『性遍歴』の感想

村上 馨


 「幻冬舎」発行単行本(2001年5月10日第1刷発行)

(註)本書の感想及び本文の引用は、「幻冬舎」発行の単行本によりました。また、本文

から引用した箇所はすべて青文字色で表記してあります。



 本書には五編の短編小説が収められていますが、初出の時と場所もそれぞれ異なってい

て、最初から意図的に『性遍歴』という括りで束ねられた短編集ではないように思われま

すが、この表題実に主旨にフィットしていますね。主旨にフィットというのは適切でない

のかもしれません。むしろ狙いにフィットしていると言い替えた方が妥当なのかもしれま

せんね。つまり、ここに書き集められた短編はすべて上質の恋愛心理小説ばかりなのです

が、異質と言えるのは、恋愛の深刻さ、またその闘争性からくる軋轢などが微塵も感じら

れないところでしょう。恋愛を一方が一方を征服し、屈服させるという古典的従属観から

捉えればそうならざるを得ませんが、どの作品にもそれがない。恋愛の前提基盤として予

め性愛が享受すべき歓びとして無条件に存していて、誰もそれに異議を唱えないどころか、

むしろごく当たり前の先入観念として自然に受け入れられている、そんな感じすら受けま

す。

 この出発点の意義の違いは、それが恋愛という形となった時、非常に大きな心理的差と

なって顕れますね。なぜなら、世のおおかたの恋愛の出発点というか、前提はこれとまっ

たく逆行するものだからです。つまり、性を単なる抑えがたい動物的欲望とする古典的先

入観の中で捉えてしまうと、上質の恋愛とは、これを排除しようとする方向に力が働くか

らです。性の解放が叫ばれてから久しいにも拘わらず、世のおおかたの人間は、依然とし

てこの呪縛から逃れられないまま、ありきたりの生活を送っていると見るのが妥当でしょ

う。無論、読者たる私も、例外ではなく、むしろそういう意味からすれば、生粋の性疎外

者と言えるかもしれません。読みながら、いったいどこが、何が心地いいのだろうと訝し

みながら、妙なカタルシスを覚えるのは、一人私だけではないと思います。その感覚は、

子どもの頃、理屈抜きとにもかくにも夢中で読んでいた劇画、漫画の単純無比な痛快さに

近い感覚と言えなくもないでしょう。とにかく面白い。とは言え、興味を惹くのは、恋愛

心理に及ぼす性的欲求の影響力の甚大さです。男と女の視点、あるいは男めいた女、女め

いた男と実に多種多様で多岐に渉る組み合わせ、そして視点から抉られていて、その単刀

直入な明快さが登場人物の波動とともに伝わってきます。面白く読める、その上、痛快無

比とくればもうそれだけで読書の醍醐味満点と言えるでしょう。

 人の心の奥の計り知れなさ。その裡なる動機から外に顕される行動に至るまでの複雑怪

奇なメカニズム。一言で片づけるとすれば、魔が差すということなのかもしれませんが、

そんなことを最近特に思っていましたが、本書を読んでその解決の糸口が見つかったよう

な、またそれは実に意外なところにあっものだなあ、と驚かされもし、つくづく感心もさ

せられました。

 もうひとつ、この作品を読み耽っていると、知らずその官能的かつ心理的世界に引き込

まれてしまい、いつしか現実と非現実の区別が自分の中でも薄れていってしまうという怪

しさがあります。こういうところにもこのオムニバス風に編まれた作品集の持つ小説とし

ての魅力そして不思議さがあると言えるでしょうか。



 本書に収められている作品の表題は、掲載順に以下の通りです。

 『性遍歴』

 『女装夢変化』

 『初恋』

 『ナツメの実』

 『新しい扉』



 この感想では、『性遍歴』、『女装夢変化』、『新しい扉』の三編を冒頭述べたような

見地から取り上げてみたいと思います。 まず、表題作ともなっている『性遍歴』。

