一枚の写真

                                瀬本あきら

 隣町の湖西町の骨董市でふと手にした箱の中に、映画俳優の古い写真が三十枚くらい入 っていた。退職して間もない春の終わりの頃だった。一枚一枚をよく見ると、その中にサ インの入った田中絹代の看護婦姿のものも混じっていた。私は、大きなものに後ろからど んと押されたような気持ちになってすぐに購入した。  とにかく嬉しかったが、興奮が冷めてからじっくり見ようと、机の引出しの奥にしまい 込んだ。その写真を、五月の連休に恐る恐る出して眺めた。その青インクでサインが書き 込んである写真だけは周囲の縁がぼろぼろになっていて、手垢で黒ずんでいた。しかし写 っている姿は綺麗で愛くるしかった。昭和十三年に公開された『愛染かつら』出演時の扮 装である。田中絹代というと、『サンダカン八番娼舘・望郷』、『楢山節考』などの後半 期の映画を見て、その存在感のある迫真の演技に心奪われた記憶が私には鮮明に残ってい る。しかし、その初期作品の『愛染かつら』だけは随分昔にリバイバル上映の映画館で見 たことはあるが、今思い出しても粗筋がしかと浮かんでこない。ただ、主題歌の「旅の夜 風」だけはそのメロディーと歌詞を覚えていた。  サインは左下がりに「田中絹」と書いてあり、「代」の字は右下にらせん状に崩して勢 いよく他の字の三倍くらいの大きさで書いてあった。  肉筆かどうか判断がつかなかったので、近くの写真屋で見てもらった。  「この文字は刷り込んだものではないですね」  写真屋の主人はそう言った。主人は私より年上の七十歳前後のように見える。  となると、これは大変な価値があるかもしれない、それにしても元の持ち主はどういう 人だっただろうか、この傷みようから考えると肌身離さず持ち歩いていたに違いない、そ れほどの熱烈なファンであればこの持ち主は田中絹代と直接会っているかも知れない、な どと私は想像をたくましくしていた。反面、写真や写真の持ち主への興味から写っている 本人に関心を覚えたことに少しの拘りもないではなかった。  「瀬本さん、あんたは昔の女優が好きなようだね」  主人はにやにやしながらそう言った。  「昔の女優?……そうだね。昔の俳優は輝いていていいね」  そう私が言うと、主人はちらと奥の方を見て言った。  「今の女優も、いい女がわんさかいるねえ」  「へえー、――さんも好きなんだ」  私は嬉しくなってそう言った。  「いやね、私じゃないよ。息子だよ。やっと帰ったけどね。去年までニューヨークで女 優の写真撮ってたんだ。作品たくさん見たけど、いいね、外人も」  「へえー、すごいね。そりゃ初耳だ」  私はいよいよ嬉しくなった。主人は、棚から部厚い写真帳を出した。そして、ぱらぱら めくって見せてくれた。ボディーの線がよく分かるぴちっとした服を着けたたくさんの若 い外国人女優の姿が私はまぶしかった。それを見た瞬間から私は自分が持ってきたブロマ イドの田中絹代の姿がとても日本的な姿に見えてきた。  主人は写真帳を丁寧に仕舞い込むと、右腕を挙げて、サインの文字を真似て宙に書く仕 種をした。そして、味のある字だね、私はこんな気取らない字が好きだよ、と呟くように 言った。  「画像で見るかぎり、サインは間違いないようですね」  出身地下関に田中絹代メモリアル協会という団体があることを突き止め、その事務局に 画像送信すると、メールでそういう返事が返ってきた。近く記念館を建てる計画があり、 展示資料を全国から集めているとも書いてあった。  「メールをいただいたのが三月二十二日でした。前日、私たちは花嵐忌の行事として墓 参を行いたました。その翌日でしたので本当に驚きました。これも何かのご縁だと思いま す」  女性事務局長のK氏からの返事には、そう添え書きがしてあった。  私は心に決めた。記念館の資料としてすべて寄付することにしよう。そうすれば元の持 ち主の思いが永久に保存されることになる。特にその一枚の写真を見て、記念館に入った 人たちはさまざまな思いを膨らませるだろう。そう思うと、私の夢も大きく膨らむような 気持ちになった。  私は早速丁寧に封入し、手紙を付けて郵送した。  数日後、K氏から、返礼だろうか、たくさんの資料が送ってきた。