残り火

『百日紅』(撮影:村上 馨)
瀬本明羅

 台風一過。十月初旬。秋の宍道湖の澄みきった夕日の光が湖面をオレンジ色に濡らして いた。私と高根佳代は「鴎」という喫茶店で長い時間向き合って話をしていた。ただ話と いっても途切れがちで、顔をときどき向け合いながら次の言葉を探しあぐねていたのであ る。しかし、その時間がとても私には心地よいものとして胸の奥底まで染み透ってきた。 言葉に詰まると、私は腕時計を覗いて時刻を確かめるような素振りをした。何度もそうし ていたので午後四時からおよそ一時間半そこにいることを自然に理解していた。  高根佳代は私と高校二、三年生のときの同級生で、大学卒業後は同じ県内とは言え、私 は斐川町、彼女は松江市に住んでいたし、勤務地もそれぞれがあちこちと移り変わってい たので三十年以上もお互いの消息を確かめ合っていなかった。ときどき盗み見するように 顔を見ながら、私はその年月を越える何かが今の二人にあったのだろうかと思った。そう 考えながら、いや、現にこうして会っているのだから心を繋いでいた何かがあるのに違い ないと自分に言い聞かせていた。  彼女は高校時代はすべての男子の憧れの的であり、女子の羨望と嫉妬の対象であった。 というのは出雲地方では稀に見る美人であったからである。ふくよかな顔立ちで背が高か った。いわゆるなで肩のなよなよとした体型ではなく、肩幅があり全体にがっしりとして いた。私たちの若い頃は、ふっくらした顔立ちや体型に男子は憧れていた。男子が数人集 まるといつも彼女の噂話が始まった。当時は成瀬佳代と言った。 「おい、彼女今朝遅刻してきたけど、山ちゃん何も注意しなかったな。ぼうっとして座る のを見てただけだった」 山ちゃんとは担任の山際聡教諭のことを指していた。 すると、他の者が待ってましたとばかりに言い出した。 「昨日の代数の時間に、均ちゃんがぐるりと教室を見回す格好をして、このクラスには美 人が多いね、男子諸君は楽しいだろう、なんて言ってさ。成瀬の他には美人なんていない から、あいつのことを言いたかったんだ。あいつもきっと好きだぜ。」  均ちゃんとは、池澤均助教諭のことである。  続けて、その話に加わったある男子が最新情報を披露した。  「聞け聞け! あっと驚くビッグニュースだ。我がクラスから大女優が誕生するかもし れんぞ。じゃじゃじゃじゃん! 東映だよ、東映から引っ張られているそうだぜ」  この話には教室にいた男子も女子も本当に驚いた様子でだれもが耳を傾けている様子だ った。別のだれかが「おい、時代劇かよ? それとも現代劇かよ?」と聞き正した。  「もちろん時代劇だよ」。その男子が答えると、へえーと言う溜息混じりの声が教室中 に響きわたった。  私は授業開始の時刻を気にしながら、「女優」という言葉を聞いて体が痺れるほど不思 議な快感を感じた。そして、当時活躍していた私が好きなある時代劇の女優によく似てい たので、こりゃ打ってつけだと思った。事実、日本髪の鬘が似合いそうな顔立ちだった。  当時、彼女は実家の出雲市に住んでいて自宅から徒歩で通っていた。私はすし詰めの汽 車に揺られて通学していた。私はその話を聞いてから一層成瀬佳代に興味を持つようにな った。教室で彼女の姿を見つけると、うっとりとしてじっと見つめていた。  夏休みに学級キャンプをしようと話がまとまり、私はうきうきしてその日を待っていた。 ところが、当日の朝彼女は迎えのバスに乗らずにクラスのみんなに手を振って見送ってい る。私はがっくりして、キャンプをしていても何も面白くなかった。その後も何とかして 声をかけようと努力したが、あまりにも美しすぎて近寄りがたかった。ただ、一度だけ、 「瀬本さん、いい人ね」と言われたことがあった。その日は体育の時間があり、生憎風邪 を引いていて見学をしていた。だから、終わっても着替えをする必要がないので、男子の 誰よりも早く教室に向かっていた。昇降口に差し掛かると、自分のクラスの下足箱の下に 女物のズックの下履きが片方落ちていた。誰だろうと思いながら拾い上げようとすると、 墨で「成瀬」と書いてあった。どきっとして私は拾い、悪いことでもしたように慌てて戻 した。そこへ彼女が現われた。私は硬直して彼女の顔を見つめた。  「見てたわ。……ありがとう。