『恋の螢 山崎富栄と太宰治」−−連載第1回「父の愛娘』


 ―松本侑子作・『小説宝石』(光文社刊)2009年3月号掲載――

                                    瀬本あきら

 国語担当の私は、教科書でいろんな作家の作品を取り上げたが、その中でも、太宰治の

「新樹の言葉」、「富嶽百景」、「津軽」などは特に印象に残っている。いずれも比較的

生活が落ち着いていたころの作品である。平明でリズムのある独特の文体は朗読に適して

いた。私は「津軽」については、いつも読んで聞かせていた。そして、運動会での「越野

たけ」との再会の場面に来ると、いつも声を詰まらせていた。「たけ」が「あらぁ」と言

って、暫く二人は何も言えなかった。生母に育てられなかった太宰の母性を求めようとす

る心理が読むものに響いてきて、深層からじわっと熱いものがこみ上げてくるのである。

しかし、この偉大な作家の暗い生涯を説明するときは、あまり深刻にならないように心が

けていた。

 ところが、1979年10月19日から1980年1月11日まで13回放映されたT

BSのドラマ「冬の花火−私の太宰治」を観て、私は衝撃を受けた。たしか太宰治を石坂

浩二が、山崎富栄を加賀まりこが、太田静子を壇ふみが演じていたと思う。中でも最期を

とげる玉川上水での入水事件の場面は今でも背筋がぞくっとする。川から這い上がろうと

する太宰を山崎富栄が川に引きずり込むのである。この場面には女の業の恐ろしさを感じ

た。1948年(昭和23年)6月13日のことである。単なる心中事件と理解していた

私の知識は根底から覆されたのである。



 ○39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)に玉川上水(

東京都北多摩郡三鷹町)における愛人・山崎富栄(1917−1948)との入水心中に

より生命を絶つ(同6月13日)。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人によ

る無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。二人の遺体が発見されたのは、奇し

くも太宰の誕生日である6月19日の事であった。この日は桜桃忌(おうとうき)として

知られ、太宰の墓のある三鷹の禅林寺には多くの愛好家が訪れる。太宰治記念館「斜陽館

」太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生

誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年

(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。(『Wikipedia』より)



 「冬の花火」の放映以後は、上記引用の「愛人による無理心中説」を私は信じて疑わな

かった。そして、愛娘「富栄」の入水自殺を知った父親の山崎晴弘がこうもり傘をさして

玉川上水の橋の上で悄然と佇んでいる何かの写真集で見たさびしい姿を思い浮かべた。

 ところが、『小説宝石』(光文社)3月号を読んで、再び衝撃を受けたのである。太宰治

生誕百周年記念作品「恋の螢 山崎富栄と太宰治」(松本侑子作)。恋に生きた二人の生

涯に新たなる光を当てた作品である。

 山崎富栄は、東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)で生まれ、父山崎晴弘は日

本最初の美容学校「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立者であり、富栄

はその次女と説明されていた。

 その父の下で美容技術の英才教育を受けて育ち、「外国語が堪能で、日本髪や洋髪のみ

ならず、宮内省や学習院で、十二単の着付け、おすべらかしの髪結いをしていた」という。

写真は初めて見たが、ほっそりした体躯で、顔立ちが知性的で美しい。

 私のイメージは一新された。

 太宰と深く関わったほかの三人はどうであろうか。



 ○田部 シメ子(たなべ しめこ 1912年12月2日−1930年11月29日)は

作家太宰治の恋人の一人である。別名田部あつみ、また田辺あつみとも言う。太宰の短篇

「道化の華」(1935年)に登場する心中事件の相手「園」のモデルである。彼女は学

業優秀だったが、広島市立第一高等女学校(広島市立舟入高等学校)3年中退後、広島の

繁華街新天地の大型喫茶店「平和ホーム」の女給となる。このとき客のひとり高面順三(

こうめん・じゅんぞう。喫茶店経営者)と知り合い、同棲に至る。当時、田辺あつみと名

乗っていた。1930年夏、新劇の舞台俳優を志す高面と共に上京。しかし高面の就職口

が見つからなかったため、家計の一助に銀座のカフェ「ホリウッド」に田辺あつみ名で働

きに出た。このとき、客のひとり津島修治(太宰治)と知り合う。1930年11月28

日、それまで三度しか会ったことがなかった太宰と共にカルモチンを購入して鎌倉に向か

う。同日夜半から払暁にかけて、七里ガ浜海岸の小動神社裏海岸にて、太宰と共に大量の

カルモチンを嚥下し、心中を図る。その結果、田部のみ死亡し、太宰が生き残った。(出

典同上)