K氏は国内外の田中 絹代に関わる事業を第一線で進めている方である。最近はドイツのケルン市女性映画祭「 フェミナーレ」の開催に際して日本を代表して参加し、ケルン日本文化会館で田中絹代ゆ かりの遺品と、写真パネルを展示した。ベルリン映画祭で『サンダカン八番娼舘・望郷』 が最優秀主演女優賞を受賞したが、生憎体調を崩していたため田中絹代本人は出席できな かった。だから、そのとき遺品として初めて西欧の地を踏んだのである。  送られてきた生誕九十年田中絹代メモリアル実行委員会発行の「田中絹代の世界」とい う冊子などの資料を急ぎ読んで、かの大女優の生涯をあらかた把握することができた。栴 檀は双葉より芳し。この真意をそのまま体現して見せた女優の一象徴が田中絹代だと私は 思った。  彼女のスターとしての出発点。それは筑前琵琶との出合いでもあった。その琵琶は普通 の琵琶より形が少々小ぶりである。その冊子の中に大阪琵琶少女歌劇時代の舞台衣装を身 に着けた十歳前後の写真があった。本からの転載なのであまり鮮明ではない。しかし、そ の顔立ちに私は心奪われた。袴姿で凛として立っているその少女の姿に、すでに大女優と してのすべての資質が輝き出ている思いがした。私は初めて見るその写真の少女の姿を暫 く見つめていた。前に同じ一座の姉妹らしき二人の少女が並んで座っていて、その背後に きりっと引き締まった表情で写っていた。  「これは、もう、立派なスターだ」  私は心の中で呟いた。  私はサイン入りの下関へ送った看護婦姿のスキャン画像をパソコンで改めて見た。する と、子どものときの表情がずっと大人びていることに気づいた。  「不思議なこともあるものだ」  そう呟いて、私は田中絹代という世界的な女優の芸境の広い世界にさ迷い出たような気 持ちになった。  「私、映画と結婚しました」  彼女の役づくりへの情熱を物語る言葉である。昭和十年の『春琴抄・お琴と佐助』では 盲いた「お琴」になり切ろうと、眼をつむって指先に血が滲むほど琴の稽古をしたそうだ。 また、昭和三十三年の『楢山節考』では老け役づくりのために差し歯を抜いた。そういう 逸話は枚挙に暇がない。また、小津安二郎を初めとする名監督たちとの出合いも彼女の演 技力を深めた。そして、成瀬巳喜男監督の指導により、世界でも希な女性監督の仕事も学 んだ。私は、そういう華やかな生涯の底に秘められた人間としての苦悩の臭いを自然に感 じ取っていた。  かくして、十四歳から始まった女優の道を六十歳半ばまでひた走り、その都度年齢に応 じた新しい芸域を切り開き、その名を世界の映画史上に深く刻んで、昭和五十二年三月二 十一日に六十七歳で永眠した。下関市民から香名を公募して、その日は「花嵐(からん) 忌」と名づけられた。『愛染かつら』の主題歌に因んだネーミングである。  資料を読んで、かの大女優の生き様を振り返り、「世界的な」と名のつく人物はかくも ある哉と暫し呆然としていた。しかも私の心の中では、買い求めた高石かつ枝の役の写真 と送ってきた「田中絹代の世界」という冊子の少女時代の写真がオーバーラップしていた。 どちらが彼女の真の人間像に近いか。私は何度も自身に問い掛けていた。  そうこうしているうちに数日間が過ぎた。  「ああ、瀬本さんですか。やっと分かりました。遺品です。湖西町のあるお方の品物で した。骨董市に出されたのはその親戚のお方のようで……」  私はどこのだれが骨董市に出したのか気にかかって、主催した宍道湖に程近い湖西町の 商工会の事務局に問い合わせしていた。数日してからやっと返事があったのである。電話 の声の主は問い合わせをしていたときにはぶっきらぼうな生返事をしていた商工会の若い 男の事務員だった。その後、そのときの応対振りとは正反対に真面目に調べてくれたよう だった。  「……ええっ!遺品ですか!」  「ええ、そのようで……」  「で、その方はいつ亡くなったんですか?」  「そんなことまで分かりません。その方の家はもうありませんからね」  「家がない?じゃ、どうして親戚にその写真があったんですか?」  「瀬本さん、いい加減にしてくださいよ。そんなことまで分かりませんよ」  そうですね。ありがとうございました。私は湧き起こる不分明な興奮を堪えながらそう 言って受話器を置いた。