悪戯されて困ってるの。でも、瀬本さんはいい人ね」  このときが話すきっかけを作るいい機会だったが、「いい人」と言われて、もう何も言 えなくなっていた。  ――実行に移すしかない。  私は、決心した。  明くる日、私は手紙を書いて内ポケットに忍ばせた。放課後、彼女の家まで行き、家の ポストに手紙を入れておこうと計画した。その日は放課後が来るのが非常に遅く感じられ た。やっと放課となると、彼女が帰ったことを確かめて出雲市の彼女の家に向かった。直 接渡したい気持ちが十分にあったが、家を確かめることも兼ねて歩いて出かけることにし た。歩きながら私は恍惚としてきた。例えポストに入れることができなくても、家を見る ことで十分目的は達成されると考えた。  しかし計画に反して、手紙は持ち帰ることになった。  卒業後は、二人はいよいよ遠く離れてしまった。彼女は東京の大学。私は福岡市の大学。 地理的な条件からして、私が島流しに遭ったような感じだった。大学の学部はあの噂にな った女優関係の道とは縁がないようだった。  そこで、手紙の遣り取りなら出来ないことはない、そう考え直した私は、先ず夏休みを 見計らって彼女に手紙を出した。内容は要するに交際して欲しい、ということであったと 思う。念のために返信用の封筒も準備して送った。ところが、届いた返事の差出人を見て 驚いた。素晴らしく達筆な字で父親らしい名前が書いてあったのである。表書きの宛名の 脇付けに「御直披」とあった。初めて目にする言葉だった。恐る恐る開封して読んだ。要 約すると、貴方の人柄は娘から聞いていてよく存じています、交際をということですが、 年頃の若者が二人で交流するとお互い不都合なことが起こりがちです、私も随分躊躇しま したが、「手紙」だけなら本人もいいと言っていますので、しばらくの間付き合ってやっ てください。と、そんな内容だった。  ――やった!  私は小躍りして喜んだ。高校一の美人と文通できる。そう思った。最初の返事に写真を 送ってくれ、と書いたら女友達と二人で写したものが送られてきた。私は少し不満だった が、大事に額に入れて机上に飾った。ノースリーブのワンピース姿だった。高校時代とは また違った美しさを発見し、有頂天になっていた。しかし、父親の言葉通り文通以上の事 態まで進展しなかった。彼女の手紙の文面から心の裏側が透けて見えていた。これ以上進 んではいけない、といつも歯止めをかけている様子だった。時々電話でも消息を確かめる こともあった。そして、どちらからともなく手紙の遣り取りは途絶えた。  「あの写真、まだ大事に持っているよ」  私は薄明かりが照り返す湖面を見つめている彼女に突然そう言った。  「ええ! まだ持っていらっしゃったの?」  彼女は顔を赤くしてそう言った。しかし、それきりで続く言葉はなかった。私はあの若 い頃の姿を目の前の高根佳代にダブらせて見つめていたが、年齢からくる衰えをあまり感 じさせないほど艶やかな顔立ちだった。茶系のスーツを着て、首には薄い紫のスカーフを していた。装飾品は何も着けていない。ただ、手首からのぞいている腕時計は形が派手過 ぎないセンスのいい品物だった。しかし、よく見ると何か思い詰めたものが漂っているよ うな気がした。  私は次の言葉を探してまた暫く黙って同じように湖の対岸の灯かりを眺めるともなく見 ていた。すると、硝子に映った彼女の視線が不意にこちらに向けられた。私は途端に四十 二歳のときの同窓会を思い出した。出雲市の体育館を貸しきって行われたその会は、私た ちの期別同窓会が主たる担当者だった。だから、地元に残っているものは準備に苦労した。 何度も準備会をして、本番にはゆっくり酒を飲んでいる暇がないほどに忙しかった。 会が引けて誰もが退場するときも後片付けをしていた。すると、数メートル前を友達と連 れ立って帰ろうとしている高根佳代がいた。ああっと思っていると、ふと彼女が横を向い て私を見、何か話したそうな顔をした。そして、また前を向き、何事もなかったように通 り過ぎて行った。私はそのときの一瞬の視線が心に焼き付き、ときどきその場面を思い出 して胸を熱くしていた。  「ああ、思い出した。あの同窓会のとき、何か僕に話したかったのでは……?」  彼女はやや動揺した素振りを見せた。