「葉桜」と「ツバメ」……『引き潮』の二編を読んで

瀬本あきら


  
(幻冬舎版)



 私は松本侑子さんの短編小説に関心があり、今までいろいろ読んできた。 『引き潮』 (幻冬舎刊)は短編集なので、発行されるやすぐに買い求めた。表題の「引き潮」にも惹 かれたが、ここでは敢えてもっと短いものだけを二編とりあげたいと思う。        「葉桜」                              「葉桜」は男女の噛み合わない愛情のすれ違いを情感を込めて描いている。 主人公の 「ぼく」という学生は「香里奈」という年上の女性と交際を始める。しかし、女性と付き 合った経験のない「ぼく」はほのかな愛情を感じているが、相手の心の奥深くまで入って いくことができないでいる。その女性を初めて送っていった夕方、彼女が家に入っていっ た後、しばらくむかいに佇んでじっと家を眺める。そのときの描写に先ず私は注目した。 「木造の日本家屋で、大きな桜の木があった。ちょうど満開で、淡い色の花がふわふわし ていた。この木と一緒に彼女は育ったんだなと思った」。また、「やがて二階の窓が開い たと思ったら、香里奈がぱっと顔をのぞかせた。白い歯を見せて笑いながら手をふってく れる。ぼくもふり返した。/桜の枝がかかるところが部屋らしい。白い花影のむこうから 冗談めかして投げキッスまでしてくれた」とも表現してある。こういう描写から、「香里 奈」は初めの段階では「ぼく」の憧れの女性の頂点にいたということが自然と分かる。し かも、その弾んだ心を桜の花の美しさが象徴しているのである。             「ぼく」のそういう状態を見かねていた友人の「山岡」は裕福な家の息子で、「ぼく」 にいろいろと手ほどきしてくれた。「ドライブでも誘ったらどう?」と言って、自分の車 を貸してくれた。その車は「ぴかぴかのフォルクスワーゲンのゴルフ」だった。「山岡」 が教えてくれたとおりに「ぼく」は彼女をドライブに誘う。そして、その日二人はベッド をともにする。そして、付き合いは続いていく。だが、依然として彼女は距離を置こうと する。そしてとうとう「桜の葉が赤と黄色に染まるころ」二人に別れが訪れる。      そして、その「山岡」は、その後会社の接待で酒を過ごして食べていたものを吐いた。 不幸にしてその吐いたものが喉に詰まり、窒息死してしまう。「ぼく」は彼の葬儀に参列 した帰りに「山岡」と会った思い出の喫茶店で回想に耽る。自分に恋の手ほどきをしてく れ、車まで貸してくれた人のいい彼の姿を思い浮かべ、「無念で悔しくて、頭をかきむし って、わあっと叫んで地面を叩きた」くなるほど落ち込んでしまう。それから「ぼく」は あちこちやみくもに歩き回り、とうとう「香里奈」の家まで辿り着く。家の桜の木はまだ あった。見上げると、「窓辺の桜は今、花は散り、青々とした新緑」に変わっていた。そ して、「ぼく」は「葉桜のこずえに墨色の夕闇がおりて」くるのを見上げ、肩をすぼめて 歩いていく。その時には、もうすでに彼女は結婚してその家にはいなかった。そのことを 「ぼく」はまだ知らないでいた……。                         この作品は青春時代の淡い恋物語である。しかし、私には普通の恋の話には思われなか った。それは、いままで書いたあらすじのまとめ方でも表現しているように、「桜」とい う樹木の四季に応じた移り変わりと二人の恋を重ね合わせている点ある。 特に「この木 (桜)と一緒に彼女は育ったんだなと思った」という表現は、桜という樹木の生命と彼女 の生命を無理なくからめていることを物語っている。誤解を顧みず極論を述べると、作者 松本さんは、桜の樹霊に包まれている不思議な女性として「香里奈」という人物を登場さ せているとも言えるのではないのか。だから、いや、だからこそ「ぼく」の恋は成就しな かったのではないのか。「淡い色の花がふわふわしていた」という表現は、「ぼく」にと って掴みがたい妖しげな女心そのものである。だから、「ぼく」の失恋と友の死という二 重の悲しみが一層やるせなく思えてくるのである。それから、私は庭木としての桜のこと についてもある種の特異なものを感じた。もともと「造園的に見ると、『桜』という木は 非常に腐朽菌に弱く、腐りやすい木で、亦毛虫等が沢山付く厄介な木であり、個人の庭木 としてはあまり適当でないと云えます。亦、植えると多くの養分を吸収する為、庭の土が 痩せるとも云われている」(樹木の研究家梅本浩史氏の文による)。また、民俗学的にも 様々な考察がなされている。例えば、桜は墓地に植えた花であるという説もある。そうい う樹木を敢えて恋人の家の庭木として設定した作者の意図の奥には、女主人公「香里奈」 の人物像に特殊な性格を持たせる意図があったと思えるのである。こういう勝手な幻想を 思い描いたので、私は、この短編が心に焼き付いて離れないのである。          「ツバメ」                             離婚して間もない女性の主人公「私」がある年の梅雨の終わりのころ、大阪環状線の電 車に乗っている。雨あがりの外の景色を眺めていると、小さなツバメが濡れた電線にとま ってさえずっている。空には虹がかかっている。「私」はその景色を「何か夢のように美 しく思いながら」見ていた。                             次の駅で「若い娘」が二人乗ってくる。二人は「私」の背後に立ち、銀色のポールにも たれながら話し始める。「お見合い、どないやったん」。すると、もう一人の女性がひと 呼吸おいて、「あかんかったわ」と言う。 そして、少し間を置いて、聞いた方の女性が 「そうかァ」と静かに答えた。                            気がつくと、「私」はうっすら涙を浮かべていた。そして、「そうかァ」とその娘が言 った言葉を口の中でつぶやく。やがて二人は寄り添いながら大阪駅で降りていく。その後 に水玉模様の雨傘が忘れてあった。                          ……これは、ほんの三ページばかりの掌編小説「ツバメ」のあらすじである。      私は発売直後購入し、通読していたが、ときどきこの場面を思い出した。思い出すとき は、何かにつまずいているときとか、体の調子が悪いときである。私はこの三日間体調を 崩して寝てばかりいた。そんなとき、あの温かい「そうかァ」という言葉が耳もとに届い てきた。破談になった友に慰める言葉を返すかわりに、素直にすべてを受け容れようとす る。そのとき自然に出た言葉がその女性の人間のすべてを物語っている。私は主人公が涙 したように二人の間に通う「温かい光」を自分にも受け容れたかったのである。      小説の影響力の深浅はその長短にはあまり関係がないことを見事に証明している作品で ある。この作品を読んでから、毎年私の家に巣づくりに来るツバメをもっと温かく迎えよ うと思った。                                   (「ツバメ」は2006年4月、『島根日日新聞』のコラム「こもれび」に掲載された文 章を訂正・加筆したものである)