置くと同時に次の行動の段取りが頭を素早くよぎった。  私は湖西町の商工会に出かけて、その親戚だという家の住所を確かめた。その足で町の 南の外れの裏通りを歩き回った。何軒かで聞き確かめると、案外たやすくその家を探し当 てることができた。  門構えの素晴らしい大きな家だった。広大な和風庭園の植え込みの新緑が眩しかった。 飛び石を踏んで玄関の呼び鈴を押すと、七十くらいの上品なお婆さんが出てきた。用件を 伝えると、暫くしてこの家の主人らしき男が紺の作務衣姿で現れた。白髪をきちんと手入 れして、鼻髭も蓄えていた。相当の年配のように見えたが、はっきりした年齢は分からな い。見た目より若いかもしれなかった。その男は立ったままで座ろうとしない。上から見 下ろすように私を見た。上背があり、骨格ががっしりした感じで、私はたじろいだ。  「突然で不躾ですが、私は隣町の瀬本と申します。先般の湖西町の骨董市で田中絹代と いう昔の女優の写真を買い求めましたが、そのことで少しばかりお聞きしたいことがあり ますが……」  すると、その男は急に表情を変え、私の言葉を遮るように言った。  「本家はもうとっくに死に絶えました。私はそのことを思い出したくない。だから、あ んたにはまことにすまんが、引き取ってください」  その男は威圧するように言った。しかし私は負けてはいなかった。執拗に食い下がった。  「たかが写真のことでお時間を拝借してまことに申し訳ございません。お許しください。  私は、しかし、どうしても知りたくなったのです。死なれた元の持ち主のお方のことを。 ですから、教えてください。お願いです。どうしてお宅に遺品の写真が……」  主人らしき男は余計にいらいらしたような調子になった。  「だから、私は少しも喋りたくないんだよ。帰ってくれ」  「そこをなんとか……」  私は食い下がった。  「しつこいなあ、あんたは」  仕舞いには怒り出した。  「本当に遺品なんですね?」  「商工会の男に言った通りだよ。それ以上何が知りたいんだ」  その男は柱をどんと一蹴りした。  「遺品と分かっていて、どうして品物を売りに出したのですか?」  きっとこちらを睨んで男は黙ってしまった。  目線が合ったままだったので長らく時間がたったように感じられた。  「すみません。立ち入ったことをお聞きしまして……」  私は息苦しさに耐え兼ねてそう言った。すると、男は予想に反して表情が少しばかり和 らいだ。  「あんたは本当に礼儀知らずな人だなあ。……しかし、分かったよ。分かったよ。じゃ、 一言だけ……」  私は嬉しくなった。どういう言葉が男の口から出てくるか。じっと口許を見つめた。  「……遺言だよ。遺言。死んだ兄の言う通り一枚の写真だけは棺桶の中に入れた。残り は処分してくれと言っていたので機会を待っていたが、……しかし、なかなか実行できな かった」  「処分?燃やすとかの方法が……」  私はまた言い過ぎたと思った。しかし、男は目を伏せて昔を思い出すように言った。  「あんたは他人だから簡単に言うが、そんなことは私には出来なかった。そんなことが 出きれば、迷ったりはしない。誰かに渡ればその写真は生き延びる……。商工会から催し の話があったときに私はそう思った」  「生き延びる……?」  私は反芻した。  「そうだ。兄の代わりに生き延びる」  私はずしりと重いものを担いだような気がした。  「で、いつ亡くなられたのですか?」  「昭和五十二年。六十九歳だった」  「えっ、三十年近くもその写真を持っておられたんですか?」  「そうだ」  男は噛み締めるようにそう言った。  「で、家族のお方は?」  「兄は色んな土地で暮らしていて、四十五ぐらいだったか、島根に帰った。後継ぎだっ たので責任を感じたらしい。しかし、何故か結婚はしなかった。両親が死ぬと、最後は一 人だけになった。」  私は言葉を失った。  「もう一言言っておこう。兄は大阪に住んでいたときも田中絹代の写真をお守りにして いたよ。どういう事情があるのか分からないが、何しろ田中さんのこととなると目の色が 変わっていたからね。両親もそのことは知っていた。私の両親は一時期下関でも仕事をし ていた。両親はその後島根に帰ったが、兄だけは大阪に行った」  「下関と大阪ですか。