それは何かを隠しているかのようだった。  「いや、懐かしかったので、声を掛けたかったんですが、友達がいて……。失礼しまし た」とは言ったもののまだ言い足りない感じだった。  「あの頃貴方個人のことで何かあったんですか?」と私はすかさず尋ねた。すると彼女 は急に俯いた。  「実は、主人を亡くしまして……。放送局のディレクターをしてたんですが……」  「ええっ! それはお気の毒でした。それで、再婚はなさらなかったのですか?……い や、大変立ち入ったことまで尋ねてしまって……」  「いいえ、構いませんよ。……再婚ですか?……してません」  彼女は過去を断ち切るようにきっぱりとそう言った。  「じゃ、あのー……。申し訳ない。身上調査になってしまって。あのー、それで子ども さんは居られるんですか」  「はい、娘が二人居ましたが、二人とも嫁に出しました」  「じゃ、あのー……、今は一人で住んでいらっしゃる……」  私は自分でもおかしくなるほど気持ちが高ぶっていた。  「ええ、一人住まいは気楽でいいですよ。寂しければ、娘と孫を呼べばすぐ賑やかにな ります」  「だから、私が手紙に書いた通りにこうして出かけて来れたんですね?」  そう言うと、彼女は笑い出した。  「そんなに簡単に女がのこのこと出かけませんよ」  「いや、ご免なさい。私の言い方が悪かった」  彼女はまた薄暗い湖の方をちらと見て、それから私の眼をじっと見つめた。私はどぎま ぎしてしまって、見つめ返すことができなかった。  「最後にし残したことがあると思ったからです」  私の瞳の奥を見透かすような視線を向けながらそう彼女は答えた。  「し残したこと……?」  「ええ」  「と言うと……?」  「こうしてお会いしてお話しすることです」  私はそう聞いてほっとした。次第に肩の力が抜けていく感じがした。  「それから、最後、と言うと……?」  そこまで問い詰めると、急に彼女は押し黙ってしまった。そして、きつい視線が急に緩 んで瞳に涙が滲んでいた。  「何かあったんですか? よろしかったら誰にも話しませんので聞かせてください」  暫くの間また沈黙が続いた。数分の間が長い時間に感じられた。そして、ハンカチを取 り出して瞼に当てながら答えた。  「もう誰にも会えないと思ったからです」  「もっと分かりやすく言ってください。お願いです」  「……死ぬかも分からないからです」  意外な言葉を突然聞いたので、私は顔が青ざめていくのが分かるほどの衝撃を受けた。  「病気ですか?」  「ええ、まあ、そんなとこです」  「医者はどう言っているんですか?」  「もう一年か一年半だと言ってます」  「じゃ、癌ですか?」  「いや、違います」  「じゃ、何ですか?」  「貴方には言わないほうがいいでしょう。ただこうして貴方に会ってお話しできればそ れでいいんですから」  彼女はハンカチをバッグの中にしまうと、またもとの表情に返っていた。  「ところで、貴方の方はいかがですか?」  「いや、歳相応の病は持っています。でも、すぐに命に関わることはないようです」  「それは何よりです。で、ご家族は?」  「祖母と両親が死んでしまいましたので、妻と息子、それに祖父です。娘は最近県外に 嫁ぎました」  「息子さんは独身ですか?」  「ええ、遅い子どもでして、まだ大学生です」  すると初めて笑顔が出てきたので、私は安心した。  「それでは、これからがお楽しみですね」  私は時計をまた見た。六時半を少し回っていた。コーヒーと一緒に頼んだ食べかけのサ ンドイッチが干からびたようになっていた。店のウエイターがじっとこちらを見ていた。  「奥の座敷で食事しませんか。もうこんな時間になってしまって」  すると、意地悪そうな笑顔が彼女の顔に湧きあがってきた。  「奥さんに叱られますよ。平日に夕食食べたりして遅く帰ったりすると」  「いや、今日は遅くなるから夕食はいらないと言って出てますから」  「ほんとは、怖いんでしょ?」  「いや、それほどでもないですよ」  「もし、私が今夜引き止めたら貴方どうします?」  唐突にそう言われて、私は咄嗟にいろいろな妄想が頭を駆け巡った。  「冗談でしょう。おどかさないでください。心臓によくない」  「いいえ、本気ですよ」  さっきの意地悪そうな笑みは消えていた。  