第十一回すばる文学賞「受賞のことば」と「選評」



               
                                  瀬本 あきら

(松本侑子氏の「受賞のことば」)



 夢……、眠りのはかない幻、無意識の透き間からこぼれる思い。子供の頃私は、TVで

仕事をする夢、小説を書く夢を、眠りと覚醒の微妙な境目で繰り返し見ていた。今でも、

夢の光景が白昼ふいに再現され、慄然と立ちすくむことがある。何がそのような夢を脳裏

に映し出し、どんな力がうつつのものにするのか。その過程に私の意識的な働きかけは、

どの程度存在するのだろうか。

 小説は虚構である。ある狙いの元に意識的に創られたまやかしと、それによって烈しく

増幅される真実をはらんでいる。私はその両義性を愛する。自由大胆にまやかしの糸を紡

ぎ、厳密な虚構に織上げ、そこに真実を鮮やかに描き出していく静かな決意をしている。

 もし出来る事なら、私に正夢をもたらす不思議な力で、白い紙に思い思いに言葉を散ら

し空想の世界に遊んでいた十歳の私に、この受賞を知らせたいと、思う。そして受賞直後

の嵐も静まり、ようやく穏やかな息遣いに帰った私の心に、今、微温湯のように優しく甘

く湧き上がってくるこの喜びを、多くの方々に感謝とお礼を込めてお伝えしたい。

 ところで、ある意味では、正夢も、虚構の中から浮かび上がった真実なのである。



 『すばる』1987年12月特大号には、まことに見事な受賞の言葉が掲載されている。

受賞作は、もちろん、「巨食症の明けない夜明け」である。

 作家松本侑子氏誕生のういういしい喜びの肉声が響いてくる思いで、私は何度も繰り返

し読んだ。松本作品の原点はここにある。第十一回すばる文学賞の選考委員は、青野聰、

日野啓三、水上勉の各氏。井上ひさし委員は不参加だった。



(日野啓三委員の選評)



 ……「巨食症の明けない夜明け」は過食症の若い女性の話だが真の主題は母親との回路

切断である。……だが本当のところ、現実の母親ではなく、ひろく母性的なるものとの関

係の動揺が主題なのだ。母なる大地あるいは濃密な共同体的なもの、それとの連関が失わ

れつつある。その存在の不安は、もはやセックスなどで癒される次元のものではない。

 そのようなこの時代の主題を深く意識化して、文学的表現に高めた作品として、私は松

本侑子氏と桑原一世氏の二作品の受賞に賛成した。……

 文章は松本侑子氏の作品がよかった。書き言葉でこそ表現できる超日常的、超形式論理

的なリアリティを随所に感じた。とくにカイワレの場面が妖しく光っていた。「(カイワ

レがなくなった後の)部屋を切り取るようにポカリと空いた隙間」というような表現のこ

とである。……難を言えば、全体にエッセイ風になる危険があることで、それは人間同士

の関係より人間と世界との関係の方が主題になる型の新しい小説に共通の弱点なのだが、

そこをどうドラマチックないしスリリングに作っていくかが、松本氏の今後の課題であろ

う。……



 この日野啓三委員の評価と指摘は的確である。文章の良さを「書き言葉でこそ表現でき

る超日常的、超形式論理的なリアリティを随所に感じた。」と評価している。反面、「全

体にエッセイ風になる危険」もきちんと指摘している。評価された点は、上記の「受賞の

ことば」の内容と微妙に響きあっている。これは、小説の神髄にも関わる問題である。

 その後、松本氏は、作家、翻訳家、文学研究家等々として活動の幅を意欲的に広げてい

る。著書も年々数を増してきた。私の乏しい読書力ではとうてい追いつくことができない。

しかし、気になる作品は心がけて読むようにしている。そのとき、私は、この「受賞のこ

とば」と日野啓三氏の評価と指摘を思い出すのである。

 だから、私は、一読者として、改めて作家松本侑子氏の出発点をしかと書きとめておき

たくなったのである。                           (了)