そこはかとなき風

村上 馨


 人の記憶は曖昧である。あてどなく繰り返される歳月の波によって得難いはずの思いも

いつしか遠い遙か彼方の海原へと放り出されていく。だが失われたはずのそうした記憶の

かけらが、ふとしたはずみから再びたぐり寄せられ、強い刺激を伴って甦ることがある。

そのとき、われわれは、もしあのとき・・・・というあらぬ想像に駆られるものである。

この話も人からすれば何だと思われるそうした類の話にすぎないのだが、私には妙になま

めかしく、また新たな思いとして再生されたのである。



 それは、ほとんど暇つぶしに近いと言っていい状態で小説本を読んでいたときのことで

ある。その日は、ことさらやっかいなことが持ち上がって、神経を磨り減らしていたので

夜家に帰ったときは、いくぶん現実への集中力を欠いていたし、ぼおっとして心ここにあ

らぬ状態に近かったので、おそらく、意識のみが先行する虚ろな状態と言えたのかもしれ

ない。なぜか、読みながらその小説本を読んでいるもう一人の自分の姿が連想され、観客

席から舞台をのぞむように自分が二重視されていたような気持ちだったと思う。

 小説のあるくだりに差し掛かったとき、たしかに私の中にあった遠い出来事にはちがい

ないのだが、私としては予想もしない形で唐突に浮かび上がってきた。小説の中では、今

主人公の女性がその恋の悩みを恋人に打ち明けようと決心して喫茶店に誘いながら、何も

言い出せないまま、結局世間話に終始するというくだりに差し掛かっていて、相手の男は

きっと何か重大な話があるにちがいないと踏んでいたのにいったいどうしたというのだろ

うと訝しんでいる。そこへ、窓の外の坂道を少年が自転車に乗って、それも両手をハンド

ルから手放し空にかざしながら猛烈なスピードで走り抜けていく。瞬間のその姿が主人公

の目に強烈に焼き付いてしまう。得ようとしても得られない『自由』の象徴としてまざま

ざと映ったのである。そしてまったく用意もしていなかった途轍もない作り話を恋人に言

ってしまう。「実は自転車を買ってほしいの。今日はそのお願いに来たの」と。

 このときだった、私が疾うに忘れていたその仄かな出来事を、再び、今度は強い刺激を

伴って思い出したのは・・・・。



 それがいつのことで、仕事での出張だったのか、あるいは私的な用事で出かけていたの

かも、はっきりとはしないのだけれども、たしかなことは、岡山駅から最終便の特急「や

くも号」に乗り込んだということだった。指定席を取っていたのもまちがいない。なぜな

ら、発車前に席はほとんど埋まっていたし、発車ベルの鳴り終わる寸前になって、どたど

たどたっと一人の婦人がせわしなく駆け込んできて、動き出した列車の振動に体を揺らし

ながらも、手にした切符と座席番号を代わる代わる見比べながら私の横にやってきて、し

ばし立ち止まり確認すると、「よろしいですか」と言って私の横に座ったからである。な

ぜか、そのときの光景を私はつぶさに憶えている。きっとめずらしい人、あるいは不思議

な人という印象を持ったのだと思うし、あるいは発車直前になって、ほかの席はほぼ満席

の窮屈な車内であったにもかかわらず、私の隣は空席のまま、これで一人ゆっくりとくつ

ろげると安堵した矢先の不意な出来事であったことも少なからず影響していたのかもしれ

ない。

 その婦人は席についても落ち着かなかった。浅く前寄りに腰掛け、口ではまだ息を切ら

していたし、そうしながらも手は鞄の中からせわしく書類を取り出しては入れ、書類の上

から下へと行きつ戻りつする目は何かを確認をするふうでもあった。私はすでにいくらか

倒した背もたれにゆったりと身を沈め、紀伊国屋書店の紙カバーで被われた人からは題名

の見えない小説本をガムを噛みながら読みはじめていた。私はいつもそうする。人からど

んな本を読んでいるのか盗み見されるのが嫌だった。

 五分ばかりたってからやっと婦人は少しばかり落ち着きを取り戻したようだった。私は

この婦人に話しかけてみたいという衝動に駆られた。素直に、ごくろうさまとでも言って

あげたい気持ちだった。不思議なほど、ものごとに熱心な人だと感心していた。

「どうやら落ち着かれたようですね。ガムでも噛んで少しゆっくりされませんか」

 と、言って私は婦人にペンギンの絵の付いたクールミントガムを差し出した。

「まあ、懐かしいガム・・・・いただいてもいいですか」

 婦人は、はじめて隣人の私をまじまじと見つめ、開口一番そう言ってから先を続けた。

「ああ、間に合ってよかった。乗り遅れるのじゃないかと気が気じゃなくて・・・・どう

しても今夜中に帰らなくちゃならなかったんです。ほんとにごめんなさいね。静かに本を

読んでらっしゃるのに隣でドタバタとお騒がせしてしまって。可笑しかったのではありま

せんか」

