんな事情が息子に分かったんですかね。しかも、うちの局に責任 があると・・・・・・」。桐本は、慰めの言葉のつもりでそう言った。すると、そりゃ、君の得 意な推理で考えてくれ、と力なく呟くように局長は言った。  局長は、ケイタイを取り出してしばらくためらっていたが、やがて、番号をプッシュし た。桐本は、その番号を眼で追っていた。局長がかけた先は、紛れもなく本局だった。  桐本は、こっそりと部屋を出た。そして、「息子夫婦を助けなくては・・・・・・」と呻くよ うに言いながら内ポケットの旧型ケイタイをまさぐった。           (了)