田中さんゆかりの土地ですね。」  男は、そういうことには関心がないようだった。  「で、棺の中に入れた写真は、どんな?」  自分でも不思議なくらいの強気になっていた。  「田中絹代の少女歌劇時代の舞台写真だよ。大阪の弟が入れておいた」  「ああ、あの舞台写真!」  私は意外な方面に話が発展していくことに胸躍らせながら、反面怖くもなっていた。  「で、舞台写真はその一枚だけなんですか?」  「いや、ネガのようなものがあった。それも棺に入れようと思ったが、気がとがめて入 れなかった」  「えっ!ネガが……!で、そのネガは今はどこにありますか?」  「大阪の弟が持っている」  「そうですか。まだ残っていたんですね、ネガは」  私の胸の底が熱くなってくるのを感じた。  「貸していただくという訳には……?」  声を低くしてそう言うと、男は意地悪そうな笑いを浮かべた。  「おいおい、相手は大阪だよ。私が返事する訳にはいかないよ」  「もっともです。じゃ、連絡とっていただけませんか?」  また、その男はぶすっとして口を閉ざしてしまった。また暫く緊迫した時間が流れた。 この場合、私の方から再度お願いするしかないと思った。  「失礼しました。電話番号をお知らせいただければ、私からお願いしますが……」  すると、不意にまた怒ったような顔になった。  「電話?おいおい、電話はないだろ」  「ああ、そうでした。出かけます、私が」  すると、男は奥の方へ入っていき、名刺を持って出てきた。受け取って見ると、天王寺 とある。  「天王寺?田中さんが叔父さんと住んでいた所ですね。これも不思議な一致ですね。私、 早速出かけます」  そう言ったものの不安が先に立ち、後悔の気持ちがしきりに喉元を締め付けた。  お礼を言ってその家から出ると、どっと疲れがのしかかってきた。  数日後、連休で混雑している山陰線の松江駅のホームに立ちながら、下関のK氏に電話 しようと携帯電話で事務局の番号をプッシュしたが、呼び出し音が何度も鳴るだけで応答 がなかった。本人は留守のようであった。  買い求めたサインのある写真に端を発して、K氏から送って貰った資料集の中の少女の 写真へと繋がり、今度はまた別の未公表の写真に発展しようとしていた。その経緯をK氏 に報告しようと思ったが、だめだった。手柄を報告して恩を着せるという意図からではな く、田中絹代の未公開の写真が出てくる可能性という自分の膨らんだ夢を知って貰いたか ったのである。しかも、故人の代わりに写真が生き延びて記念館の片隅で様々な物語を入 場者に語りかける。そういう世界が出来つつある喜びを分かち合いたいという気持ちもあ った。  しかし、何度も掛けたが、応答はなかった。  岡山行きの特急電車がホームに到着した。岡山からは新幹線である。新大阪まで合計五 時間くらいはかかる。指定席なので乗ってしまえば何の苦労もなく目的の駅に電車は到着 し、予め連絡してあるので、先方の人は出迎えているはずであった。  しかし、私は胸苦しくなりだした。車内という閉所から逃れたいという衝動をいつもの ように抑えきれなくなっていた。そこで、私は発車間際にウイスキーの小壜を買い求め、 ホームで一気に飲み干した。車内からの夥しい好奇の視線を感じたが、私は少しも恥ずか しいという気持ちは湧かなかった。そして、ふらっとした足取りで指定席に収まった。  車中では、始終禅宗の念仏を唱えていた。そうしていることでやっと揺らぐ心を支える ことができた。両側の初夏の景色の流れがこの世のものではないような気がしていた。列 車から飛び降りて自由になりたいという気持ちが胸の奥でしきりに燻っていた。  新大阪に列車が滑り込むと、私は地獄から解放されたような気持ちになった。ふらつく 足を踏みしめてホームに降りると、疲れから目が朦朧としていた。  出口に向かう人込みの中でどうしたものかと思案していると、人の流れに逆らって歩い ている大分高齢の男が目に入った。その男はしきりに誰か探している格好で私に近寄って きた。  「あのー、瀬本さんですか?」  「ええ、そうです」  「ああ、そうですか。よかった。すぐに会えて」  私の今までの不安が霧消した。兄のいかつい姿からは想像もつかないような優しげな老 紳士であった。  