真 贋

伝円空佛(瀬本明羅所蔵)
                            瀬本明羅

 Kという著名な美術評論家がいたとしよう。Kはあらゆる面での目利きであった。    ある日、友人に自慢げに文化財的価値のある軸物を見せた。ところが、その友人は、  「こりゃ君、すまんけど、贋作だよ」と指摘した。筆遣い落款は似せてあるが、勢いとい うか、魂が伝わってこない。この画家の作品は、実はたくさん俺も見てて、すぐに分かる、 と、そんな説明をした。  するとK氏、突如顔が青ざめてきて、すたすたと奥の方へ入っていった。出てきたK氏 を見て、今度は友人の方が青ざめた。手に、鞘をはらった日本刀が握られていたからであ る。友人は、思わず、「許してくれ」と叫んで、後じさりをした。K氏の目は空ろになり、 蒼然として佇んでいた。                               やにわに、その軸物を左手で拾い上げると、放り投げ、ばらりと広がった長い褌のよう な軸面を、ばさっと真っ二つに切った。そして、拾い上げて、また空に浮かせ、刀を横に 払った。鈍い音がして、ゆらゆらと四切れになった軸が、友人の目の前に落ちてきた。   「ごめん。悪いことをいった」  その友人は、初めて見た狂気の姿に圧倒されて、両手を突いて謝った。         この話を、何かの折に考えついた時見は、ときどきこの場面を自分がその場に居合わせ たかのように鮮明に思い出すことができた。その都度想像が想像を産んでいた。      恐らく、その刃は、K氏自身に向けられたものであったのではないのか。常に「本物」 を求め、それが人物であろうが、美術品であろうが、求めたものに出会うと、無上の喜び を感じ、様々な文章を産んだ。そういうK氏の真贋を見分ける美意識に喝をいれたのに違 いない。時見は、そう考え、納得していた。                      時見は、ある骨董市で円空佛を購入した。いや、骨董市というより、がらくた市といっ た方がふさわしい店のたたずまいであった。ならんでいる品も、フリマに出した方がふさ わしいものもあった。                                衝動的に手を伸ばして、財布の金をすべてはたいた。へそくりの金はそれですべてなく なった。おまけに、その月の小遣いまで足してしまったから、その月は、何にも買うこと もできなかった。                                  それほどの目が自分にあったのか、というと覚束ない。ただ、円空という名前と、質朴 な表情に引かれただけだった。                            後になって、模刻ということが、現在行われているということが分かり、その作品をホ ームページで見て、驚いた。そっくり、というより、より芸術的な彫面であった。     箱といい、包み紙といい、いや、何より像に時代がにじみ出ている。そう感じていたか ら、江戸時代でも模刻が行われたのだろうか、と不安になってきた。しかし、K氏のよう に、刃物でばっさり断ち割る勇気も出なかった。                   「円空さんが仏像を刻んで祀ったために病気が治った、雷が落ちない、雨乞いに効き目が ある、火事から守られた。飛騨・美濃地方にかずかずの伝説を残した円空は、寛永9年  (1632)に美濃国(岐阜県)で生まれました。生誕地は羽島市内とも、郡上郡美並村 ともいわれています。若くして出家し、23歳のときに諸国遊行の旅にでました。造仏聖 として活躍をはじめるのは32歳の頃とされています。北は北海道から南は奈良県まで、 各地を行脚して修業を重ね、困窮にあえぐ人々の救済を念じて多くの仏像を刻みました。 生涯に12万体の造像を発願したといわれ、5千体あまりの円空仏が全国各地に現存して います。                                      円空は、元禄8年(1695)7月15日、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂します。 言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると 穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげました。円空入定 の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられ ています。」                                          (ウエブマガジンVol.1008「岐阜の偉人伝ー円空ー」より引用) ホームページの様々な記述を貪るように読んだ時見は、この簡潔な文章に心を捉えられた。 達意の文章でさりげないが、これ以上削ることができないほど切り詰めた表現の中に、円 空の人物像を鮮やかに浮かび上がらせている。                     円空の父は不明、母親は円空五歳のとき、長良川の大洪水で溺死している。