桜 瀬本明羅
じいさんの腰は、直角に曲がっている。 今年で数えの九十歳になる。 しかし、ばあさんとの二人暮しなので、毎日の山行きが唯一の収入源である。 その日も水平になった背中に、少々の薪を背負い込んで帰り道を急いでいた。ただ、急 ぐといっても、気持ちだけの早足であった。藜(あかざ)の杖をついている。 「この薪を、酒屋の伸介じいに売って、魚と野菜を買い込んで、ばあさんに渡さねば・ ・・・・・」 ばあさんの喜ぶ顔が、じいさんの生きがいであった。 ぐいぐいと背中の荷が、胸と腹を締め付ける。 「・・・・・・こんなことでへこたれたら、二人とも飢え死にだ」 じいさんは、地面にへたりこみそうになる自分の体をかろうじて支えていた。 「○○じい、手伝ってあげようか」 通りかかった子どもが声をかけた。じいさんは涙がでそうになった。しかし、断った。 「いい大人になるぞ、坊は」 きょとんとして子どもは立っていた。 「いいから、いいから。母さん待ってるぞ。早くお帰り」 子どもは、その言葉で諦めて、わき道の方へ駆けて行った。 捨てる神あれば、拾う神ありか。そうじいさんは呟いた。そして、また家路を急いだ。 後ろから車の音がした。あっという間にじいさんの脇を通り過ぎた。風圧でじいさんは 少しよろめいた。 捨てる神あれば、拾う神ありか。じいさんはまた呟いた。そして、アスファルトの道の 表面を見つめた。 「あれ、桜だ」 本当に、白い花びらのようなものがちらちらと舞っていた。じいさんは、上目遣いで山 を見上げた。 「まさか、桜の時期はとっくに過ぎている。葉っぱだらけの山だ」 じいさんは、自分の目を疑った。もうろくしてからに・・・・・・。 しかし、確かにちらちらと白いものが舞っている。じいさんはそのちらちらに近づいて、 じっと見つめた。 「なんだ、やっぱりちがう。紙切れだ。しょうもない」 気がつくと、すたすたとまた歩き出した。 家が近づいてきた。腰には魚の藁苞(わらづと)がぶら下がっていた。 すると、何故かまた目の前をちらちらと舞い上がるものが見えた。じいさんは、また思 い返した。紙切れだ。紙切れだ。 「……しかし、待てよ。もうろくしたから、あれは本当の桜だったかもしれん。遅咲き の」 もう、じいさんは、どちらとも区別がつかなくなっていた。ただ、ちらちらと、ちらち らと白い花弁が頭の中を舞っているだけだった。