スプリング・エフェメラル
                             原 美代子

カット写真:村上 馨
 静かだ。寂しいくらい深閑としている。早春の朝であった。鰐淵寺の森は、まだ眠って いる。その静けさを破るように、突然、頭上で鈍い羽音がした。驚いて見上げると、揺れ る赤松の枝に烏が二羽止まっている。つがいなのだ。そのことが余計に腹立たしい。 「祥一郎なんか嫌い!」  思いとは違う言葉を叫びながら、路肩の小石を拾うと力いっぱい投げつけていた。美穂 子の声と空気を切り裂くような石音に驚いたのか、烏はあざ笑いにも似た鳴き声を上げな がら飛び去った。思いもかけず滲んだ目線の先の枝には、新しい芽の膨らみがある。春の 息吹だった。路肩に目を落とすと、名も知らない白い花が咲いている。春の陽を浴びるた めに冬を越して来たのだ。摘もうとした手を美穂子は止めた。懸命にやっと咲いた花なの だ。そう思った。見つめている目の中で、白い花が黄色の背の高い花に変わっていた。背 の高い花は、祥一郎に似ているようにも思えた。美穂子は何の躊躇もなく引き抜き、両手 で胸に押し当てながら抱いていた。  鰐淵寺への山道には、いくつもの石仏が並んでいる。穏やかな優しい目、何でも聞いて もらえそうな大きな耳がある。 「これ、お供えします」  美穂子は、抱いていた花を地蔵の前に置き、地蔵菩薩の和讃を唱えた。 「六つのちまたに現われて こがらし寒くたつすがた 行き交う人の縁むすび さとりの 芽生え待ちたもう」  祖父は長い間、鰐淵寺の総代を勤め、御詠歌をよく知っていた。美穂子は子供のときか ら、その和讃、いわば仏教賛歌を童謡のようにして憶えてきた。それは生き方への賛歌で もあるように思える。和讃を唱えながら、自分がなぜここに居るのか理解できなかった心 境が少しずつ氷解していくのを感じていたが、その予感に抵抗したくもなっていた。 ――慕っている祥一郎は、いまごろあの高慢知己な下級生の女の子と諏訪湖のあたりを歩 いているのだろう。もう何年もそうして来たかのように、大学美術部の数人の仲間と一緒 に取材旅行をしているはずだ。……あのとき見たのだ。大学の入口にある自転車置き場で 抱き合っている二人のシルエット。確か祥一郎とあの子だった……。電話をするから、と 言っていながら、もう休みも終わりに近い。祥一郎を誰にも渡したくない。――  小さいころから祥一郎は友達だった。高校になると、美穂子にとって祥一郎はもうそれ 以上になっていた。惹かれていた。どうしてもいつも一緒に居たかった。大学も無理をし て一緒になるようにしたのだ。それも、美穂子の母の収入からすれば不相応だった。どこ でもいいと言うならば、地元の短大もある。だが、美穂子は祥一郎が決めている広島の福 祉大学に一緒に行きたかったのだ。 「美術部に一緒に入ろう……」  その大学に二人とも入学が決まり、祥一郎がそう言った言葉に、美穂子は一瞬頭の中が 真空になったような気がした。離れた土地で学校に通うことになる不安を気遣ってくれた のだと思うと嬉しかった。そんな優しさを独占できると思ったのだ。専攻科目もいつも同 じにした。好きな絵の描ける美術部にも入り、その関係のアルバイトも一緒だった。劇団 の小道具作り、イベントのポスター描きなどは、美術部の延長のようなもので苦にならな かった。祥一郎と一緒に居ることが、何よりも嬉しかった。 ――美穂子のアイディアや構想はいつもデリケートで巧みだ。柔らかな色を作るのは美穂 子でないと納まりがつかない。――  美穂子は祥一郎のいつものその言葉を聞くと、体の奥底が熱くなるのだった。  福祉大学の学年末は、学生の姿はまばらである。図書館も同じだ。厚手の絨毯が敷かれ たコーナーに座っていた美穂子は吸い込まれそうな静けさの中で、高校三年のときのあの ことを思い出していた。小さな命を葬ったあの日も、静かな春の午後だったのだ。 ――すみれ――美穂子が誰にも言えず自分ひとりで付けた名前を呟いたとき、空気が動い て人影が立った。 「祥一郎……ネ」  肩越しに温かい男の息があり、顔が赤らむのを感じた。立ち上がって振り返ると、祥一 郎の胸があり、笑顔があった。いまここで、誰かが見ていてもいい、強く抱いて欲しい、 いつものようにキスをして欲しい。突き上げるような思いで握ろうとした祥一郎の手で体 を押し戻されていた。 「どうしたの?待っていたのに……」  小さな甘え声になっていた。 