「偽りのマリリン・モンロー」の感想

村上 馨


(集英社文庫版)



 その小説の中にはどんな風が吹いているのか。これは、ぼくが小説を読むとき、今もっ

とも気にかけ、そして考えていることです。

 時代にも自己にもそのときそのとき吹いている風というものがある。それは、なかなか

明確にはできないものであるかもしれないが、それをできるだけ見える形にしてみる作業

が、ぼくにとっては、本を読むことになると思っています。風景写真を趣味でよく写しま

すが、これも大げさに言えば、そしてなかなかできることでもないのですが、その見えて

いる風景の中に風を見ること、ひいては、自分の中の原風景と出会うこと・・・そんなふ

うにも思っています。

 さて、この小説、一読前にまずその題名の奇抜さに驚かされました。ひょんなことから、

モンローのそっくりさんを求めてアメリカに渡る写真家の主人公とそっくりさんとの一夏

の、それも僅か一週間という短い時間の中での出会いと別れが克明に描かれていますが、

それを『偽りの・・・』と題するところに、作者のモンローに対する深い思い入れと同時

に、逆にそこにもうひとつ、裏返された作者のしたたかな計算をも感じたからです。

 そしてこの作品、作者の懐に敢えて立ち入るなら、並々ならぬ意欲作、そして野心作と

言えるのではないでしょうか。全体を通じて硬質なダイヤモンドのような研ぎ澄まされた

文体、そして、そこに溢れる瑞々しさは、作者の目標とする何者かに伍さんとする強い意

志、そして力強さを感じさせます。おそらく創作発表当時、漲っていたと思われる若さ、

加えて高い志ある故の為せる技でしょうか。

 もうひとつ読む前に不思議に思えたのが、カバーデザインに使われているモンローの写

真です。モンローに関する予備知識のほとんどないぼくには、セクシー的なイメージの写

真しか念頭にありませんでしたが、この写真は多分に知性的であり、そして孤独な影のよ

うなものすら感じさせますが、さらに言えば、何よりそこに彼女にしかない風を感じさせ

るところがいいですね。横風が彼女の髪をかき上げ、左耳はアップされて露わとなり、そ

こから流された髪が逆に右の耳から頬を覆い尽くすように無造作に棚引き乱れている。こ

れぞ強烈な色気ですね。案外作者松本侑子氏の描こうとしたモンローの姿が表象的に現じ

ているのかもしれません。

 モンローの呪縛・・・これは男にも女にも、そのありようは異なるのでしょうが、人間

である限り、肉体の底に重くのしかかっている命題ではないでしょうか。モンローは女性

の最大の願望・・・つまり男を思いのままに統御できる力、性的魔力を最大限に体現する

ことのできた女性の代表である。一方でこの力は、女性最大の敵でもある。このような武

器は女性本来の母性とか知性とかの価値と対立する要素である。また、誰しもモンローの

ように恵まれた美貌、魅力を持って生まれられるものでもない。男が男として、女が女と

して性的に対峙するとき、男も女もこのモンローの呪縛から解き放たれることはない。こ

の作品の中で最も注目したい点もそこにありました。

 前置きはこれくらいにして、本題の感想ですが、ぼくなりの視点で読んだとき、いくつ

かの印象深い箇所がありました。少し長くなりますが、そのくだりを先に引用させてもら

い、そこから感想を述べてみたいと思います。



 父がどこへ行くのか、今夜どこで泊まるのか、私には分からなかった。帽子を脱いでも

いい?と聞く代わりに、なぜお母さんは一緒に来なかったのとたずねた。

(途中略)

 ・・・辺りは、とてつもなく大きなフラッシュを焚いたような明るさだった。波音が騒

がしかった筈なのに、しんと静かな浜辺だった。真っ黒に日焼けした男の子たちの痩せた

背中が、海水に濡れて光っていた。

 喉が乾いたと言うと、父はバス停前の店で、舌をオレンジ色に染める炭酸水を買ってく

れた。冷えて水滴のつく瓶は、私には大きすぎた。両手で瓶をかかえて半分も飲むと、腹

は冷たく膨れ、私は音を立てて、炭酸のげっぷを吐いた。再び車に乗り込む頃には、父と

口数少ない二人旅が、前夜の両親の口論から始まっているとの思いを確かにしていた。

(本文11〜12頁)