 これは、一人の女の中学時代から結婚生活に入るまでの間の性遍歴が四話、私の口から

語られます。中学時代の同僚の女の子とのはじめてキスにはじまる第一話。高校時代、性

への好奇心がいや増し、そう好きでもない先輩の男と性交体験をのぞみ未遂に終わる第二

話。大学に入り、やっと性関係を持つ男友だちができ、性愛の極致を求めて繰り広げられ

る技巧的関係。そして、生まれた恋心。そして破局を迎える第三話。最終第四話では、そ

の叶わなかった恋への反動から見合い結婚で結ばれた今の夫との子作りをめぐる性交の顛

末が微細に語られる。

 と、まあ、こんな筋立てなのですが、興味深いのは、とにかく本音で迫り、大胆に告白

する『私』の眼と触覚の生々しさですね。ここで描かれたひとりの女は、まちがいなく、

外見的には、おとなしい、しかもいい子として衆目に受け止められている女ですね。どん

なに裡で大胆に変身していても、決して外にはそれが顕れない女として、非常に信憑性が

あります。その作為の感じられない描き方、これがこの小説の凄いところでしょうね。そ

れゆえ、そこに描かれた性愛への飽くなき生々しい欲求が、女そのものをまるごと開いて

見せたような大胆さとなって結実しているのだと思います。

 そんなをこと如実に感じさせる箇所を若干引用しておきます。



 体育の山中先生が、サンダルをぺたぺた鳴らしながら通った。先生は独身で、年中、日

焼けしている顔が、いつもにやけていた。生まれつきにやけた顔なのか、それとも、日ご

ろから女子の体操着を見てはいやらしいことばかり考えているからなのかわからない。私

は山中が苦手だった。

 体育の授業中に、ジャージーのズボンを思い切り上に持ち上げたとき(ウエストのゴム

がゆるくなっていて、ずりやすかった)、山中は、いつものにやけ顔をいっそうだらしな

くして言ったのだ。

「そんなに持ち上げると、くいこんでしまうべ」

 それからよけいに嫌いになった。あの教師の前で走ったり、マット体操をするのがイヤ

になったのだ。走れば、このごろ大きくなった胸がゆれるし、マットででんぐりがえりを

すると尻や股間を見られそうだ。かといって、体育を休めば休んだで、「生理欠席か?あ

?」としつこく聞いてくるだろう。                (本文7〜8頁)



 第一話、中学時代の心の中を行き来する意識上のエピソードとして描かれている箇所で

すが、もの心ついたときから、すでに女は女である。そんなことをリアルに感じさせる描

写ではないかと思いまし、何より、外見は何も口に出さない、おとなしい少女が裡に抱え

る性意識が何気ないデテールで見事に掬い上げられていると思います。



 でもその欲求自体は、ひどく刹那的なものだ。

 どんなにしがみついても、快感を真髄まで追い求めてむさぼっても、逆に、私が骨にな

るまでむさぼりつくされても、それでもまだ物足りない。ひもじい。もっとほしい。飢餓

地獄におちたみたいに果てがない。どんなに水を注いでも底からこぼれて落ちて決して満

たされない器のような空虚な感じが、性愛の後に残る。        (本文41頁)



 これは、第三話。大学に入ってはじめて性交体験を覚えた『私』が性欲に囚われていく

過程での忌憚ない思いが大胆に描かれた箇所ですが、性愛の極致と限界を示唆するものと

してみると興味深い記述と言えますね。



 いよいよ夜、早めに夕食をすませる。ビールがほしくても飲まない。決行日だけではな

い。ずっと禁酒している。私はタバコは吸わないが、夫は禁煙もしている。

 入浴して身を清め、うやうやしく布団に入る。

 今や、それは、性欲の解消でも愛情の確認でも淫蕩な愉しみでもなく、おごそかな儀式

めいたものになりつつあった。今度こそ、と神に祈るような営みだ。

 実際、私たちは子宝を祈願して、近所の神社に参拝した。   (本文53〜54頁)