私は答えをはぐらかすように彼女を奥の座敷に誘った。座卓の上には和食と洋食のメニ ューが置いてあった。壁にモネの「日傘の女」の絵が飾ってあった。この部屋の雰囲気に は不似合いだった。ウエイトレスが注文を取りにきた。二人とも和定食を注文した。手拭 を使いながら私はそれとなく全く違うことを聞いてみた。  「モネの絵好きですか?」  「ええ、大好きです。県立美術館でも見ましたし、東京でも何回も見ました」  「この壁の絵ですが、もう二枚よく似たものがありますね」  「ええ、顔が描いてないのと右向きのでしょう?」  「どれがすきですか?」  「やっぱりこれかしら」  ここで話題を戻せば私は窮地に追い込まれることになる。そう考えて、彼女の立場を顧 みることなく続けて尋ねた。  「どうしてですか?」  一瞬彼女の顔がまた翳ってきた。  「どうしても貴方は答えさせたいのですね」  しまった、と思ったがもう遅かった。  「この奥さん何て言ったかしら……、この後死ぬんですね、二人の子どもを残して。そ の予感が表情に表われている……」  「ごめんなさい。悪気はありません。」  間もなく注文した定食が運ばれてきた。どうぞ、と勧めると遠慮がちに彼女は食べ始め た。目の前で家族以外の女性が食事をする様子を見ていると、可愛らしいと言っていいか、 哀しいと言っていいか分からない混乱した気持ちが襲ってきた。傍に寄って抱きしめたい。 そんなことも考えさせた。彼女は箸を休めると、独り言のように言った。  「手紙、そう、手紙をこんな時期になって私に出そうと思ったのはどうしてですか?」  さっきの話題から逸れているので私はほっとした。  「貴方と同じですよ。し残したことです。いや、そんな言葉で表現できないような一種 の寂しさからです」  「貴方の場合、これからじゃないですか。みんなに頼りにされている。これは大変なこ とで、これこそ生きてるっていう実感ですよ。私の場合とは違う」  「……いや、同じですよ」  「どうしてですか?」  「私は長いトンネルの中に居るんです。しかも、機械になって走っている」  「というと……?」  「私は閉塞した場所が苦手なんです、電車みたいなところが。だから、遠くへ出かけな いことにしています。出かけたことがありますが、乗り物の中はもう地獄です。仕事は営 業ですから、ハンディーが大きい。もうがむしゃらにやってるけれど、この不景気ですか ら何時首になるか分からないんです」  私は必死になって説明しようとしたが、言葉が旨く出て来なかった。私はまだ地獄のよ うな状況から完全に抜け出ていなかった。しかし、そのことを伝えようとする努力は彼女 にとって意味があるのかとも思った。ただ、し残したことについてもっと説明する義務は あった。  「そうだったんですか。何にも苦労がないように見えましたけど……」  「何度も止めようと思いました。二十年近くもそういう状況でしたから、人との距離が 広がってゆくだけで……」  「分かる、分かる」  私はこの言葉をじっと待ち望んでいた。だから、そう言われて初めて心をすべて開くこ とができると思った。  「自分は何をして来たか、誰と歩いてきたか、と思って周りを振り返って見たとき、ぞ っとするときがある。誰もいないような気がして……」  私は高根佳代に出した手紙の内容を思い出していた。すると、我ながら惨めな思いがし た。私個人の現実とは何の繋がりもない一人の女性に突然会いたいと言って泣き付いたの だから、完全な人生の敗北者である。  彼女はまた一箸つまんで食べると、ハンカチを口に当てた。  「貴方にもう一つ言い残したいことがあります」  「えっ、何ですか?」  「父のことです」  「お父さんが……」  「ええ、ずっと死ぬまで私を拘束してきました。貴方から届いた手紙だって先に見てた んですから」  「ああ、分かりました。それでお父さんが返事を書かれたんですね?」  「ええ、そうです。東京の大学に決めたのもいろいろな友達から遠ざけるためでした」  次は何が出てくるか、という不安が頭をもたげた。しかし、予想外の言葉が飛び出して きた。  「本当は女優になりたかったんです」 では、あの噂は本当だったのだと私は思い、今度は身を乗り出すような感じになった。  