 この小説で、ぼくがもっとも注目し、かつ感動を覚えた箇所です。そこには、少女の中

の原風景、少女の中に吹いている風がものの見事に描かれているからです。アメリカに渡

った主人公麻子が、友人エリックの運転する車で、そっくりさんのジェーンに会いに行く

冒頭のシーンで、通り過ぎていく周りの風景や夏の目映い陽射しの感覚が、主人公麻子に、

遠い少女の日の似たような風景・・・つまり彼女の心象風景を喚起する・・・舌をオレン

ジ色に染める炭酸水、そしてげっぷ・・・こういう当事者しか知る得ることのできないデ

ィテールの克明な記憶、そして繊細な描写は、その背景にある出来事が、いかに少女の心

に重く影を落としたかを証す場面で、まさにこの小説の主人公の原風景を垣間見るようで

感動的シーンです。小説を書こうとしたとき、一番書かなければならないにもかかわらず、

一番書けない核心的ディテールが、いかにも少女らしい思い、何気ないディテールとして

描かれています。唸りますね、これには。特に物書きの端くれとしては、羨ましいほど感

性溢れる描写であり、しかも背景にある風景描写には叙情的な雰囲気が漂っています。



 もちろん私は、彼女の愛嬌のある美しさや、性的魅力を認めるにやぶさかではない。だ

が、不自然に勿体をつけた彼女の仕草や、子供じみていて甘ったるい声は、変に私を落ち

着かなくさせる。男の気を引くために乳房や腰を強調し、その一方で、男を安心させるた

めに、幼さと愚かさを装う彼女に、私は苛々する。

 それはモンローに対してのみならず、本質的には彼女とそうちがわない仕草の女たちへ

の反発であり、屈辱感だった。それは取りも直さず、自己嫌悪の裏返しだった。私自身も、

時として、取り敢えず可愛らしい女らしさを演出して穏便に事を運び、その実、私も相手

も、お互いを適当にあしらっていることを思い出させた。

 そして私は恐れていた。モンローと同じように私も、性的な関心を持って身体を眺めら

れ、勉学の意欲や向上心は真面目に受け取られず、物笑いの種にされているのではないか。

あるいは、自分よりも年や体型や学歴など、あらゆる面で劣った女の前でしかくつろげな

いにも拘わらず、女は劣った生き物だと結論づけたがる男たちの願望に、無意識にしろ、

意識的にしろ、言動が規制されているのではないか・・・。そうモンローのように。

(本文22〜23頁)



 導入部のこのあたりは、主人公麻子の強い自意識、自尊心が、同性の女性としてモンロ

ーに抱く複雑な心情・・・共感と反発が極めて真正面から捉えられていて、麻子のこの意

識がジェーンというモンローのそっくりさんとの出会い、触れ合い、そして別れによって

その意識がどう変貌していくのかを考えるときに興味深い箇所と言えると思います。



「でも君と僕が、こうしてジェーンの家へとドライブしているのは、偶然の積み重ねだ。

だって、四ヵ月前の春、東京で久しぶりに会ったのは本当に偶然だったし、その時、君が

モンローの写真集を持っていたのも偶然だった。でなければ、僕はジェーンの写真を見せ

なかったし、君もジェーンを撮影しに、わざわざアメリカへ来ることもなかった」

「そうね」

「まったく、人の運命やら世間なんてものは、ほんの些細な偶然が積み重なってできてい

るんだなあ」

(本文31〜32頁)