「長野に連れてって。祥ちゃんのそばに居たい」  四年生になったら始まる卒業制作のために、仲間と春休みを利用して諏訪湖への取材旅 行が計画されていたはずだった。いつまで待っても声をかけてくれなかったのが美穂子に は不安だった。 「平田に帰った方がいい。わざわざ長野に行かなくても自然がいっぱいあるじゃない」 「そんな……」 「きっといいテーマが見つかるよ」 「だったら祥ちゃんも一緒に帰ろっ」  遠くをぼんやりと見ているような祥一郎の目があった。 「仲間がいるから」 「あの下級生の子を連れて行くのでしょう……。取材が違うんじゃないの!」  電話をあとでする、と言いながら出ていく祥一郎の背中が冷たかった。  年に何度かの休みが来ると母のところに帰りたくなるのだ。  父は大阪の人で、鉱山関係の地質技師だった。仕事がらあちこちの町を移動することが 多かったのだが、その出張で母の住んでいた町に来たのである。どういういきさつがあっ たのか聞いてはいないが、役所勤めをしていた母と知り合い、結婚し、美穂子が生まれた。  美穂子が七つの夏であった。北海道のダム調査現場で、季節はずれの台風が起こした激 流にのまれて父は命を絶った。  故郷の町に帰った母は、祖父の家に住み、農協の売店で働き生計を立てた。大学へ行き たいと言った美穂子の願いも無理をして聞いてくれた。八十歳になる祖父は美穂子を可愛 がった。休みのたびに帰るのも、広島での生活費をきりつめることもあったが、父親の代 わりのような祖父に会うことも楽しみのひとつだったのだ。 「お父さん、久しぶり。春の彼岸よ……」  裏山にある墓の前で、薄らいでいく記憶の中の父に語りかける。 「祥ちゃんたら、誘ってくれなかった……」  姿の見えない父は聞いてはくれているのだろうが、答えはない。墓の前は、美穂子にと って自分をさらけ出せる唯一の場所だった。子供のときからずっとそうだった。  渓谷から聞こえるせせらぎが、いらいらしている美穂子を慰めるように耳に入ってくる。 少し長めに揃えた髪、人気の定番ワンレッグスに美穂子の好きな登山帽がよく似合ってい。 デニムのズボン、グレーのタートルネックのセーターに同色のロングマフラーを無造作に 首へ巻いている。フード付きのベージュのコートはバッグの紐に引っかかっていた。キャ ンバスの布で作った大きめのショルダーバッグの中で、スケッチ道具が歩くたびに音を立 てる。美穂子には、それがもう一人の自分のように思えた。一人歩きのときにも安堵感が あった。  鰐淵寺に通じる蛇行した道をゆっくりと歩く。緑葉樹の茂る間から射し込む光が、渓谷 の水面で屈折し、無数の煌めきを見せている。太陽に輝く銀河である。それに魅せられ吸 い込まれるようにして谷川に降りた。 「あっ、嫌っ。止めてえー、祥一郎っ」  岩肌に張り付いた青苔が、美穂子のスニーカーを滑らせた。居るはずもない祥一郎の名 前を叫んでいた。 「運動神経は抜群だったのに、なんてこの惨めな格好の悪さ……」  美穂子はいつもと違う自分に腹を立てていた。左足が冷たい。足首まで水に浸かってい た。北山連山から流れ出る雪解け水は千切れるほどに冷たい。弥山にはまだ残雪があるの だった。 「やっぱり私はどうかしている」  透き通った流れに手を沈めた。白い指がたちまち赤く染まった。手のひらですくい上げ た透明な水を顔にかけた。一回、二回、――五回。その手の動きは渓流で跳ねるヤマメに も似ていると美穂子は思った。冷たい水に浸かっていた左足からスニーカーを抜いた。靴 底に入った水をわざと目の高さから水面に落とす。風にあおられた飛沫が顔を濡らした。 マフラーの端で無造作にそれを拭い、青羊歯に引っかけていた登山帽を取って深く被ると、 元の道には上がらず、そのまま岩場を上流に向かった。濡れた石の幾つかを飛び越えて行 くと雑木の群落が追ってきた。美穂子はそのまま雑木の中に分け入る。積み重なった落ち 葉の中にスニーカーがめり込んでいく。木の幹を支えにして足を運んだ。左手で握ったア ケビの蔓が跳ね返り、美穂子の胸を叩いた。 「痛い!いや、もう。みんな意地悪っ」  大きな声が森の奥に吸い込まれていく。道のない勾配を突き進んだ。気がつくと、雑木 林を抜けていた。  疲れていた。河原に降りて腰をおろし、スケッチブックを取り出した。何も描いてはい ない。白紙のままである。新しい4Bの鉛筆を取り出した。 「短いのが描き易いのに……っ」  美穂子は鉛筆を放り投げた。