12万体も の仏像を彫ろうと発願したのは、その母の菩提を弔うためだったと言われる。       様々な表情の像がある。少し意地の悪そうな顔。憤怒の表情。慈愛に満ちた表情。おど けた表情。鬼気迫る形相。どれもこれも、円空の心そのもの、という気がする。中でも、 目元、口元に笑みをたたえた、思わず誘われてこちらも微笑む感じの面相は、円空佛独特 のもののようで、時見の家の作もその微かな微笑が決め手であった。           言い伝えられているように、この笑みは、亡き母の表情を擬したものに違いない、と時 見は感じていた。すると、各地を聖として遊行し、夥しい作佛をなし、貧しき民を救い、 布施行を成し遂げたその先に見えるものは、死ではなかったか。母とともに「生きる」た めには、「死」しか残されていなかったのではないのか。                母が死んだ長良川の河畔で、即身成仏を遂げたことでそれは立証できるのではないのか。 その死に方も、母の懐に抱かれたいという気持ちの表れではなかったか。時見は、そう考 えた。                                       立ち枯れの樹木、流木、木っ端、丸太、太木、細木。なんでも彼は彫り付けた。身の丈 もあるような大作もあるが、ほとんどは、木っ端佛と呼ばれるように小さいものである。 しかも、背面がない。彼は、材木を鉈で割り、皮相部に彫り付けた。しかも、いろいろな 彫具を使わず、鉈か何かで一気に彫り上げたという。                  だから、一見荒削りで、刻んだ線も無造作で、全体的に素朴で、見方によっては、未完 成と思える。しかし、じっくり見ると、無駄な線は一本もないことに気付く。時見が、家 の作品に引かれれた一因もそこにあった。だから、模刻と断じがたく思うこともあった。  時見の円空佛は、十一面観音像である。その頭部に頂く化仏は、下の慈顔と対照的で、 まことに愛くるしい表情の修業僧を思わせるものを感じていた。これも、円空独特のもの のようであった。十一面観音像といえば、フェノロサが絶賛した大和聖林寺の像が印象に 残っていた。金箔がところどころ剥げ、染みもあちこちに出ていた。しかし、気品の高さ は比類なきものを感じさせた。若い頃大和を旅して、たくさんの御仏を拝んだことが思い 出された。今、仏像に関心を抱く素地は、あのころに出来たものであった。聖林寺のもの と比較すると、円空の像は、対極に位置するもののように思われた。事実、円空佛は、子 どもが玩具としてもてあそんでいたものもあるようである。また、佛体を削って煎じて服 んでもいたという。時見は、これは、円空佛の庶民性を物語るエピソードとして特筆すべ き事柄、と解釈していた。                              蓮座に立っている立像は、円空佛の基本型だと、時見は理解していたが、時見が、写真 で見ると、必ずしもそうではないようである。岩座に乗っかっているものなどがあり、一 概に言えない。千変万化。時と場所によって各様の姿を現す。時見の家の像は、蓮座の下 にごつごつした岩座が彫してあった。                         そして、遊行の旅である。旅を続けた1660年代から1690年代は、江戸幕府の体 制が確立し、異教に対する圧力が加わる宗教にとっては厳しい時代であったといえる。と ころが、円空は自由に旅を続けることができた。それは、一所不在の「聖」という下級の 僧侶だったからだといわれている。北は北海道から、南は近畿まで何度か旅を繰り返し、 随所で造佛した。しかし、中国地方にまで足を伸ばしたという記録はないようである。   すると、島根でこうして仏像を見ることができるのは、まことに稀有な出来事である。 逆にいうと、贋作の根拠にもなる。時見は、そこのところが喉元につかえて不快であった。  さて、当の円空の人物像であるが、時見は、ある図書館の美術雑誌で画像を見ることが できた。                                      館内のパソコンで検索すると、「円空」というキーワードで数十冊。「円空佛」という 語では、実に百冊近い数に昇った。                          「人物画が見たいんです」                             そういうと、中年の司書は、ムックの雑誌を持ち出して見せてくれた。         キャレルデスクで他人の視線を遮りがら、その像を凝視し続けた。           「・・・・・・意外だ」                                 自然にそういう言葉が、転がり出てきた。                      12万体の造佛を発願し、あらあらしくまた素朴な像を彫り出した人とは思えない、静 かな面立ちであった。                                細面で鼻筋が通り、切れ長の眼をした色白の老僧であった。払子を両手で持ち、何か言 い出しそうに心持口を開けていた。少しの俗塵をも感じさせない聖人そのものの姿であっ た。                                        