 これは、ドライブ途中の何気ない会話の一端ですが、対象となるものへ強い意識と関心

を抱いていると、どんな些細な事柄でも見逃そうとしない眼力が働き、もはや偶然が偶然

でなくなって必然と化していく・・・何気なく派生していくささやかな事実がどんどん折

り重なり、やがて人生の大きなうねりとなっていく・・・そういう誰にでも、どこにでも

あるはずの人生の選択行為が、さりげない会話の中に織り込まれていて感心させられます。

こういう捉え方は普遍的ですし、何よりも、主人公麻子のモンローへの思い、動機の強さ

を納得させられることになります。そんなこの物語の大きな流れを自然な成り行きとして

納得させられる箇所です。



 そんな空しい美に飽き飽きしていた私は、化粧も仕草も、自然な女を撮った。少なから

ずヌードもあったが、男の目を喜ばすポルノ的なポーズを意識的に排除した。性的に搾取

されてきた全裸の彼女たちに対峙する時、私は慈しみといたわりに満ちた眼差しでファイ

ンダーを見つめた。言葉や眼差しで、私は彼女らに賞賛を浴びせ、普通の肉体の女たちに

も自信とナルシスティックな恍惚を与えようと試みた。

 だが、私が同性に抱いているのは、必ずしも共感とか同志愛だけでなく、モンローに対

するのと同じ、嫌悪も含んだ複雑な感情もあった。しかし後者の感情を、どう表現すれば

いいのか私は分からず、試行錯誤にも疲れ、途方に暮れていた。

(本文54〜55頁)



 ここにも一徹な写真家のそして女の眼があります。嫌悪も含んだ複雑な感情・・・この

難題と向き合う主人公の心の裡が忌憚無く吐露されていますが、この複雑な感情が何であ

り、いったいどこからくるものなのか、わかっているようで実はわからないこの命題に読

者も悩まされますが、やがて次のような一節と出会います。



 以来、この後味の悪い出来事は忘れようと努めてきた。

 だが、もう目を逸らすことはできない。他者を犠牲にして何かを作り出すことについて、

答えを出すべき時なのかもしれない。

 私は、平泳ぎするジェーンの規則正しい手足の動きを見つめ、彼女が置いていった煙草

を一本吸い、吸い終わると深々と息をついて、それから考えてみた。ほんの少しだけ考え

てみると、それは簡単なことだった。とにかく、被写体に合わせる顔がなくなるような写

真なら撮りたくない、それだけだ。かりに相手が異議を唱えなくても、私自身が少しでも

後ろめたさに苛まれるようなら、そんな仕事はしたくないと思った。(途中略)

 でも今の私は、弱った小鳥のようなジェーンの写真を、仕事に利用したくないと思った。

彼女の写真はどこにも発表しない。私はそう決めた。

 すると胸のつかえが跡形もなく消え失せ、宿題のない夏休みを迎えたような解放感が、

ひたひたと私に押し寄せてきた。ゆっくりと背泳ぎするジェーンを眺め、踵についた乾い

た砂を払い落とし、麦わら帽子を目深にかぶり、濃いピンクの花が咲き乱れるゼラニウム

の鉢植えを見たり、そこから飛んでくる蜜蜂ののどかな羽音を聞いた。

(本文134〜135頁)



