タトゥー

瀬本明羅

 <太陽のシンボルの形象は、国によってさまざまだが、中央に円形の表象があり、その 周囲にコロナのようなものを象った、尖った鋸の刃様の形が放射状に噴出している型が一 般的である。かつて日本で行われた万国博覧会のシンボル、太陽の塔のてっぺんの形は、 それをデフォルメしたものである。  ギリシア神話では、太陽神はこう語られる。  大地母神と天空神から生まれた男神と女神を総じてティーターン神族と呼び、その内の 男神ヒュペリオーンと女神テイアーとの間には、太陽神ヘーリオス、曙の女神エーオース、 月の女神セレーネーの三人の子どもがあった。  そのヘーリオスが、四頭の神馬に引かれた日輪の戦車に座して、天空の道を荒れ狂う神 馬を巧みに操りながら横切り、この世の万物に光と熱を降り注ぎつつ西方でオーケアノス 河の流れに沈む。  オーケアノス河の西の果てには、太陽神ヘーリオスの黄金の宮殿があり、そこで沐浴と 休息をした後に、黄金の巨大な盃に乗り、西から東へと流れを渡って帰り着き、ヘーリオ スは、朝と共にまた東から昇るのである。>                      「・・・・・・また、ショータイムが来たわ」  彼女の右肩に彫られた紺色の太陽神のタトゥーが、溜息とともに大きく揺らいだ。  「ダンスは、嫌いなの」  男は、わざと分かりやすく短い言葉でいいかけた。  「嫌いだわ」  彼女は、顔を歪めて言った。  「でも、ここの店の友達は、みなダンサーだろ」  「そう。・・・・・・でも、お酒注いだりしてる」  彼女は、そう言いながら立ち上がり、ステージの横へ入っていった。まもなく、英語の アナウンスが流れた。男は、語学力に自信がないのだが、これからキャスト総出演による ショータイムが始まるという内容ぐらいは理解できた。  十人くらいのダンサーが、この店にしては意外と上品なコスチュームで踊り始めた。し ばらく踊ると、男のダンサーが、メンバーの紹介をした。彼女は、紹介されると、ステー ジの前にすばやく出てきて、軽やかな動きで体をくるっと回した。右手が上から下へ斜め に空を切った。そして、しなやかに、深深と礼をして引き下がった。作り笑いとはっきり 分かる笑みが浮かんだ。一際大きな拍手が湧き上がった。  「ダンス、旨いね」  紅潮した面持ちで、隣に戻ってきた彼女に言った。  「そりゃね。長年やってるから」  「ほんとは、ダンス好きじゃないの」と男が尋ねると、しばらく言葉を探しているよう な顔つきになった。  「・・・・・・日本に来るために習った」  「えっ」  周囲の騒音でよく聞き取れなかった。  「憧れの日本に来るために習った」  「憧れ」  「そう、みんなお金に見える」  彼女は、フロアを見回しながらそう言った。そして、男を振り返った。  「あなた、今日も私のタトゥーに触ったでしょ。どんな気持ちだった」  「暖かかったよ」  答えに窮してそういうほかはなかった。  「みんなそう。日本人は」  「・・・・・・」  「あなた、今夜いくら持ってきたの」  「さあ」  「一晩でね。十何万も使って帰るひと、たくさんいる」  男は、常連ではないが、ときどき彼女に会いにきていた。妻もいるし、三十代の子ども もいた。仕事上のトラブル、いや、何よりいつ倒産するか分からない会社と運命をともに していた。中間管理職のつらさは、自分にしか分からない。彼は、潤沢なお金を自由にで きる身分ではなかった。しかし、家庭的には何の不自由もなかった。では、何のために、 と自分に問い掛けるが、明確な答えは準備されていなかった。惰性で、といったほうがい いかもしれかった。彼女に入れ込む度量も欠けていた。  だから男は、十万、と聞いても特に引け目を感じたわけではなかった。  「・・・・・・日本人は、お金にみえるかい」  「あなた以外はね」  「でも、いままでよく私に付き合ってくれたね」  「貧乏みたいだから、私と同じね」  「そうか。