 ○小山初代は1925年3月、南津軽郡大鰐町の大鰐尋常小学校を卒業し、母の勧めで

料亭「玉屋」(野沢屋の後身)に仕込妓(しこみこ。芸妓の使い走り)として住み込むよ

うになる。1927年9月、客のひとりで当時旧制弘前高等学校の一年生だった津島修治

(太宰治)と馴染みになる。1930年9月30日、太宰の教唆により玉屋から出奔して

上京。東京市本所区(東京都墨田区)東駒形で太宰と同棲する。1930年11月9日、

太宰が初代の件と非合法左翼活動の件を理由に実家から分家除籍されたことに伴い、太宰

の長兄津島文治により青森へ連れ帰られ落籍される。1930年11月28日−11月2

9日、太宰がカフェの女給田部シメ子と心中未遂事件を起こす。これに対して初代は激怒

した。(出典同上)



 ○太田静子は滋賀県愛知郡愛知川町(現:愛荘町)にて開業医太田守・きさの四女とし

て誕生。愛知川高等女学校卒業後、上京して実践女学校家政科に進む。上京直後から口語

短歌を作り、1934年、口語歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行。文学青年だった

実弟太田通の勧めで内密に国文科への転科手続を進めていたが、郷里の父母に露見して叱

責を受け、一年の中途で実践女学校を中退。父母による帰郷要請を拒んで東京に残り、弟

と同居しつつ前衛的な詩歌や小品文を創作。傍ら、画塾や琴の稽古にも通った。このころ、

フランス帰りで38歳になる独身の画家と恋をしていた。1938年1月、父が死去。19

38年11月、実弟太田武の友人計良長雄と結婚。1939年11月、長女満里子を産む

も、一ヶ月足らずで早世。1940年2月、協議離婚。実家に帰ったとき、太宰の愛読者

である弟通の勧めで太宰の『虚構の彷徨』を読む。この後、長女の死にまつわる日記風告

白文を太宰に送ったところ、思いがけず「お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下

さい」という返事を貰い、二人の女子大生と共に東京三鷹の太宰宅を訪問。既婚者の太宰

と恋に落ちる。太宰との関係が深まるにつれて太宰夫人美知子から疑惑の目を向けられる

ようになったため、太宰の窮余の一策として、太宰の門人堤重久との逢引を世話されたこ

ともあるが、静子は「結婚を考えない男の方とおつきあいしたくない」と拒絶した。19

43年秋、神奈川県足柄下郡下曾我村の山荘「大雄山荘」に疎開。1944年1月、大雄

山荘で太宰と再会。1947年1月6日、三年ぶりに太宰と再会。小説の題材として日記

の提供を依頼され、「下曾我までおいでになったら見せます」と返答。1947年2月2

1日から2月24日まで太宰を下曾我に迎える。約束通り日記を提供、この日記が『斜陽

』の材料となった。このとき太宰の子を受胎する。1947年5月24日、生まれてくる

子の相談で通と共に三鷹の太宰宅を訪問。太宰からの冷たい態度に傷つき、自分に接近し

てきたのは小説の材料だけが目当てだったのではないかとの疑念を抱く。このとき、山崎

富栄と鉢合わせする。(出典同上)



 この三人と「山崎富栄」を比較すると、「富栄」の場合、家庭的・個人的な暗さが微塵

もないように思える。文字通り「父の愛娘」として家庭的な愛情を一身に受けて育ってい

る。これは私の贔屓目からではないと思っている。この後、「富栄」の身辺は夫の戦死と

いう悲しい運命が待っているが、独身時代は溌剌とした性格で暗い影はさしこんでいない。

 では、そういう教養ある明るい女性がなぜそういう事件で生涯を閉じることになったか?

 また、太宰の死後、上記のドラマのような「無理心中説」などが出てきて、いつの間に

か「山崎富栄」が悪女のように思われるようになってしまったのではないのか。

 私は、いろいろな資料を読むにつれてそういう気持ちを持つようになった。出版社も深

く関わっているという説もあった。

 そういう中で、松本侑子氏は豊富な資料(史料)を駆使して真実の「山崎富栄」像を創造

しようと立ち上がったのである。その作家魂に私は敬服した。私が衝撃を受けたのは、文

章の行間に鬼気迫るもの、と言っては失礼かもしれないが、この作品に作家としての運命

を賭しているというような強烈な気魄を感じたことである。松本氏の執筆意図は「山崎富

栄」の人間性の回復ではないのか。私は連載初回を読んでそう一人合点している。

 氏の今後の連載に大いに期待している。