「こりゃどうも、……初めまして。瀬本です」  「長井です。遠路態々……。島根の兄貴はああいう頑固者ですから、失礼なことを言っ たのではと……」  言い方が柔らかいので、私の心はほぐれていった。  「いえ、こちらこそ兄さんにわがままを言いまして……」  そういう挨拶をしながら、駅舎の地下へ二人は降りていった。  小さな喫茶店が見えてきた。二人は申し合わせたようにその店に入っていった。  「何にしましょう?」  長井と名乗る老紳士は、座ると素早くそう言った。大分気を使っているらしかった。  私は、珈琲の匂いを嗅ぎながら、今まで地獄の責め苦を感じつつ旅をしてきた疲れを暫 く一人で癒してくつろいぎたいような気持ちになっていた。しかし、そうしては居られな い。相手にもいろいろ都合があったにも拘わらずこうして出かけてくれたのだ。私はそう 思い直した。  「申し訳ないですね。それではお言葉に甘えて……」  女性店員が二つのブレンドの珈琲を運んできた。  ここで、いきなり話したくなかったが、意に反して言葉が滑り出た。壁掛け時計は五時 を示していた。  「早速ですが、ネガお借りできますでしょうか?」  長井という老紳士は布製の手提げ鞄をテーブルの上に乗せた。  「貴方も酔狂なお方ですねえ。……いや、失礼しました。ははっ、私もそうですね。兄 が死んでから、私は田中絹代が楽天地で公演していたということに何かしらご縁を感じて、 二十数枚の写真を持ち帰ったのです。それを元に、それから長らくそのことを調べていま した。しかし、大きな収穫はありませんでした。そして、何時の間にか興味が薄れていま した。ところへ、貴方から電話が掛かってきて、非常に驚きました。……ああ、ネガです か?それは島根の兄の記憶間違いでしょう。ネガなどありません。でも、同じ写真が二セ ットありましたので、一揃いを今日持って来ました」  私は弟さんに会えばネガが手に入ると期待していたので内心がっかりした。しかし、写 真のすべてが残っていると聞いてほっとした。  だが、卓上に置かれた鞄にはなかなか手が伸びなかった。  「初めてお目にかかるお方に家族の実情をお話するのはご迷惑でしょうが、少しばかり 話させてください」  私は、体が心持ち前のめりになるのを感じた。  「島根出身の父親は、大正の中ごろから下関の海産物製造の会社に務めていました。十 年くらいそこに住んでいました。義理の母も一緒でした。私の父の先妻です。一番上の兄 を連れて暮らしていました。ええ、写真の持ち主です。しかし、夫婦の折り合いが悪かっ たのかどうか、原因がよく分かりませんが、離婚しました。それから、あちらで父は再婚 したのですが、兄は新しい母親を嫌っていたようでした。ですから、父は、元の妻、いや、 私の義理の母になりますが、その人にやむなく兄を引き取って貰いました。大正九年だっ たと聞いています。そのとき、義理の母はすでに大阪で所帯を持っていました。新しい旦 那は、写真関係の仕事をしていたようです。当時まだ自分たちの子どもが居なかったよう ですから、十二歳にもなる子どもを引き取ることが出来たかも知れません。それから、間 もなく私たちの両親は島根に帰りました。島根の兄と私は、ですから、島根の土地で産ま れたのです……」  何故か深刻な家庭の事情を話し始めた目の前の老紳士に、私はいつしか親しみを感じて いた。ただ、応答する言葉が旨く出て来なかった。  「いや、どうも申し訳ありません。初対面のお方にこんなお話をしまして」  「いやいや、結構です。どうぞ、どうぞ」  私は、空腹を感じたのでトーストを二つ注文した。間もなくバターのいい香りがして、 トーストが出てきた。  「こりゃ、どうも……」  老紳士はごくっと唾を呑み込んだ。  「いえいえ、どうぞどうぞ」  老紳士は、ほおばりながら続けた。  「その義母の旦那は、仕事のために楽天地の劇場に出入りしていたそうです。そして、 取材した記事を当時としては珍しい写真雑誌に載せていました。ですから、田中絹代の少 女時代の舞台写真などはたくさん写していたと思われます。ここで大事なことは、死んだ 一番上の兄は、義理の父親と一緒に田中絹代の琵琶歌劇の舞台を見ていたかもしれないと いう事実です。