「いえいえ、可笑しいなんてとんでもない。何かに真剣そのものでしたから、感心して見

ていましたよ。ごくろうさまって心から言ってあげたくなりましたよ」

「まあ、おもしろい言い方なさる方ですこと。私はおっちょこちょいで、ドジばっかり踏

んでいるものだから、人からは笑われてばっかりですのに・・・・」

 年の頃は、四十になるかならないかくらいだろうか。当時の私よりいくぶんは年下と思

えた。やや面長の顔で、髪は肩先まである。背丈もけっこうありそうである。立てば百七

十センチまでとはいかなくてもそれに近いところまではありそうに見えた。五、六センチ

のヒールを履いていたから、ほんとうのところはもっと低いのかもしれない。体はいくぶ

ん痩せぎすである。目元に好感を持った。二重瞼の大きな瞳を持ち睫毛も濃く長かった。

化粧がうまいせいもあるのかもしれないが、くっきりと浮かび上がって見えた。話しかけ

るときは、私から目を逸らそうとしない。瞬きもほとんどしない。語りかける眼差しとい

うものがあるとすれば、このような目を言うのかもしれないと思った。

「どちらまで・・・・」

 婦人の方から訊ねてきた。

「松江までです」

「そうですか。じゃあしばらくごいっしょできますね。わたしは米子で降ります」

「こちらへはお仕事か何かで見えたのですか」

 今度は私から訊いてみる。

「そう見えました?」

「ええ、そう見えました」

「四国の高知へ行ってましたの。そこが主人のふるさとで、いっしょに行ったのですが、

主人はまだ実家に用事が残っていて、わたしは明日ピアノの発表会があるものですから一

足先に帰るんです」

「ピアノなさってるのですか」

「教室で子どもたちに教える程度ですけどね、明日その子どもたちの発表会があるんです」

「そうでしたか。米子はご主人の仕事の関係で住んでおられるのですか」

「いいえ、米子にはわたしの実家がありますの。主人は養子なものですから」

「じゃあ、米子生まれの米子育ちで今日まで?」

「そうですの。あなたは松江でお生まれに?」

「そうです。ずっと松江にいます」

 そのとき、私たちの車両に車内販売のワゴン車を引いた若い男が入ってきた。

袖振り合うも多生の縁とやら、ビールでも飲みますか」

 妙に親近感の湧いてきた私はそう言って誘った。

「まあ、うれしい。さっきものすごく走ったものですから喉が渇いてしまって。それにお

酒嫌いじゃないものですから。遠慮なくいただきますわ」

「それはいい。正直なお方ですね。気持ちがいい」

 缶ビールとつまみを買い込んだ。栓を抜き乾杯らしきことをして飲みはじめた。

「本がお好きなのですね?」

 テーブルに置いた本のブックカバーを見遣りながら婦人は言った。

「ええ、まあ・・・・こういうときの暇つぶしですけどね」

「ごめんなさいね。わたしあなたのおじゃまをしているかもしれないわ」

「そんなことはないですよ。とてもいい時間ですよ、今は・・・・」

「よろしかったら何をお読みになっているか、お聞きしてもいいですか」

 答える代わりに私はその本を取ると、婦人の方に差し出した。ブックカバーの中は辻邦

生の『西行花伝』だった。

「ずいぶんむずかしい本をお読みになるのですね。わたしにはちんぷんかんぷんですわ」

 私は笑った。なぜか彼女がちんぷんかんぷんと言ったのが可笑しかった。

「私にもわかりませんよ。ただ興味があるだけなんですよ。北面の武士で、超エリートコ

ースを歩んでいた男がどうして突然妻子も捨てて出家したのか。その理由が知りたいだけ

なんです」

「旅して歌を詠んだ人というくらいならわかりますが・・・・」

 気に入った箇所があるとそのページの隅を折り返しておくことにしている私は、その箇

所を広げて彼女に見せた。



 旅には、明日の旅も、昨日の旅もなかった。ただ今日の旅しかなかった。今日の旅を心

ゆくまで楽しみ、味わうこと、今日の旅を精一杯やりおえること──それだけが旅の暮ら

し方であった。



「どう思われますか」

 私は彼女に訊ねた。

「とてもいい言葉・・・・今のわたしにはとても痛切に響きますわ」

 そう言うと、彼女は一本目の缶ビールを飲み干し、「おいしい」と言った。それからま

たすぐに二本目の栓を抜いた。それからの彼女は饒舌になった。主人との馴れ初め、二人

旅した北海道のこと、主人のふるさと高知のこと、今いる二人の子どものことなど、滔々

とまるできらびやかな絵巻物でも広げるように語って見せた。これには、私も少々辟易し

たくらいであるが、やがてその演技の意味がわかった。

「ごめんなさい。調子に乗ってビール飲むとつい近くなるものだから・・・・」

 そう言って一旦話しを打ち切ると、彼女は後方のトイレに立った。彼女の側のテーブル

には、まだ口の開いた鞄がそのまま置いてあって、差し込まれた書類の隅が露出していた。