捨てるつもりはなかった。なぜかそうしたかったのだ。美 穂子は落ちて行った場所めがけて駈け出した。モスグリーンの鉛筆は芯も折れずに杉苔の 上に乗っている。拾おうとした美穂子の目に、淡いピンクの花が飛び込んで来た。なぜか ただ一本。すみれだった。胸の鼓動が高鳴るのを両手で包み、その場にしゃがみ込んだ。 「……シハイスミレ」  本来は落葉樹林の林床に育つのだ。まだ木々が葉を広げていない早春、日が射し込まな くなるまでの僅かな間に、花を付けて実を結ぶ。スプリング・エフェメラル、春の儚い命 である。美穂子はその花に秘密と思い出を託していたのだ。この世に生を受けることなく、 消してしまった命だった。どうしても産むことのできなかった命に、「すみれ」と名をつ けたのだ。  山あいの停留所に乗合バスが止まった。白いレースのワンピースに長い髪をリボンで結 んだ女の子が降りた。黒い帽子の母親らしい人が重そうなボストンバッグを手にして続く。 祥一郎は、祖父と茶畑から眺めていた。 「可哀相に、てて親が仕事場で死んだげな。こっちで暮らすんだとよ。祥、お前と同じ歳 だ」  都会から来た女の子と同級生になれるという嬉しさが憧れになり、今もそのときの印象 が祥一郎の胸に焼き付いている。  祥一郎も美穂子も高校最後の学年になっていた。進学する大学を決めなければならない 時期だった。祥一郎は美穂子が好きだった。幼いときから何の疑いもなく、いつも一緒に 居るものだと思っていたのだ。大学も同じにしようと美穂子に相談しておきたかった。  美穂子の家は、小高い丘の上にある。細い道を上がっていくと息切れがするほどだった。 美穂子が自分の部屋にしていると言っていた離れに声をかけたが、返事がなかった。母屋 にまわった。縁側で頬被りをした美穂子の祖父、幸吉がお茶を飲んでいるのが見えた。 「祥、久しぶりでねいか。背が伸びていい男になって――。小学校までは、ちょこちょこ、 よう来ちょったにな。まあ、上がれ」  祥一郎はなぜか恥ずかしかった。そう言えば小学校のころまではよく来ていた。放し飼 いの鶏がモクセイ壁の下で餌をつついている。美穂子と遊んだ風景がそれに重なった。懐 かしかった。もっと早く来ればよかったとも思った。 「美穂子か?平田へ母さんと買い物に出掛けた。夕方まで帰らんでな」 「そうなんですか。じゃあ……」 「まあ、ええわ。わしの相手でもしてくれ。たらの芽の天ぷらがある。貰ったもんだが、 きんつばの菓子もあるで」  広い庭に続く蔵の前に美穂子が通学に使っている自転車があった。いつも履いているス ニーカーが干してある。美穂子の匂いに惹かれて座敷に上がった。山水の唐紙と、鴨居の 上のに大きな額があった。「出雲國鰐淵寺之図 明治三十五年作」と読めた。鰐淵寺を囲 む北山には、鼻高山、高清水山、弥山、旅伏山などが連なっている。尾根伝いの伊努谷、 矢尾、遙堪、鈴谷の峠が描かれている。祥一郎は暫く眺めていた。 「興味があるかね」  幸吉は馴れているのだろう、手際よくお茶を滝れながら、絵を眺めたまま座ろうとしな い祥一郎に声をかけた。 「山越えの話を聞かせようか」 「ええ、こうして見ると深い山ですよね」 「ああ……、これからは学問の世の中が来る。勉強が第一だ。親父はわしを出雲の学校に 入れてくれた。この絵の峠は山越えの場所でな、学校に通う道、行商の道でもあったしな。 お袋は背に番茶や榊、はなの木を背負っての、小さい体に痛々しそうだったんじゃ……。 それでな――」  唯一の現金収入の方法だったから、楽しみにして山越えをした。築地松の簸川平野、斐 伊川、遠くの高い山並み、それを覆う雲海の風景は素晴らしかった。地下足袋を履いて出 て、川跡の駅で下駄に履き替える。頑丈な親父は、五十キロばかりの重い炭俵を背負って な、売ったお金で帰りには米や妹噌、醤油を手に入れるのよ。生活の道じゃったなあ。家 畜市場へ親牛や子牛を連れての山越えのことはよう覚えている。お袋はな、帰りに婦人倶 楽部の本、飾りのついた櫛や口紅をこっそり買っていたのを知っとる。わしは、好きな女 子に手紙を送ったけどな、この山の中じゃ振られてしまって、遠縁の娘を嫁にした。その 婆さんも亡くなった。苦労かけたな――。  祥一郎は自転車のペダルを踏みながら、いま聞いたその山越えの道を美穂子と歩いてみ ようと思った。  新学期の四月も半ばになっていた。 「北山越えをして帰ってみよう。