田中さんの家は当時生活が苦しかったと聞いています。その舞台を見たこ とが契機になったか分かりませんが、次第に田中絹代という女優に関心を抱き始めたので す。そして、それが昂じて大阪の家を出て鎌倉に行きました。昭和十二年、兄が二十九歳 のときです。目的は田中絹代を見ることでした。『愛染かつら』の公開は昭和十三年です。 だから、大船撮影所に何度も出かけたようでした」  「それでは、大阪のお母さんは黙認しておられたのですか?」  「いやいや、結婚もしないで女優の後を追いかけている息子を心配していたと聞いてい ます」  「そうでしょうね」  「こりゃ、死んだ当の兄から直接聞いた話ですが、義母は田中絹代を恨んでいたそうで す」  「じゃ、具体的に……」  「とんでもない。相手は時めく大女優ですから、サインを貰うのがやっとだったと思い ます。義母が悲しがったのは、せっかく引き取った息子が、母親を捨てて一人の女優のそ ばへ逃げていったことです」  「そりゃ、よく分かりますね」  「でも、親ばかでしょうが、義母は旦那が撮った写真を送ったり、旦那は旦那で鎌倉で 息子のために田中絹代の取材をしていたそうです。それから、満足な仕事をしていない息 子へ仕送りもしていました」  老紳士は、そこで大きな溜息をして、冷えた珈琲の残りを啜った。  「で、島根に帰られたのは、四十五歳のときと島根の兄さんから聞いていますが……」  「そうです。長男ですから、後継ぎをして欲しいと父が説得したようでした」  「しかし、島根のあの兄さんがいらしたのでは……」  「父は離婚したものの最初の連れ合いのことが忘れられなかったようですので、私たち 後妻の二人の子どもには後継ぎをさせたくなかったんですね」  「兄さんは結婚はされなかったのですか?」  「ええ、そうです。歳が歳ですし、また、本人は田中さんのことしか頭になかったよう で、帰ってからもときどき鎌倉や東京や京都に出かけていましたから。それから……兄は 体があまり丈夫ではありませんでした」  「そうでしたか。で、田中さんと結婚する気でいらっしゃったのですか?」  「とんでもない。そんなことは出来っこありません」  「それから、島根のご両親が亡くなられたわけですね」  「ええ、それから一人暮らしになりました。長い間一人で……」  老紳士は、思いのたけを話し終えたように大きな溜息をした。  私は、ふとその時自分の過去を振り返って考えてみた。私の元の家族は八人だった。し かし、現在子どもや孫が居るものの、その元の家族はいつしか二人だけになっていた。松 江に嫁いだ妹と私だけである。私は家族が肩を寄せ合って暮らすことが一番の幸せだと今 になって実感している。ところが、写真の持ち主の故人は、田中絹代を生きる力として一 人で生きてきた。それが果たして幸せと言えるのか。そして、帰ってきた息子をまた取ら れてしまった母親は……。そして、二歳にして父親と死別して、芸道に打ち込みながら家 族を支え続けた女優田中絹代は……。  私が黙っていると、老紳士は私の表情を伺いながら言った。  「兄は、それから昭和五十二年に満六十九歳で死にました」  「で、棺の中に写真を入れたのですね」  「ええ、遺言でしたから」  「で、どのような写真でしたか?」  私は老紳士の眼を見つめた。  「田中さんの舞台写真です。珍しく一人写しです。父親が撮ったものだと思います」  一人写し。どうしてそういう写真が撮れたのかと私は思った。プロとは言え、相当親し くなければ実現しないことである。歌劇の舞台をもし故人が見ていたとしたら、初めての 出会いは、田中絹代が十歳くらい、本人は十二、三歳ごろだと私は想像した。  「一つ拝見したいものです」  「ここにすべて持って来ています」  「ぜひ拝見したいですね」  やっと鞄が開けられた。すごいことになりそうだ。これは貴重な資料だ。でも、これを 公開すると大変なことになるかも知れない。私は余りのことに狼狽した。  「で、この中のどの写真ですか?」  老紳士が指差した少女の映像は、以前見た一枚の舞台衣装の写真の表情と同じで、やは り大人びた感じがした。私はほっとした。あの面立ちは偶然ではないと考えたからである。  「こりゃ、来た甲斐がありました。