「親戚に東映のある監督さんと懇意にしている方がいて、その方が推薦してくださいま した。一度監督さんにお会いしたところ、非常に気に入っていただきました。大川恵子に 匹敵する素質があるとまで言われて、大学時代に端役で出演したこともあります。大川橋 蔵さんの時代劇でした」  「それで……?」  「その親戚の方が父を説得しようとしました。ところが、頑として受け付けなかったの です」  「大川橋蔵の映画に出た……」  「ええ、台詞なしの端役ですから大川橋蔵さんとお話をする機会はなかったんですが、 近くで演技を見て勉強していました。大川恵子さんの気品のある演技には引き付けられま した。私は到底あんな俳優さんにはなれないと思いながら、それでも密かにライバル意識 を感じていました」  私は憧れていたスターの名前が出てきたので夢見ごこちになっていた。  「ええ。それから結婚だって、一方的な押し付けでした。その映画に関係のあるスタッ フが父のお気に入りでした」  「それが、亡くなった貴方のご主人?」  「そうです。でも仕事が仕事ですから、過労で早死にしました。もともと性に合わない 仕事を背伸びしていたんですね。それから間もなく父が死にました」  私は同窓会のときの彼女の視線をまたここでも感じた。父の束縛そして死、夫の死。苦 渋に満ちた生活の始まりである。私の父は早死にしていたが、彼女の父のような束縛はし なかった。  「父は六十歳半ばで死にました。夫は四十歳半ばです。私が四十二の厄歳の頃です。私 の本当の人生はそこから始まったと思っています。子どもを女手ひとつで育てながらの生 活は苦しかったですが、本当に生きているという実感がありました。保険の勧誘もしまし た。夫の親友の紹介で放送局の臨時職員もしました。でも、その頃には今度は私が病気に なっていました。やっと解放されたと思った矢先でした。人生は先が読めないですね。そ れでも娘を嫁がせてほっとしていました。今度は自分の始末をするだけだ、と思っていま した。もちろん寂しい気持ちもありました。でも、一人で居ると、すべて成し遂げたとい う充実感が支えになりました。ところへ、貴方から手紙が来たのです。ああ、大変なこと をし残していた、と思いました」  「そこまで思っていただいて、感謝しています」  私はまた時計を覗いてみた。八時を少し過ぎていた。残りの料理を急いで食べ始めると、 彼女は、じっと私の箸先を見つめていた。食べないんですか、というと、もうお腹がいっ ぱいです、と言って箸を付けようとしなかった。  食事が終わると、アフターコーヒーが出てきた。マグカップのような大ぶりの器だった。 彼女はコーヒーは美味しそうに飲んだ。私もコーヒーは中毒気味なので一気に飲み干した。 そして彼女が飲み終わるのを待っていた。ほんとにお腹がいっぱいなんですか、もう少し 残りを食べて帰りませんか、というと飲みながら首を横に振った。そのとき唇を突き出し て一瞬目を閉じた。その仕草がとても艶っぽかった。飲み終えると、その口許から溜息を 漏らし、ああ、美味しかった、ご馳走様でした、と言ってにこっと微笑んだ。  「ここまで電車で来られたでしょう?」  「ええ」  「じゃ、私が車でお宅まで送ります」  そう言うと、彼女は突然声を立てて笑い始めた。  「誘惑しようと思ったのに」  「ああ、そうでしたね。今夜はそのお気持ちはお預けです」  「もう会えないかもしれませんよ」  彼女はハンドバックから鏡を取り出すと、口紅を使った。その姿を私は目に焼き付ける ようにじっと見つめていた。  「……いや、きっとまた会えます。それを祈っています」  外に出ると、「喫茶店鴎」と書いた看板が照明で明るく浮き出ていた。建物は和風の作 りなので、その輪郭は暗くなった宍道湖の背景と程よく溶け合っていた。私が先に乗りエ ンジンを掛けヘッドライトを点けた。すると、彼女は助手席にするりと入って座った。 松江市に向かって走りながら、両サイドにときどき浮き出てくるコスモスの花をわたしは 見つめていた。私のし残したこと。私は何度となくその言葉を反芻していた。さっきその 言葉をきちんと説明しようとして、とうとう曖昧なままにしてしまった。家族が身近に居 るかぎり際限なくその中身が出てくる。ただ、高根佳代に対してし残したことというと何 だろうか。