思い出

村上 馨


 美鈴とつき合って三年ほどになる。つき合ってると言っても、週にやっと一度くらい彼

女の勤める店に飲みに行くか、彼女が店に出る前に、二人で食事に行くぐらいのものであ

るが、なぜかそういうことだけで長く続いている。店に行った日は、帰ってから必ず彼女

の携帯にメールを入れる。そうすると、彼女もまた家に帰ってから必ず返信メールを入れ

てくれる。どんなに遅くなっても、ぼくが帰ったあと、彼女は明け方まで店に居ることも

多いが、そういうときでも、そういうことに少しも悪びれず正直にメールを入れてくれる。

多分続いているのは、こうした彼女の律儀さによるところ大ではないかと、ぼくはひそか

に思ったりもしている。



 遅くなってごめんなさい。あなたが帰ったあと、お客さんに誘われて朝まで飲んでいま

した。おやすみなさい。あなたはもうとっくにおやすみですね。あなたの夢の中へこれか

ら押しかけていきますね。入れてくれますか?あなたのMisuzu。



 と、まあこんな具合である。ぼくの先回りをする術もちゃんと心得ている。ご丁寧にも

末尾には絵文字のハートマークまで付けてある。そのメールを、ぼくはもう夢からも醒め

てしまって、朝、けたたましい目覚まし時計の音に条件反射する雄犬のように飛び起きて、

まずトイレに駆け込んで、前夜の深酒にやや黄色味を帯びた尿を気味悪く思いながら流し、

洗面の鏡にやつれた自分の顔を映し、電気カミソリですっかり伸びた髭を乱暴に剃り、最

後に重い頭を思いっきり洗面台に突っ込み顔を洗い、台所のコーヒーメーカーのスイッチ

を入れ、そして一段落すると自室に戻って携帯電話を手に取りやっと目にすることになる。

それが結構楽しい。思わずひとり吹きだしてしまう。単調な営みの中で、これは、ぼくの

ささやかなというか、むしろ唯一励みとすらなっているのかもしれない。妻はまだ寝てい

る。ぼくもいい気なものだ。



 メールを出すきっかけは何だったのだろう。出会った頃の記憶をさぐってみるのだが、

どうもよく思い返せない。きっと遊び半分にはじめたものにちがいない。定期的にという

か、店に行ったあとは決まり事のように入れ合うようになったのだが、そのきっかけは、

たぶんぼくがメールアドレスを変えたときからではないかと思う。

 前のメールアドレスは、ぼくのイニシャルを略した英文字だけのもので、ある頃から、

怪しげなメールがしつこいほどおびただしく入ってくるようになり、ぼく宛の真のメール

は、その中から探し出すのも一苦労するようになった。というより、着信があって慌てて

開いてもそんなものばかりで、やがて開けて見るのもおっくうになった。ついついすぐに

は開けて見なくなって、放っておくと、そんなときにかぎってぼくだけに宛てられた稀な

メールだったりした。とにかくちぐはぐで面倒なことになった。そこで、メールアドレス

を英文字と数字を組み合わせた複雑なものに変えて、怪しげなメールもぷっつりと已んで、

逆にメールが来ないことに淋しさすら覚えたほど一安心していた矢先、当の彼女から携帯

に電話が入った。

「松嶋さん!メールアドレス変えたでしょ!わたしとっても悲しかった」

「ごめん、ごめん。迷惑メールがあまりにも多くなってきちゃって、変えてしまったんだ

よ。そのこと知らせようと思ってたところなんだよ、ついさっきだけど・・・・」

 ぼくは見え透いた嘘をついたが、彼女はそれ以上突っ込みを入れなかった。こういうと

ころの判断も彼女はきれいさっぱりとしたものだ。そういうところに、ぼくは甘えてもい

る。それからではないかと思う。ぼくたちが頻繁にメールを交換し合うようになったのは。

 彼女が見かけによらず(こういう言い方は彼女に失礼なのかもしれないが)繊細だと思

うこともあった。出会ってはじめの頃、ぼくは彼女が他の客とぼく以上に楽しそうに談笑

しているところを見ると(それをぼく以上の関係と見てしまうところがすでにぼくの嫉妬

心の芽生えなのだろうが)、すぐに不機嫌になった。そういう日は、早めに切り上げて、

帰ってからもやや事務的な言い回しで返すだけのおざなりのメールを入れることになった。

すると、すぐさま彼女は反応してくる。それもやけに丁重な言い回しを駆使してのものだ。



 今夜はわたしあなたに何か、お気に障ることでもしたのでしょうか?わたしに心当たり