どこからそういう力が湧いてくるのか、不思議な気がした。              蝉の声を聞きながら外に出ると、不意に名前を呼ばれた。振り向くと、先程の司書が、 駆け寄ってきた。                                  「あの、・・・・・・よかったらアクセスしてみてください」                渡された用紙には、ホームページのURLがぎっしりプリントアウトしてあった。    「あっ、どうも」                                 時見は、改めてその女性の顔を見た。                        整った顔立ちが、すずやかに笑った。                        帰ってから、その用紙の中の一番上のURLにアクセスしてみた。「円空の恋」という タイトルが出てきた。                                「恋・・・・・・」                                   図書館で見たすっかり煩悩を抜き去った顔と旨くダブってこなかった。         もどかしそうにページを開いて見ると、尼僧の像が浮かび上がってきた。        墨染めの衣に頭巾。                                どうして、あの司書は、このメモを私にくれたのか。                 そして、どうしてこのページのURLをトップに置いたのか。             などという思いと、円空の恋人という想念がない交ぜになって、しばらくぼんやりその 像を見つめていた。                                 しかし、最後のページの説明を読んで、その思いは霧消した。             その後の研究の結果、不動明王の眷属「矜羯羅童子」だと分かった。          そのように記してあった。尼僧ではなかったのである。しかもそのページは、ある美術 館のホームページの別館であることも分かった。                    しかし、長い一生の間、色恋と全く無縁であったとは思えない。時見は、そう勝手に思 うことにした。                                   それから、そのページの管理人にメールを送った。  「・・・・・・写真を送信しますので、その真贋を鑑定してやってください。        よろしくお願いいたします。・・・・・・」                         数日して、返信メールが届いた。                          「歌人としての円空をご存知ありませんか。歌集も出しています。仏像の背面にも記し てあるものがあります。お調べください。また、円空と称する僧は、数人いたという説も あります。また、鉈彫り仏像は平安時代からありました。                写真拝見しました。円空らしい彫りですが、写真だけでは鑑定できません。しかし、ど ちらにしても、真贋を超えた立派な作品と思われます。大切になさってくださいませ。   お気持ちに添うお返事ができませんでした。悪しからず、お許しください」       時見は、しばらく呆然としていた。                         「円空が、数人いる。なんということだ」                      時見は、真っ暗闇に放り出されたような、しかも、無知を笑われたような気持ちになっ た。と同時に、真贋に拘る自分の姿があさましく思われた。               二、三日後に、気を取り直してお礼のメールを送った。                その返事のメールの送り主は学芸員をしている感じであった。             文面には、真贋に拘る自分の目をさましていただいた、といった意味のことを書いた。 それから後は、床の間のガラスケースに納めた木彫りの仏像を見つめる目が変わった。合 掌、低頭して、願わくは、あの画像の円空仏師の作であって欲しい、と祈った。それは、 真贋という視点からの祈りではなかった。円空仏師に対する崇拝からの祈りであった。   そして、ときどき女性学芸員のメールの文面を読み返しながら、その女性の面立ちを想 像していた。時見は、そのとき、いつも身ぬちの芸術への思いに対して、突きつけられた 鋭い刃を感じていた。                                ────会ってみたい。                              時見は、その度にそう呟いた。                      (了)
(注) この作品を書くに当たって、各種の「円空」に関するHPを読んで参考にしまし     た。                                       特に、上記の「岐阜の偉人伝 ─円空─ 」のサイトの記事はこの作品の重要な     モチーフになっています。                             最後に記し、深く御礼申し上げます。