ぜひ、これをすべていただきたいのですが」  「結構ですよ」  「電話でお話していた下関のKさんに渡して、今度できる予定の記念館で公開して貰っ ても……」  「お任せします。そうすれば、兄の魂が永久に生き残ることになります」  「でも、遺言では処分してくれと……」  私がそう言うと、老紳士は初めて微笑んだ。 「いや、私と島根の兄はとっくに遺言を裏切っています」  二人が喫茶店を出て階段を上り駅頭に出たときには、もう辺りは薄暗くなっていた。  「明日は天王寺と楽天地をご案内しますよ。田中絹代というスターが誕生した土地です。 多少調べましたので、何とか……」  老紳士はそう勧めたが、私は遠慮した。その一枚の写真とその他の舞台写真が手に入れ ばもう満足だった。  「ご厚意ありがとうございます。明日朝出発しますから」  「そうですか」  老紳士は名残惜しそうにそう言った。私も、もうこの人とはこれから会う機会はないだ ろうと思うと寂しいものが込み上げてきた。二人は別々のタクシーに乗った。  明くる朝、また、新幹線のホームに立ちながら、軽い眩暈を感じていた。  酒だ。酒だ。狂ったようにそう思って探したが売店が近くになかった。気持ちを紛らす ためにまたK氏に電話しようと私は喘ぎながら思った。ポケットから携帯を取り出し事務 局の番号をプッシュした。しかし、また呼び出し音が虚しく響いていた。私は電話を切っ て内ポケットにしまった。  そのとき、ふと、老紳士が言った年月日を思い出した。確か島根の兄さんも言っていた。 私は記憶の底をもう一度探った。……写真の持ち主が死んだ昭和五十二年に田中絹代さん も死んでいる。これは偶然ではない。もしかしたら……。私は、湧き上がった強烈な想念 のために迫ってくる胸苦しさをいつの間にか忘れていた。  俗名源田常吉。享年七十歳。私は菩提寺である湖西町の観音寺の墓碑銘を確かめた。こ の土地でいう所謂寄せ墓だった。だから、戒名は分からない。しかし、故人の俗名だけは その都度墓石の側面に刻み込んであった。私は線香を焚いて黙礼した。それから表へ回り、 庫裏の呼び鈴を押した。  住職が出てきた。以前何かの機会に一度会ったことがあった。私と同年輩だが、その時 改めて見ると心持ち若いような印象を受けた。  「いや、お久しぶりですね。今日はまたどうして……」  これもまた作務衣姿だった。その薄茶色と剃りあげた頭の色から、僧職としての衿持が 匂いたっていた。座布団を勧めながらやおら頭を上げ、私を見つめた。私の用件を早く聞 きたいという様子だった。その時、奥さんが、ほんとにお久しぶりでしたね、お元気そう で何よりです、そう言って、運んできたお茶を座卓に置き、軽く会釈して退出していった。  私は、その時を逃さず、いきなり本題に触れた。  「源田常吉さんの死に日を過去帳で調べていただきたいのですが」  「過去帳?そりゃまたどうして?」  住職は頭を撫でながら困ったというような顔をした。  「いえね、事情を話せば長くなりますが、一枚の古い写真から思わぬところへ話が展開 しまして……」  「ほほう、そりゃ興味をそそられますね」  「後で、また、ゆっくり事情をお話しする機会が来ると思いますが、今日のところはわ がままですが、勘弁してやってください」 「過去帳の中味などはどなたにも簡単にお知らせできませんが、もう家系も途絶えていま すので、御仏にお許しいただきましょう」  そう言って、奥の部屋に入っていき、間もなく部厚い和綴じの帳面を持ち出してきた。 部屋の隅で繰って見て、ああ、といった感じで頷くと、「昭和五十二年の三月二十一日で す」と私の方を見ないで住職はそう言った。 不思議な一致……。また、私は内心動揺した。自殺ではないですか。私は喉元まで込み上 げてきた言葉をやっとのことで噛み殺した。  「死因は何ですか?」  私はそう言い換えて様子を伺った。さすがに住職は返事を渋った。  「瀬本さん、そんなことは私がもし知り得ていても、私はお話しできる立場ではありま せん」  住職はどうしても話したがらないようだった。  「いや、どうも失礼をしました。私もどうかしてますね」  「あっ、そうでした。大事なことをお話ししなければなりません」  住職はまた奥へ入って、今度は手紙のようなものを持ち出した。  