絵の中の竹籠

瀬本明羅

 小倉遊亀という日本画家がいる。ご存知のとおり女性である。  105歳で亡くなるまで絵筆を執った。描いた絵の色調、構図、いや何よりその健康的 で温かい画風が好きである。だから、何度か実物を拝見した。  ある日、どこの会場であったか忘れたが、見たい見たいと思っていた絵に出会うことが 叶った。その絵は、「径(こみち)」という作品である。  夏の昼間、日傘をさした若い母親と幼い娘が歩いている。後ろに茶色の犬も描いてある。 この三者が、縦一列に自然に並んで何の屈託もなさそうにただ黙って歩いている。見るも のをして自ずと微笑ませるまことに長閑な光景である。母親は白い日傘をさしていて、ク リーム色のワンピース姿。子どもは黄色い日傘に白いツーピースを着け、短いおかっぱ頭 で日傘を両手で高く掲げている。犬は穏やかな足取りで歩いている。径は、省筆された薄 茶色。  空は何故かうす曇のような感じで、快晴といった天気ではない。  私はおやっと思った。そして、黒い竹製の折りたたみ式手提げを指差した。  写真などでは、私はあまり気にとめていなかった母親が提げている籠に見覚えがあった のである。というのも、私が住んでいる島根の斐川町荘原のNという竹細工職人の作品に よく似ていたからである。  指差しながら、まさか、という気持ちになってもいた。反面、こりゃ間違いない、とい う激情が湧きあがってきたのである。  「おいおい、この竹の手提げは、荘原のNさんが作ったものだ」と妻に興奮しながら言 った。  「まさか」  「ほんとだよ」  「こんなお洒落な籠が作れる人は、相当の洗練されたセンスの持ち主だわ」  「この黒い竹の芯にからめた黒いネット。間違いない」  私は、むきになっていた。  「そう。それじゃ、勝手にそう信じてたらいいわ」  妻は、どうしても信じようとしない。  「そのNさんの長男と俺は、中学のときの同期だ。しかも、Nさんと死んだ父は懇意に してだんだ」  「それがどうしたの」  そう言われると、自分のことながらそんなことにどうして興奮したのか曖昧になってき た。しかし、40年以上前の子どもの頃の周囲の匂いが蘇ってきたことは事実であった。 父から聞いたNさんの話の中の特許のこともきちんと覚えていた。  確かNさんは、特許のことで父に相談した筈だ。申請料が高いので困っているとも仰っ ていたとか聞いている。それでその特許のことはどうなったのか、全く記憶にない。そし て、肝心の竹の手提げは、世に出たのかどうかさえも定かではない。仮に世に出て全国に 出回ったとしても、模造品が作製されることもあるし、特許申請したとしても、もう他の 職人が手掛けていてすでに遅し、ということも考えられる。だから、絵の中の籠は、Nさ んとは全く関係ない代物という可能性もある。  ただ、その籠は私を子どもの頃に返してくれたし、子どものような夢を与えてくれたこ とは事実である。  どうして「径」という題名なのか。どうして、「夏の日」とか、「パラソル」などとい う題名にしなかったのか。私は、その後あれこれ素人ながら考えぬいた。  縦一列。これだ。母の姿の何と清清しいことか。そして、子どもの何と素直なことか。 また、犬の歩みが、何とゆったりしていることか。これが家族というものだ。籠は全体の 柔らかな色調に大きな力を与えている。しかも籠の中身は草花で、生活感が乏しいのであ る。食材かなにかであれば、この絵の世界は全く別のものになる。  恐らく子どもは、どこまでも「こみち」が続くかぎり、母についてゆくだろう。いや、 二人が歩むと、そこが自然に「こみち」となるのである。そして、やがて子どもは母にな る。そして、また子どもを連れながら「こみち」を歩むことだろう。  すると、「こみち」は、未来へと限りなく続く生命の道である。  「おいおい、あれは大変な絵だ」  私は、居間に収まってもまだ興奮していた。  「それよりも、コーヒーが冷めますよ」  妻は、テレビを見ながら横目で私を見ながらそう言った。  「籠のことを、ちゃんと確かめるまで俺は死ねないぞ」  「いつも貴方は大袈裟なんだから」  「なんとでも言いなさい。当分籠のルーツを調べるからな」  そう断言してからは、引き下がるわけにはいかないので、図書館に行ったり、当のNさ んの家を探したりした。ところが、資料はないし、探していた家ももうだれも元の家族は 住んでおられなかった。  途方にくれて、当分の間、放心状態だった。そして、何時の間にか熱も冷めてしまった。  その後、何年か経ったある年の正月に、中学の同窓会を行った。だれかが発起人をして くれて、何十年ぶりかに実現した。  出てみると、百数十人集まっていた。それぞれ年齢が全身に現れ、自分のことは棚に上 げて、お互い同士、お前老けたなあ、などと言い合っていた。  クラス別に記念撮影を済ますと、懇親会に移った。あちらこちらが、急に賑やかになっ た。私も、いろいろな人と話をしながら、ついつい度を過ごすほど呑んでしまった。  「君は、アキラ君じゃないですか。間違ってたら御免」  近づいてそう声を掛けた人がいた。朦朧となった目で上から下まで確かめるようにその 人物を確かめた。あのNさんの長男に間違いなかった。  「おい、元気でいたのか」  そう言うなり、私は抱きついた。  突然なので、驚いた様子で、「君は、変わったねえ」と言った。  「大人しかったけどなあ」  「そりゃ昔のことだ」  二人は、並んで椅子に腰掛けた。  私は、彼が大阪にいること、その後の様子など聞くこともなく、いきなり籠のことを確 かめた。  「うん、その絵のことは自分もよく知っている。あの籠は父が作ったものだよ」  「それで、特許取ったのか」  「うん、取った」  「じゃ、あの有名な画家、小倉遊亀の『径』の中の籠は、斐川町産だね」  「うん、間違いない。あの竹の組み方、染め方を見ると父のものに間違いない。皮のつ いた竹に色を付けるのに、父は苦労してたようだった」  「そうか」  「うん、そうだ」  私は、急に有頂天になった。天にも昇る気持ちといってもよかった。  「じゃ、何らかの方法で、小倉さんの遺族の方に連絡してもいいね」  「うん、そりゃ、君の気持ち次第だよ」  そんな会話をしながら、私は不覚にも涙をこぼした。そして、慌ててハンカチでぬぐっ た。  その後自分はどうなったか、私は全く覚えていない。気が付くと、家の炬燵で頭を抱え て苦しんでいた。  そして、苦しみながら、どうしてあの時涙が出たのか考えていた。  年を取った級友の顔を見たからなのか。真実がつかめたからなのか。少年のような夢が 叶ったからなのか。死んだ母を絵の中の母親に重ねたからなのか。はたまた、早死にした 父が恋しくなったのか。全く分からなかった。ただ、頭の中では、白いこみちが延々と続 いていた。  小倉遊亀氏の御遺族には、未だに何も連絡していない。