同情してくれて、ありがとう」  また、男は、タトゥーに触れようとした。すると、今度は振り払うような仕種で拒否し た。そして、きっと男を睨んだ。  「もし、私が男だったらどうする」  「・・・・・・」  「蕁麻疹が出る」  「まさか」  男は、咄嗟に否定したくなった。今まで「男」と付き合ってきたなんて。虚を突かれた ような気持ちになった。  「冗談、冗談」  彼女は、大声で笑いながら水割りのグラスをあおった。  「私の母は、上海でメイドやってます。父はもうずっと前に死にました。兄と弟は、ハ ワイのパイナップル畑で働いてます。だから、家族は、ばらばら」  「家にはだれもいないの」  そう言うと、遠くを見つめるような空ろな顔つきになった。  「おばあさん、一人で、残ってる」  「そりゃ、心細いだろうな」  「みんなが揃うのは、一年に一回もない」  男の喉元に、「家族」という言葉がするっと出てきて、舌を刺激した。しかし、男は、 つばとともにぐっと呑み込んでしまった。すると、タトゥーのコロナがぐにゃっと曲がっ たかと思うと、右手が顔を覆っていた。  「でも、人間みんな一人だからね」  彼女は、手で顔を覆ったまましみじみとそう言った。  一人。妙にその言葉が男の心に絡んできた。一人。家族がいても一人。ここでこんな真 理を確かめさせられるとは、思いもよらなかった。  「踊ろうか」と言い出した言葉も呑み込んだ。男は、そんなかっこいいことができなか った。ただ、座って、顔を見ているだけだった。  ところが、それから一週間経ってからまたその店に顔を出すと、彼女は、もういなくな っていた。マスターに聞くと、他の店に変わった、という返事。  「そんなはずないでしょ」  男は、騙されていると思った。よくある手である。金払いの悪い客には冷たく扱う。 これが鉄則である。  「じゃ、他の子に聞いてみる」  すると、マスターは、真剣な顔つきになった。  「お客さん、あの子は、男ですよ。今まで黙ってたけど」  男は、強い衝撃を受けた。それでは、この前の言葉は本当だったのか。そう思った。  「マスター。手の込んだごまかしを言うね」  「お客さん、ほんとですよ。正真正銘ですよ」  帰りの裏通りは、いつものように酔客で混雑していた。不景気だというが、ネオンも 眩しく点滅している。  男は、また、太陽のタトゥーを思い描いた。  太陽。太陽神。  すると、どこからか、「彼女」の笑い声が湧き上がってきた。と同時に、「ニホンジン ハ、キョウヨウナイネ」という言葉が響き渡った。  それは、自分の内奥の声であった。太陽神「ヘーリオス」は男神であることを忘れてい た。「彼女」は、タトゥーで私を試したのかもしれない。男は、そう思い始めていた。  今夜も、「彼女」は男神のシンボルを彫りつけた右腕を晒して、「女」として生き抜い ているだろうか。いや、心の中の黄金の宮殿で沐浴を楽しんでいるかもしれない。しかし、 家族の話は、真実だと男は信じたかった。  男は、その夜何軒かのスナックを回って捜してみた。店の子にタトゥーの「女」のこと を聞いても、だれも知らないという。挙句の果て、朝方になって、男は家に帰った。  ドアをの鍵を開けると、がちゃりという安全チェンの音がアパートの廊下に響いた。妻 が、膨れっ面をして出てきた。下の娘は起きてこなかった。  二時間くらいまどろむと、男は、居間に抜け出て、学生時代以来久しく使っていなかっ た百科事典を取り出し、「太陽神」の項目を読み始めた。 確かに、絵を見ると、太陽神ヘーリオスは男神で、頭部には光背のような形のコロナ様の ものが描いてあった。  しばらく読みふけっていると、学生時代に親しんだ懐かしいインクの匂いが、「彼女」 の香水の香りに混ざって匂ってきた。  男は、「彼女」との一年くらいの時間を思い起こしながら、マスターの言葉を疑い始め ていた。