「源田さんのご葬儀が終わってから間もなく手紙とともに現金が普通郵便で送ってきま した。差出人の名前がありません。消印は広島の郵便局です。女手ですね。しかも、掠れ て弱々しい字ですが、運筆からすると相当なお歳のお方ですね」  「広島?」  「ええ、そうです」  私は咄嗟に故人の母親のことを思った。大阪から広島へ……。そうかも知れない。いや、 そうに違いない。私は勝手にそう決めていた。  「もしかして……」  私が言おうとすると、住職が即座に応じた。  「ええ、私もそう思います」  「実のお母さんに源田さんのことをその後の消息を知っている誰かが知らせたんですね」  「手紙の内容は、お世話いただく費用に、と書いてあります」  「そうですか。息子さんの供養にと思われたのでしょう」  「ですから、どういう品に変えた方がいいか迷いました。檀家の代表と相談して、その ときに工事が始まっていた無縁仏の供養塔の資金にしました。それが良かったかどうか、 今もふと思い出すことがあります」  「いや、方丈さん、私はそれで良かったのではと思います」  住職は、私がそう言うと、急にそわそわしだした。  「何か……?」  「いえね。その手紙の最後に……」  「何か書いてあったのですか?」  「ええ、意味がよく分かりませんが、田中絹代さんという女優の幸せと不幸せ、女とし ての私の幸せと不幸せ、これは永遠に重なりません、それでいいのです、と書き足してあ ります」  私は、手紙を見せてくれるように言ったが、住職は頑として渡さなかった。諦めの言葉 とも取れるし、恨みの言葉ともとれる内容だと私は考えた。  手紙を仕舞いに奥へ立っていった住職の後姿は肩がいかっていて、相当緊張しているよ うに感じられた。  その姿を見送ってから私は立ち上がって外に出て、もう一度源田家の墓まで行った。  生暖かい風が吹いてきた。雨が近いと私は思った。耳の奥では、幸せ、不幸せという言 葉が反響していた。そして、それに被さるように、花も嵐も踏み越えて……という聞き覚 えのある歌詞がメロディーに乗って風とともに遠くから聞こえてきた。  私は、今まで何かの大きな力に動かされて、田中絹代という女優の新たな姿を追い求め ていた。その過程で、たまたまある男と母親との離別の真実を知ることになった。これは どういう巡り合わせなのか。私は五月の風に吹かれながらこの墓地に立っている自分が、 あたかも闇の世界からさ迷い出た源田さんの霊魂に取り憑かれているように思えた。私は、 そういう想念を振り払うように思わず呟いた。  「……もう一つの花嵐忌だ」  その言葉は、ふと、写真を燃やすという結論に結びついた。一度そう思いつくと、私の 考えは斜面を滑り降りるように一つの方向へ傾いていった。  写真は住職に見せようと思って持ってきていた。しかし、処分してくれ、という故人の 言葉通りに墓の前で燃やそう。今、私に出来ることはそれだけだ。Kさん、もう資料の追 加は止めます。罪を重ねるだけです。私は心の中で謝った。  私は、ポケットから貰った写真をすべて取り出して、常夜灯の中にあったライターで火 をつけた。琵琶を手に着飾った少女の写真が煙と炎に包まれた。風に呷られて煙が空高く 舞い上がった。煙を見ながら、源田さんの思い、母親の思い、そして、私の思いのそれぞ れが燃え上がっていくような気がした。ふと、般若心経が口を突いて出てきた。  そこへ、携帯電話のベルが鳴った。  「もしもし、瀬本ですが……」  すると、小さな声で、ああ、瀬本さん、私、次のイベントの準備で東京に出ていました ので……、失礼しました、何か、変わったことでも……、というK氏の声がした。私は、 いや、特にということはありません、もう、解決しました、と自分にしては少しばかり大 きな声できっぱりと言った。ああ、そうですか、じゃ、また、何かありましたら……、と いう声とともにぷつっと電話が切れた。  私は煙を見上げながら、ぶつぶつと般若心経を唱え続けた。一瞬、私は、虚空に浮かぶ 長い髪を垂らした、会ったこともない女の姿を見たような気がした。                                      (了)
 (参考資料)         『田中絹代の世界』(生誕90年田中絹代メモリアル実行委員会発行)