はないのですが、もしあなたには何か障ったのでしたらお詫びします。これに懲りずまた

いらしてくださいね。お待ちしています。あなたのMisuzu。



 それでぼくは安心した。彼女がぼくをいつも強く意識していてくれたのだということを

感じ取ることができたのだ。嫉妬心はどこかへ吹き飛んだ。そんなことで、ぼくたちは少

しずつ信頼しはじめていったのだと思う。



 彼女と長く続いている訳はほかにもあった。それは、彼女がぼくの私生活を決して詮索

はしないということだ。彼女にしてみれば、ぼくが結婚しているとか、子どもがいるのか

いないのかということなど、関心のないことだったのかもしれないが、とにかく、まった

く意に介さないというか、聞きもしなかった。ぼくも、自分の身が身なので、彼女のこと

は、あまり詮索はしなかった。人づてや彼女の口から自然に耳に入ってきたことだけが、

ぼくの知り得る彼女のすべてだった。両親が離婚していることはわかった。家を出てアパ

ート暮らしをしていることもわかった。彼女と同じようにほかの店に勤めながら、生活が

苦しくて転がり込んできた後輩の女の子と奇妙な同居生活をしているとは、彼女の口から

直接聞いた。国立のS大学に二年間在籍していたことは、人づてに聞いた。そういうこと

だけで判断するのはどうかとも思うが、道理で利発な女だと、そのときは単純に思った。

「美鈴さんて、頭いいんだ。S大学に行ってたんだって?」

 と、鎌をかけてみたことがあった。すると彼女はにべもなく言ったものだ。

「そんなあ、とんでもない。誰だって入れるじゃないですか」

「おいおい、そんなに軽く言うなよ。そんなこと言ったら世のおおかたの高校生怒るよ」

「だってそうなんですもの」

「それは、きみの高校が進学高でレベルが高いからだよ。もっと広い見地でものを見なく

ちゃだめだ」

 急にぼくは、説教臭くなってしまったが、それも彼女に一蹴されてしまった。

「よくわからない」と。

「とにかくたいしたことではないわよ」と。

 彼女が軽いのか重いのかぼくにはよくわからなかった。ただこういうことにあまり重き

を置いていないということはよくわかった。そういうことを自慢するわけでもなく、かと

言ってわざと謙遜するというのでもなかった。要するにどうでもいいこととは言わないま

でも、彼女の問題意識の埒外にあることは確かなようだった。今まで、こういう女とはお

目にかかったことがなかったので、彼女のこういうところが、ぼくにはとても新鮮だった。

心許してもいい相手だとそのとき思った。



 外見について言うと、彼女は決して美人という層に属する女ではないと思うが、不思議

と彼女目当てに来る客は多い。何事も根には持たない軽やかな性格が、大きな魅力となっ

ているからだ。男にとっては、知性や美貌よりもこういう側面に影響を受けてしまうとい

うことも結構あるようだ。

 高校のときに、ソフトボールをやっていたと言うだけはあって、体躯はなかなかしっか

りとしている。胸もやたら大きい。スーツの胸元からは、アンダーウェアーをはみ出てし

まいそうなほどの豊かなふくらみが見え隠れしていて、それも男を惹きつける大きな性的

要素のひとつなのかもしれなかったが、ぼくには、そのことはあまり重要なことではなか

った。ぼくにとって魅力的だったところは、外見的に言えば、その黒くて長いストレート

な髪。多分その頃は、腰のあたりまで伸びていた。ソファーに座ったりすると、立ち上が

るとき、知らず踏んでしまっている自分のお尻に引っ張られて痛いとけらけら笑っていた

ほどだ。とにかく、真っ直ぐに伸びてしかも一本一本がとてもか細い糸のようなのだ。傍

目もあって、あまり二人で外を歩いたことはなかったが、これでミニスカートでも穿いて

歩こうものなら、いっそう目立つ女となることは疑いを入れなかった。まあ、男というも

のは、ぼくを筆頭に、みんな女の尻を追いかけ回すことにおいては、子どものようなもの

だ。そんなことで、夢見心地になれるのだから。彼女に会いたいがために酒を飲み、酔い

痴れ、疲れ果て、そして結果散財してしまうのだ。

 肉体関係はなかった。それを持てば、ぼくは必ず嫉妬に狂うことになる。それが何より

怖かった。嫉妬心はもうこりごりだった。むろんぼくだって、体を重ね合わせることは、