 このくだりは、主人公の意識と心の変遷を辿るとき、極めて重要な箇所のように思えま

す。後味の悪い出来事とは、かつてスペインの田舎町でジプシー楽団の一座と出会い、そ

の中にいた眼球のない異様な老婆にレンズを向け、向こうが拒むのも構わずシャッターを

押す。そしてその衝撃的写真はたいそうな評判を呼ぶが、同時に魂を揺さぶるようなあの

音色に足を止めて、心おきなく耳を傾けることは、もうできないだろういう確実な予感を

噛みしめることになる。対象そのものの尊厳より、今しかないその対象を写し止める記録

性の方が意味が重いという、カメラマンのこのジレンマに爾後悩まされ続けることになる。

これは、事故の瞬間、その千載一遇のチャンスを前に、救命を優先するか撮影を優先する

かの心のありようを問いかけるのにも似ている。チェーホフだったかどうかは定かではな

いが、重病の床にある肉親を見舞い、心痛めながらも、心はすでにこのことを小説に利用

しようと細かい観察をしている自分がいることを述懐する記述があったことを思い出しま

すが、これも芸術家の良心を問いかける命題として同様だと思います。

 この心の奥に長年引きずってきた主人公のジレンマは、ジェーンの撮影において再び重

く立ちはだかることになります。そして、ここで初めて『偽りのマリリン・モンロー』と

真正面から向き合うことになります。彼女の写真はどこにも発表しない。私はそう決めた。

 すると胸のつかえが跡形もなく消え失せ、宿題のない夏休みを迎えたような解放感が、

ひたひたと私に押し寄せてきた。そして、心はまったく新しい平静感を生み出します。そ

のことが、こんなごくありふれた世界として目に映し出されています。ゆっくりと背泳ぎ

するジェーンを眺め、踵についた乾いた砂を払い落とし、麦わら帽子を目深にかぶり、濃

いピンクの花が咲き乱れるゼラニウムの鉢植えを見たり、そこから飛んでくる蜜蜂ののど

かな羽音を聞いた。リアリティーがありますね。心の昇華は、連続する変化の中で徐々に

醸し出されつつも、ある瞬間、生まれ変わったように高く飛躍します。蜜蜂ののどかな羽

音を聴く心、水底まで透き通った湖を望むような静けさがありますね。感動的なシーンで

す。



 しかしジェーンに限らず、モンローにしろ、美しい女は、みなそうだ。男心をくすぐる

媚びや、ことさらに作った甘い笑顔の使い方を知っている。美しい女は、少し微笑んでそ

の気を見せれば、何が可能になるか承知しているものだ(何が不可能かも知らなければな

らないが)。(途中略)

 とろけるようなモンローの甘さは、巧みな演技力と努力の賜で、モンロー自身は決して

「白痴美」というほど馬鹿じゃない。人の気を逸らさない彼女の演技は、周到な計算によ

るものというより、勘のよさやひらめきに負う部分が大きく、自分の美しさを知る女の、

ナルシシズムと、それに基づく露出癖から来るものだ。チャーミングに露出する術を知っ

ているから猥雑さは感じられないが、幾分、はすっぱな気分があることもまた確かだ。し

かし、すれっからし気分は楽しむ程度に留まり、モンローの露出に、退廃はない。ヤンキ

ー娘の明るく善良な素直さが根本にあるからだ。

 ところがジェーンときたらどうだ。さかりのついた雌猫のようではないか。女には大な

り小なり露出癖らしきものがあるにはちがいないが、誰彼構わず見せたりしない。心を許

した相手の気を、さらに引きつけたい時だけだ。身体の柔らかな膨らみを際立たせるのは、

愛しい人の眼差しが自分に釘づけになり、その目が歓喜と欲情に次第に潤むのを幸福に感

じるためなのだから。

(本文164〜165頁)



 ここでは、あくまで偽物でしかないジェーンに対する苛立ちが、主人公に本物モンロー

と偽物ジェーンとの対比となって本音を吐露させていて興味深いところです。このあたり

の、女性が外見に醸し出す魅力の微妙なニュアンスの捉え方は、絶妙というほかありませ

んね。女には大なり小なり露出癖らしきものがあるにはちがいないが、誰彼構わず見せた

りしない。心を許した相手の気を、さらに引きつけたい時だけだ。身体の柔らかな膨らみ

を際立たせるのは、愛しい人の眼差しが自分に釘づけになり、その目が歓喜と欲情に次第

に潤むのを幸福に感じるためなのだから。主人公のこの勇気ある告白は、女性がその最大

の武器をいかに使うべきか、示唆にも富みますね。また、我々男性からすれば、そう願わ

ずにはいられないことでもありますね。



「そうね、私はモンローに会いたくて、せめてその面影を偲びたいと思って、ジェーンに

会いに来たけど、でも、そもそも、マリリン・モンローという女の人は、この世のどこに

も存在しなかったんだわ。アメリカが輝いていた頃のハリウッドに、モンローという女優

はいたけど、その女優は、ノーマ・ジーンという一人の女性と、モンローを愛した当時の

アメリカが作り上げた美しい幻想に過ぎなかったのよ。それなのに、その幻想が一人歩き

して、ノーマ・ジーンがモンローそのものだと、誰も彼もが思いこんで仕舞ったのよ。そ

してその期待に応えようと、ノーマは、精一杯モンローを演じた。でも、ふと気づくと、

ノーマが、彼女自身に帰り、心からくつろげる場所はなくなってしまったのよ。あのお墓

の中には、モンローはいないの。ノーマ・ジーンという、内気で臆病で、人に嫌われない

かといつもびくびくし、愛されるためには、自分を偽ったり、類い希な肉体と精神を、人

々の好みに合わせることしか思いつかなかった可哀そうな一人の女が眠っているだけ。結

局、ノーマ・ジーンには、死しか、安らげる場所がなかったのね。でも、今だって、世界

中の女たちの中にノーマ・ジーンはいるわ。ジェーンもそうだけど、私の中にもいる。女

たちの中で、まだ迷いながら生きているノーマ・ジーンは葬られてはいけないのよ。彼女

らのために、私は撮らなければならない写真がある。でもね、ジェーンが本当の彼女に戻

っ時は、三人でお墓に行きましょう。この世では、決して本当の自分に帰ることができな

かったノーマ・ジーンを弔うためにも・・・」

(本文191〜192頁)