そこにちらっと見える縁が薄緑色になっている書類が気になった。悪いと思ったのか思わ

なかったのかそれもよく憶えないからきっとそんな意識すらなかったのではないかと思う。

彼女のことを知りたい一心だった。私はそれをそっと抜き出した。そして虚を衝かれた。

そこにあったのは離婚届の用紙だった。男の側の氏名が記されすでに押印してあった。女

の側のそれはまだ白紙のままである。それから窺えること・・・・彼女は高知にいる夫の

もとへぎりぎりの話し合いに行ったものかもしれない。夫の選択はすでになされてしまっ

ているが、彼女の選択はすでになされているのか、なされていないのか、それはわからな

い。そのときになってはじめて、私は私の行為を恥じていた。書類をそっともとの位置へ

差し戻した。今度はやや深く、私の場所からは、書類の縁取りの薄緑色が見えない程度に

まで深く差し入れた。彼女は、私がそれを見たことを気づくのだろうか、それとも気づか

ないのだろうか。私が見たことを彼女に知らしめるために私はそうしたのか、それとも逆

に知られたくないためにそうしたのか。このあたりは微妙な記憶としか言いようがなく、

よくわからない。

 私は二本目の缶ビールを飲み干した。列車はすでに新見駅を過ぎ、中国山脈を越えてい

た。米子まではあと一時間少々。私は腕を組み目を瞑った。彼女と面と向かって話しを続

けるには、私は彼女のことを知りすぎてしまった。やがて、彼女の帰ってくる気配がした。

私の横に立ち、書類を鞄に仕舞い込むかさこそという音、そしてファスナーを閉じる音が

した。彼女ももう私に声をかけなかった。

 どれくらい時間が過ぎていたのだろうか。列車が長いトンネルに入って、轟音が鳴り響

き、列車が激しく横揺れを起こしたとき、うつらうつら眠ったふりをしている私の膝あた

りに彼女のそれが触れてきた。それは、列車の揺れに身を任せた成行きであったのかもし

れないが、その瞬間、私の中に官能めいたぞくぞくっとする何ものかが走り抜けた。反射

的に身を引くべきところだが、なぜか私は、その情に押されて逆に膝をさらに彼女の方へ

強く押し返してしまった。私は彼女が膝を引くものと思っていたが、彼女はそのまま押し

当てていた。と、言うより、むしろさらに私の方へと寄せてきたとすら感じられた。私た

ちは長いことただそうしていた。いや、結局列車が米子駅に到着するまでずっとそうして

いた。足を同じ位置にずっと保ち続けることは苦痛なので、ときどき、ずらしたり動かし

たりはするのだが、なぜか、またどちらからともなく擦り寄せては、膝を触れあうのだ。

膝上少しほどのやや丈の短いスカートを履いていた彼女だったから、彼女の脚のなまめか

しい肌触りがじかに感じられた。熱いものが裡から込み上げてきた。私にはもう目を開け

る勇気がなかった。

 車内放送があって、列車が急激に速度を落とした。膝が離れ、荷物をまとめはじめる彼

女の気配がすぐ横から如実に伝わってきた。『よなごお、よなごお』というプラットホー

ムに流れる案内放送も聞こえてきて列車が止まった。私は目を開けなかった。彼女も私に

声はかけなかった。そのまま、足早に立ち去る彼女のヒールのコツコツという音がしだい

に間遠になり、やがて消えた。ガックンと離れた連結器の再び食い込む音がして、前後に

ひと揺れした列車はゆるやかに動きはじめた。プラットホームにまだ彼女がいたのかどう

かはわからない。

 列車がプラットホームを外れた頃を見計らって、私はやっと目を開け、背後を振り返っ

た。跨線橋から照射される水銀灯の青白い筋のような光が取り残された線路を照らしてい

た。ほかには何も見えない。テーブルに置いたままにしておいた本のページに、一枚のメ

モ用紙が差し込まれていた。それにはきれいな鉛筆文字でこう書き置いてあった。



 よくおやすみでしたので、お声もかけないまま失礼します。

 どうもありがとうございました。

 とっても素敵な温かい時間を過ごさせていただき感謝します。

 どうか、お元気で。                           美奈子



 もしあのとき、私が目を開ける勇気を持ち得たとしたらどうなっていたのだろう。それ

はあり得ない時間ではあるが、同時にこれから先にはあり得る時間でもあるのかもしれな

い。それが私の中で行われた過去の再生作業の意味するところと思いたい。と、同時に一

枚のメモ用紙・・・・それを手にしていなかったとしたら、私が、この仄かな記憶を今日

になって再び呼び起こすこともなかったのではないかと思う。

                             2003年12月13日


作中、次の書を引用または参考にさせていただきました。

辻 邦生 『西行花伝』 新潮社刊

蓮見圭一 『水曜の朝、午前三時』 新潮社刊