弱い「現実」                金子昌夫

(河出書房新社『文藝』1978年5月号《同人雑誌評》より抜粋)

 次々に作品を読んでいると、それぞれの読後感とは別にいうならば総括的ともいうべき ある感想が、次第に形成されてくるのを意識するのである。  それは、端的にいうならば、作者おのおのが、自己が創出した作品世界をどこまで信じ ているのかということ。別な言葉でいうならば、己れ自身が否応なく、その現実性に、全 幅の信頼を寄せざるをえないほどの世界として作品を形造っているのだろうか、という問 いかけである。  だがこのような問題提出は、もとより愚かしいことである。作者にとって、自己のすべ てを傾注しない作品などあるわけはない。そう理解する傍で、しかしそれならば、このよ うな感想がなぜ泛かぶのだろうか、という疑問に捉えられてしまう。  作品の多くは、現代の社会生活の実態を、きわめて鋭敏に、かつ緻密に把握することを 創作の契機としている。そこには男と女の、親と子の、企業、地域の枠内における人間の 感情の交錯、苦悶、絶望、諦念、抵抗等が、具体的な行動や言動の描写によって表出され ている。その限りでは、これはたしかに作者が自己の存在を賭けて究明しようとした現実 そのものの顕現なのかもしれぬ。しかしここで考えられることは、それはあくまでも普遍 的な見地での現実性であろうという一事である。個々の作者がどのように細緻に日常性を 情景化しようと、それが同一次元での喜怒哀楽の表現であったならば、作者の個性、作品 の独自性を見出すことはできない。その場合、読者の考えることは、それらの作者は作品 世界の現実性を、他者とは決して融合してしまうことのない一個の構築物として、提示し ているのであろうか、とする一点であろう。  これは作者側から発想するならば、決定的な決意の確認にほかならないが、同時に方法 の問題として考えなければならぬ事柄でもある。どのように現実性の摘出において精緻を 極めても、それは淡彩な風景画のようにしか眺められないとすれば、その作品の現実自体 は、少しも立体性を持たないし、読者に存在性を認識させることはできない。しかし小説 という表現手段は、人間の生き方を描くところにしかそれを活かしうる方途がないとすれ ば、どこにでもころがっている日常の現実生活を捉えることに執するより仕方がない。  平凡で地道な側面で作者たるものひとしなみに対象を追究するとしたならば、限定され た枠内で独自性を際立たせるよりほかにない。いかにも単純で素朴すぎる結論のように思 えるが、この一事を完壁に遂行するところに、自己も信ずるに足り、読者の感動も呼ぶこ とができる強靭な現実性を持つ作品が胎生するのだといえよう。  そのような見地から考える時、徒らに自身だけが納得できる心情や感慨、自己を単に肯 定させるだけの観念や論理によって、作品世界をつくりあげ、それでいながら、熾烈な表 現上の自律性を確保しようとしていない行き方は、最も避けて通るべきところであろう。  この自己だけが判別できることと、自己の個性が最大限に燃焼する表現ということとは、 一見相似しているようであるが、実は背反的なものである。この区別が判然としない限り、 作品は、脆弱な現実性をしか形成しないと思われる。この両者の混同が、作品の価値を、 逆転させてしまうのである。その辺の機微を作者が覚った時、何かが拓かれてくるはずで ある。  村上馨『翔てゆく少女』(「出雲文学」第9号)は(この題名は感じとしては判るの だがやはりぎごちない)、東京から札幌へ出張した青年が、先方の会社で働いている若い 女性と知合う。彼女は約束した男が、演劇の勉強に上京した後、彼が一緒に生活するため に迎えにくるのを待っている。そういう女に惹かれてゆく男の屈折した内面と、相手の女 の、やはり複雑な心情を主題とした一篇である。内容としてはありふれているし、結局は、 女は恋人が帰ってきて、男の前からは去ってしまうのだから、別に事件が起きるわけでも ない。ただこの作品の魅力は、どこにでもある題材によって、遠隔の地を訪れた若い精神 の揺れ動く鋭敏さと、それにもかかわらず、次々に体験する新しい現実の推移を、柔軟に 大胆に享受して、生きるための糧としてゆく新鮮さに存する。たとえば主人公が相手の女 性に心を動かされる一瞬は次のように描かれる。 『何かが起るぞ』するとぼくは急に落着をなくしてしまった。ぼくは取って付けた ように、ぎこちない所作で、ポケットヘ手を突っ込んだ。それから今度は煙草を取 り出して立ち止って火をつけた。……好奇心が臆病に打ち克って、ぼくはすれちが うまで彼女から目を離そうとはしなかった。彼女の方は、いっこうぼくの存在を気 に留めるふうがなかった。ほんの一メートルほどに彼女とぼくの距離が縮まったと き、やっとそれもつかの間のことだったが、それまでじっと彼女に見据えられたま まのぼくの視線に彼女のそれが応じたのだった。  相手を意識して、彼女が少しでも早く気付いてくれないかと願う男の気持が、さり気な い描写のなかに息づいている一節である。このような場面は別にとり立てて際だったとこ ろはない。しかし当の本人にとっては、二度と経験することのない、かけがえのない瞬間 なのだ。そのあたりの機微を、よく表現していると思う。そのような微妙さをさらに適切 に示現している一節を次に引用してみよう。  あ、そうそうとか、まあといった具合に衝動的な感情がそのま亡言葉となって口 からこぼれ出たときなど彼女は特にすばらしい表情を、顔や体全体に持っていたが、 そのようなとき、ぼぐは彼女が瞬時完全に意志を喪失しているのではないかとさえ思 った。話をしていないときは、妙に黙りこくって、うつむきがちの眼差に焦点を定め ず、指先をもてあそんでいたが、そのようなときの彼女は、俄に抽象的な色彩を帯び てくるのだった。  ここでは、突如として内面に空白が起き、放心してしまう若い女のうつろいやすさが、 的確に、しかもきわめて普遍性をもって捉えられている。”俄に抽象的な色彩を帯びて” というような表現は、そのような状態を、何よりも具象的に表わしているではないか。  このようなナイーブな作者の感受性は、作品の結末において、まことに鮮烈に具現され ている。つまり主人公は、ようやく結ばれるらしいその女性と恋人と別れて帰京するわけ だが、その車中で行商のおぼさんと隣り合せ彼女から交通事故で亡くなった息子の話を聞 かされる。そして自分も就職のため故郷を出発した時、見送ってくれた母のゆがんだ笑顔 を思い出す。そのくせ母親への便りは出すのは止め、ついでに会社も辞める決意を固める のである。上司に何故辞めるのかと聞かれても何もありはしなかったと答える自分を想像 しながら。これは作者が、日常の普遍性を描きながら、しかし決してどこにでも見られる 平板な事象を追求しようとしたのではなく、あるひとつの他のどこにもない人生の輪郭を 捕捉していることを証し立てた証左と見るのである。