明日の土曜日の二時に、遙堪の駅で……」  美穂子を訪ねたのに留守だったことが祥一郎をつき動かしていた。学校の廊下ですれ違 いざま美穂子に囁いた。あっ、と言って驚いた顔で見上げた美穂子の頬が微かに赤らんで いたのを祥一郎は見逃さなかった。  川跡の駅で大社行きの電車に乗り換えた。今にも雨を落としそうな四月の空は重く、北 山の連山を覆っていた。ひと電車後で来た美穂子の姿がプラットホームの端に見えた。肌 寒い日なのに体操服のままである。祥一郎は久しぶりに二人だけの時間が持てることに、 ある種の優越感を抱いていた。このところ教室の話題は大学進学のことばかりだった。友 達はまだ学校に残っている。自主的な補習をするとか言っていたのだが、美穂子のことだ けが頭にあって抜けて来たのだ。駆け寄って来た美穂子の腕を取ると、幼いときもそうだ ったように手を絡めた。首をかしげて肩に寄せた美穂子の髪から汗の匂いがした。若い女 の匂いだった。  中国自然遊歩道ハイキングコースを鰐淵寺に向かって歩いた。 「この間、うちに来たのね。お爺さんがそう言ってた」 「山越えの話を聞いたのさ。だから……」 「でも、今日の天気どうかしら」  篠竹の道を抜けて岩山を通り、雑木林に入った。歩き始めて三十分が経っていた。 「やっぱり……」  美穂子が呟いた途端に、暗くなった空から閃光が走り、大粒の雨が木の葉を打つ激しい 音がした。祥一郎は空を見上げ、学生服を脱ぐと美穂子の頭から被せた。手を引いて岩陰 に駆け込んだ。洞窟というほどではないが岩盤が庇のように張り出し、雨を遮っていた。 岩の周りに、すみれが咲いている。 「美穂子、寒くないか?」 「少しだけ……」  奥まった窪みに座り、美穂子は体を寄せた。小さい肩が震えていた。不意に、その肩を 抱かれて押し倒された。体がこわばる。……初めてだった。……長い時間が過ぎたように 思えた。祥一郎の男の匂いと終わった後の重みを受け止めながら、美穂子は雨に濡れてい るすみれの花だけを見詰めていた。  このことは誰にも言うまいと思った。 「スプリング・エフェメラル。春の儚い命……」  呟きながら、美穂子は丁寧に掘り起こす。 「淋しかったでしょう。ひとりぼっちで咲いているなんて……。仲間のところに連れてっ てあげるわ。もう大丈夫よ」  被っていた帽子を脱いですみれを入れ、その跡へ小石を集めて塔のように積み上げた。 「是は此の世のことならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語 聞くにつけても哀 れなり 二つや三つや四つ五つ 十にもならぬ嬰児が賽の河原に集まりて 父上恋し母恋 し 恋し恋しと泣く声は 此の世の声と事かわり 悲しさ骨身を通すなり 彼のみどり子 の所作として 河原の石を取り集め 是にて回向の塔を積む……」  美穂子は祖父に教えられた水子地蔵供養の和讃を詠いながら、北山連山に向かって歩き 始めた。 「美穂子! 美穂子! 許してくれ。知らなかったのだ。言い訳なんかじゃない――」  祥一郎は手紙を手に、繰り返し叫んだ。  祥一郎君へ  小さいころからの君をよく知っている。優しい子供で、井戸端で転んで寝込んだ私の連 れ合いの枕元でいつまでも相手をしていてくれたのを覚えている。いじめられている子供 をかばって大けがしたこともあったよな。いつか福祉の仕事をしたいと言っていた君が、 いま選んでいる道に間違いはなかったと思う。君は立派な青年だ。これから先、沢山の人 に出会うだろうが、その中へ美穂子を入れてやってくれないか。あの子は、春休みを平田 で過ごしているが、いつもと違う。不安なのだ。何があったか分からないが、私も母親も あの子を助けてやれないのだ。あの子には君しかいないからだ。  何年も前のことだが、山越えのことを覚えているか?その何か月か後のことだった。美 穂子から誰も知らないところで葬りたいと聞いたのだ。父親が君だったことに、そのとき は怒りがあったが、いまは許せる。祥一郎だから許したい。一途なあの子がいじらしいの だ。すぐ帰ってくれないか。                              美穂子の祖父 幸吉より 「美穂子、行くよ。すぐ行くから……」  手紙を持つ手が震え、落ちた涙が青いインクを散らしていた。  祥一郎の目の前に、北山が大きく迫って来た。




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