快楽の極みにはちがいないと思っているが、それ以上に嫉妬心がぼくを苦しめることにな

ることもわかっている。そのつけを秤にかければ、まちがいなく味わった快楽以上の代価

となる。彼女が店勤めをしている以上、ぼくがあらぬ想像に囚われ、嫉妬するような局面

にはきっと事欠かない。

「松嶋さんて、いつも大人ですねえ・・・・」

 と、彼女が言ったことがあった。誉めているのか、皮肉っているのか、どういう意味で

彼女がそんなことを言ったのか、真偽のほどはよくわからないが、そんなことと無関係で

はないように思っている。彼女にしてみれば、体を欲しがり激しく言い寄らないぼくに不

満があるようでもあり、一方で、ぼくが言い寄らないことは、その身に害が及ばないこと

で安心もしている。ぼくという人間の曖昧なところでもある。そのことが、いつも女との

間に結局は諍いを起こさせる元凶ともなっていた。あなたは卑怯よ!何度、女の口から罵

られたことだろう。確かに当たるには当たってはいたが・・・・。



 彼女がぼくにくれたものの中で今もとても大切にしているものがある。そして、そのこ

とがぼくたちの関係を一変させた。それは、佐瀬工業所二代目佐瀬勇氏の手になるひねり

の入ったクリスタルの硝子ペンだ。彼女が東京へ遊びに行ったとき、台東区のその工房ま

でわざわざ足を運んで買ってきてくれたものだ。装飾的にも素晴らしいものではあるが、

それ以上にそれを手に取り、指先に力を籠め、文字を一字一字丁寧に書いていくと、言葉

というものが、なんと美しいものであるかということを実感できた。そしてそれは、ぼく

には予想もできなかった力を賦与してくれることとなった。ぼくは、彼女に手の内は何も

見せはしなかったが、案外彼女はぼくのことを知りすぎるくらいに知っていたのかもしれ

ないと、今では思うようになった。ぼくの歴史ではなく、ぼくという人間の底の底のとこ

ろをうまく衝いてくる。気が合うということは、こういうことなのかもしれないと。

「どうして、これを・・・・」

「いっしょうけんめい考えたの」

「何を・・・・?」

「あなたを」

「ぼくを・・・・?」

「そう、あなたを」

「そしたら・・・・?」

「これが、浮かんできた」

「硝子ペンなんて知ってたの?」

「知らなかった」

「なのに、浮かんだ?」

「そうではなくて教えてくれた人がいるの」

「だれ・・・・?」

「道で絵を描いていた人。その人がとてもきれいなガラスペンを使ってスケッチしていた

の。下町を描いていたわ」

「それで・・・・?」

「その人にいろいろ教えてもらったの。ガラスペンの良さだとか、使い方だとか、書き味

だとか。そのペンのあるお店の場所までていねいに教えてもらった。これだと思った」

「そう・・・・、そんなことがあったの。で、どうしてぼくとそのペンが結びついたの?」

「いつもあんなメールをわたしにくれる人だもの。言葉を大切にしてる人だっていうこと

くらい、わたしにもわかるわよ」

「そう取る人は少ないと思うけどなあ・・・・」

「それは、あなたがそう思っているだけ。わたしにしても同じこと。ちがった?」

「うん、まあ・・・・・」

 と、そこでぼくは肝心な言葉を濁してしまった。

「これで、きみとのことを日記に書くこととしよう」

「まあ、うれしい。見せて」

「きみには見せられない」

「けち!」

 と、彼女が返すやいなや、ぼくはもうたまらず彼女を抱き締めてしまっていた。すでに

彼女の目は力無いまま薄く閉じられている。



「ねえ・・・・」

 と、彼女ははすかいにぼくを見上げながら言った。

「なに・・・・?」

「来世ではきっとふたりいっしょになりましょうね」

「そう、きっとね」

 ぼくたちは、ただ会話を楽しんでいるだけのことなのかもしれない。あとさきはわから

ない。男と女の約束が真実であった験しは古今極めて稀少なことだ。

「寄り添って腕を組んで歩いてくれないか」

「いいんですか?」

「たまには」

 彼女がぼくの腕に手を回した。なぜかぼくたちはそこで目を見合わせて笑った。すっか

り明かりの落ちたペーブメントを二人ではじめて歩いた。それも歩くというよりは、胸張

って闊歩するという感じだったかもしれない。

                            (2004年1月27日)