 モンローはアメリカが作り上げた美しい幻想・・・この視点は、佳境にきてこの小説の

結論とも言えるところだと思います。モンローの呪縛・・・それは、我々男性の隠された

願望が、それを実現するのに最も相応しく最も近い距離にいるものに着せる夢の衣装に他

ならず、その対象がその期待に見事に応え始めるとき、男性にも女性にも呪縛のドラマは

始まると言えます。モンローのスカートが風に捲りあげられる有名な地下鉄の通風口での

撮影に夫のジョー・ディマジオ氏も居合わせ、大衆男性の好色な眼差しに晒されながらも

そこに歓びを見いだすモンローに怒り狂う。我々男性からすれば、ディマジオ氏に大いに

同情する。自分だけのものという意識が強くなればなるほど、性的に呪縛される。もはや

美しい幻想は自分だけのためのものでしかならず、他者と共有できる大衆の目線に立つこ

とはできない。一方、世の男性の幻想によって美しく祭り上げられた女性は、多くの観客

の視線を身体いっぱいに浴びる歓びに呪縛される。男と女の相容れない対峙は、こういう

ところにも起因するのかもしれない、そんなふうにも思います。

 今だって、世界中の女たちの中にノーマ・ジーンはいるわ。ジェーンもそうだけど、私

の中にもいる。女たちの中で、まだ迷いながら生きているノーマ・ジーンは葬られてはい

けないのよ。いみじくも主人公がこう語るところに、モンローの象徴性、根源性があり、

いつまでも語り継がれる普遍性があるのかもしれません。



 機内では隣の席に、不思議な存在感のある五十がらみの男が座った。彼は上質の革鞄か

ら取り出した一日遅れの「ル・モンド」を読んでいたが、スチュワーデスに話す英語に、

フランス語の訛はなかった。しかし茶色の髪や黒い瞳、鼻の形などは、紛れもなくラテン

系だ。くすんだモスグリーンの麻のスーツに、淡いモスグリーンのシャツを合わせ、粋に

着こなしている。年相応に老けていて、顎の肉が弛んでいたり、頭に白いものが混じって

いるが、瞳には若々しい光があって、無駄に年を重ねていない男が持つ人間的な豊かさが

あった。そして渋い風貌の中に、ややもすると好色とも受け取れる甘さと艶っぽさが見え

隠れしていた。若い頃は、さぞかし女にもてただろうな、と思わせる中年男はいるものだ。

(本文206〜207頁)



 これは、旅を終えた主人公が帰路の機内で見た男の印象がエピソード的に描かれた部分

ですが、なぜかほっとする場面です。激しい闘争を終えて、呪縛から解放された男の、ひ

とつのあるべき姿が極めて具象的に描かれているように思えますし、何よりも、主人公の

この旅の変遷を経ずしては捉えることはできない新鮮な眼差しを感じさせます。

 引用した箇所は、主人公麻子の中に吹いた風、その意識の変遷を辿ろうとしたときに、

印象深かった箇所です。そこには、我々男性が認識を新たにすべき真摯な女性像がありま

す。読み終えたぼくはここに描かれたモンローとそのそっくりさんであるジェーンという

象徴的な女性像を通して、実は、麻子という、今ぼくの目の前にも、そして過去周りにも

いたはずの女性像を新たな輪郭で捉えようとしていることに気づきます。

 もしかするとこの作品、ジェーンというモンローのそっくりさんをまったく新たに作り

上げることによって、我々が心の底に執拗に抱き続けているモンローへの幻想とそれによ

って囚われることになってしまったモンローの呪縛から解き放とうと試みた作者松本侑子

氏の大胆な仕業であったのかもしれません。



(文中、本文からの引用箇所はすべて青文字で表示してあります)