今日会って自分の苦悩の一部は話すことができた。当初考えていたことのほと んどは成し遂げることが出来た。しかし、彼女につられて不意に口にした「し残したこと」 とは何か。お前は自分の人生を自ら限りあるものにして、この女性に命を捧げようとして いるのか。私は走り去る民家の明かりを過去の夥しい禍根と罪障のように思いながら見送 っていた。車は松江市の市街地に入っていった。  「どこの町ですか?」  「法吉町です」  「分かりました。近づいたら通りを教えてください」  指示通り進めてゆくと何度も通ったことのある道に出てきた。県営住宅が見えてきた。 そして、私の妹が嫁いでいる家の前を通りかかった。  「せっかくの機会ですから、是非私の家に上がってください。取り散らかしていますが ……。ああ、映画に出たときの写真をお見せしますよ」と彼女は焦ったように私を誘った。  私は即座にいい返事をしたかったが、さっきの誘惑という言葉がまた心に絡み付いてき たので話を逸らした。  「体、大事にしてください。まだまだ長生きできますよ」  「ええ、ありがとう。でもね、今度再入院することになったらもうお仕舞いです。今こ うしていられることが不思議です。今のところ通院だけですから」  「これから私が貴方を支えますから」  自分でも驚くような言葉が自然に出てきたことに私は慌ててしまった。そして突然「し 残したこと」の内容をしっかり掴んだような気持ちになった。  「ずっと、ずっと死ぬまで支えてください」  「ええ、約束します。だから、今夜だけは失礼します」  すると彼女は右手を伸ばして私の左ひざに置いた。温かい体温が伝わってきた。  「瀬本さん、実はね、私車持ってるのよ。今日は家に置いてきた」  「ああ、そうでしたか」  「貴方を誘惑したかったの」  「作戦不成功ですね」と言って微笑んでちらと彼女の顔を見た。視線を逸らすように彼 女は外の景色を眺めるような素振りをした。  「ずっと、ずっと……ね」  「ええもちろんです」  道が急に狭くなり、車庫が見えてきた。  「ああ、ここです。ありがとうございました」  「じゃ、私はこれで……」というと、彼女の右手が今度は私の左手を握り締めた。  「お願いですから、せめて玄関まで入ってください」  「はい、分かりました」  私は素直に従うことにした。玄関の鍵を開けると、彼女は電灯を点けた。私は急に開か れた秘密の世界に入り込んだような気持ちになった。あまり広くはないが、綺麗に掃除が してあって、灯かりに玄関ホールの床が輝いていた。私はあっと驚いた。さっき喫茶店で 見たのと同じ「日傘の女」の絵が正面の壁に掛けてあったからである。  「モネですね」  「ああ、この絵ですか。思い出しました。モネの妻のカミ―ユですね。さっき私も驚き ました」  「何か思い出があるんですか?」  「ええ、死んだ主人が大事にしていたものです。複製でもなかなかいい出来のものです」  「ご主人がですか?」  そう言いなから私は深い罪意識を感じた。彼女は夫のことをいまだに強く愛しているの ではないのか。そこへ私がずかずかと入っていくことは出来ない。そう思った。  「今日はこれでお別れですね。きっとまた来てください。……私が生き続けていたら」  「そんな言い方はしないでください」  「じゃ、今日の最後のお願いを聞いてください」  そう言いながら、彼女は私に寄りかかってきた。  「この日を待っていました……」  私は初めて高根佳代の体を立ったまま抱きしめた。それをモネの絵が見下ろしていた。 カミ―ユ。カミーユ。私は彼女の髪の匂いを嗅ぎながら幾度となく呟いていた。  もしも。もしも・・・・・・。限りなくもしもという言葉を使うことが許されたら、私は別の 大きな世界が現出すると考えた。帰りの車の中での想念である。  もしも、彼女が病気でなかったら。もしも、女優になることが許されていたら。もしも、 私が手紙を出さなかったら。もしも、今日泊まっていたら。もしも、彼女が別の男と結婚 していたら。もしも、私が病気でなかったら。もしも、……。  湖面の月明かりがほの白く見え隠れしていた。私は心の火を温めながら車を西へと走ら せた。                                   (了)