読んだ作品 

松本侑子 作
『小説新潮』2002年10月号掲載 短編特集「秋の四重奏」 キュートな中年ラブコメディ ハワイ編            「優雅なるロマンスグレーの美女遍歴あるいは愛娘物語」
瀬本明羅

 赤川次郎が、「青春の手帳」という文章の中で、日記は、あったことを書くからつまら ない、かえってなかったことを書いた方が面白い、と記している。彼は、もう中学生のこ ろから虚構性の世界の面白さを掴んでいた。  『小説新潮』や『オール読物』というと、私が、若い頃熱心に読んでいた雑誌である。 『文学界』、『群像』や『新潮』とは異質の虚構の世界を味わわせてくれた。そして、私 は、せっせと新人賞に応募した。選考委員に吉行淳之介氏もおられた記憶がある。これは 間違いだろうか。ところが、すべて予選落ちであった。  しかし、そういうことをしながらいろいろな作家を知ったことは事実である。1970 年代のことである。中でも、五木寛之氏の世界にのめりこんでいったことは、印象として 強く心に残っている。あれほど旨く虚構の世界を構築できる作家は珍しいと思っていた。  ところが、その虚構の中に投影する作者の素顔を見つけることが、作品を読む面白さで もある。五木作品には、終戦直後の荒廃した原風景が背景にあると思っている。  私個人のことをいうと、乗り物恐怖症で遠くにでかけられない。代わりに物語を読んだ り書いたりしながら、虚構の世界を広げている。ウエブにのめりこむのもそのことが原因 である。  松本さんの今回の作品で、また、「旅」をさせていただいた。感謝している。ほぼこう いうストーリィである。  主人公「織田涼一郎」は翻訳家である。「ロマンスグレーの容姿と、リリシズムの訳文」 で人気が高い。妻には若い頃別れ、今は、娘「和佳子」とばあやの「志乃」の三人で暮ら している。「織田」は娘がいずれ嫁に行くことを不安に思っている。  「織田」は、漱石流にゆうと、いわゆる「高等遊民」的な人物である。だから、その知 性的な魅力に魅せられた中年フアンとアバンチュールを楽しんだりできる身分でもある。  ある年の夏、親子二人でハワイ旅行をすることになった。  胸躍らせて到着した現地で、二人の前に、これも親子で旅行に来た「静山京子」という 中年の母親とその息子「好之」が姿を現す。「織田」は、「京子」に関心を持ち、「和佳 子」は「好之」と仲良くなってゆく。父親として「織田」は、娘のことが気がかりでなら ない。そして、自身は「京子」に心を傾ける。  楽しい時間を過ごした後、いよいよ別れの時が訪れる。そこで、ハプニングが待ち受け ていた。ハンドバッグが盗難に遭い、現金、カード、そして航空券までもがなくなったと、 「涼一郎」の部屋へ「京子」が駆け込んできたのである。結局、「涼一郎」は、50万円 を貸し与え、「京子」親子は、帰っていった。  さて、帰国して、「和佳子」が指定された「京子」の電話番号をプッシュしてみたが、 その電話番号は現在使われていないという返事。そこで、二人は、初めて騙されたと知る こととなる。  その後、「涼一郎」は、「してやられた、という怒り」は残っていたものの、「それに も増して、京子への恋慕がつのった」のであった。そして、「美しい夢を見させてくれた 京子の鮮やかな手口は、天才的ではないか」と感服し、愛惜の念を抱いて、それを生きる 「夢」として温めてゆくのである。  人物のシチュエーションは、故意に類型化してある。それは、源氏物語絵巻を初めとす る中古の物語絵巻の表情と似ている。読者は好みの姿に加工してふくらませて、自分をダ ブらせて読むのである。ハワイという場所の設定、食うに困らない「高等遊民」風の主人 公、父親思いの娘、みなバランスがとれている。  魅力的なのは、「和佳子」である。父親思いで、それ以外の男性に興味がなかったのに、 ハワイで謎めいた素晴らしい男性に出逢い、心和むひとときを過ごしたのである。それは、 「恋」と言ってもよい。若いからこそ自然で純粋な「恋」が実現したのである。なにも知 らない少女の恋と中年同士の恋とは当然異質である。ところが、「涼一郎」の場合、これ ほど純粋にある女性を慕ったことがあっただろうか、と思われるくらいの恋慕の情を押さ えられないでいる。その気持ちは、日を追うごとに純粋になってゆく。  この作品の面白いところは、中年の恋と乙女の恋が重なり合うところにある。そこに作 品としての新しさがあったのではないのか。中年の男が、久しぶりに純粋に恋をしたので ある。・・・・・・私は、そう考えた。  また、翻訳家という設定が作者松本侑子氏自身とダブるところも、魅力の一つである。 私は、この作品の二家族の「性別」を、入れ替えて読み直してみた。すると、意外な世界 が現出することが分かった。それは、ある女性翻訳家の深層である。  「心に宿して美しいのは、憎しみより優しい愛」  挿入されているシェイクスピア作品のこの言葉に、そして、そこから膨らむ思いに、あ る女性翻訳家の素顔を見、あるメッセージを受け取ったような気がした。また、過去の人 生経験から得た深い真理も隠されているような気がした。そして、これは穿ちすぎだが、 異性の子どもに対する特別の思いも感じるのである。発展させればきりがない。いわゆる ジェンダーという問題も底に潜んでいるのではないのか。  一般的にいうと、こういう傾向の作品は、いわゆる「純文学」と比較して、軽視されが ちである。しかし、私はこういう作品にこそ、作者の技量・素顔が素直に現れ出るのでは いのか、と思っている。  先日、ある研究会で、関川夏央氏の講演を拝聴した。関川氏は、「坊っちゃん」をテキ ストにして、素顔の漱石像を分析した。「坊っちゃん」は理想的な人物像で、「赤シャツ」 こそ漱石そのものだというのである。英国で傷ついた漱石は、自己治療のためにこの作品 を書いたという。また、鑑賞に偏した文学教育は間違っていて、こういうこともあるとい う歴史観を示すのが本当である、と断定した。  私は、相当の衝撃を受けた。一つの痛快なユーモア小説として理解していた見方が、一 遍にひっくり返った。  この松本氏の作品も、単なる筆のすさびとして書かれたものではない。そのことを肝に 銘じて、また読み返してみたい。  「ハワイ編」の続きを読みたいものだ。


写真カット:村上 馨