 これは、最終第四話。子作りをめざす夫婦の性生活のひとこまといったところで、微笑

ましいというか悲壮なまでの性生活の一端ですが、常に現実に浸り、それを謳歌する女性

本来の性向がものの見事に描かれていますね。こうして中学時代のはじめてのキスから性

愛の歓びを感得して、やがて子作りに励む夫婦の性生活に至るまで、短時間にスライドシ

ョーのようにスチールが次々と変遷する性のイメージを俯瞰的かつ全貌的に見せられるよ

うな仕立てになっていて、そこに残る後味は、爽やかとも言っていいと思います。

 ただひとつ、この小説の仕立てとしては、異質と思えたのが、次の箇所で、これは、性

愛心理に徹して書き紡いできた作者が、ふっと手を抜いて恋愛心理に立ち返ってしまった

ようなところがあって、見方によってはミステイクなのかもしれませんが、私としては、

返って好感を持った切なくも感動的描写ですね。たぎる思いをなかなかこれだけの短文の

中に封じ込めることはできることではないですね。最終第四話の中に再び盛られる、第三

話に出てくる人生最愛の恋人との別れのシーンで、個人的には、その生々しさと裏合わせ

の清新さが大変気に入っている文章です。



 飛行場の駐車場に車をとめて、最後のキスをした。

 舌をからめて口を吸いあっていると、また涙がこぼれた。しまいには二人とも泣いた。

嗚咽と涙に乱れる息をぶつけあいながら、唇を重ねた。

 徳明が東京にいたころ、彼のシングルベッドで愛しあい、官能のきわみに息も絶え絶え

になったときのようだった。徳明の涙をなめた。未練がこみあげて、気が狂いそうだった。

 私は最後に徳明を強く抱きしめると、車から転がり出るようにおり、空港ビルへと走っ

た。                               (本文59頁)



 第二作の『女装夢変化』。これは、その面白さ圧巻でしたね。女装者の視点、つまりは

男になるわけですが、これを女流作家が描ききっているところが、極めて刺激的でもある

ところですね。心理的妙という点では、私が一番勉強になり参考になった作品です。うま

さも際だっています。題名にひっかかるものが少しありましたが、オムニバス風の仕立て

という中では、かえって面白いのかもしれませんね。

 女装者のその裡なる側からの告白、それだけでも興味はそそられますが、見識を新たに

させられるのが、その動機の素直さ正直さですね。さまざまな世間の偏見とすでに自分の

抱える家庭という常識としがらみの社会的視線に怯えながらも、裡なる心の叫びに抗しき

れずのめり込んでいく、そのあたりの心理的パラドックスが赤裸々に語られていて、むし

ろ誰しも裡に抱えながらも現実にはできないある種疚しさとも言えるそうした願望に忠実

に突き進んでいく勇気には拍手すら贈りたくなります。こういう心理的背景の描き方、真

摯性は、全五作の中では際だっていると言えるのではないでしょうか。



 でも、いつから始まったのか、わからないんです。子どものころは男兄弟二人の長男で

したから、兄としてのプライドも競争意識も強く、精神的にはマッチョだったんです。学

生時代も、今の家内の前で女の子をリードする、面倒を見てやる、俺にまかせろ、という

タイプでした。

 それだけに、しっかりしていなくてはならない、強くて自信に満ちた態度をとらなくて

はならない、という暗黙のかせが、時には重荷だった・・・・。甘えん坊の女の子になっ

てみたい、弱音をはいて人に頼ってみたい、そう思うこともあったのです。

 そうした願望は十代からありました。だから女というだけで、男に媚を売ってカワイコ

ブリッ子して得している女の子への反感というか嫉妬はありましたね。 (本文79頁)



 父は学歴信仰も強く、そのおかげで小学校から大学まで一貫の有名私立に学び、結果的

には、そのおかげで今の会社にいるのかもしれませんから恩義は感じていますが、成績が

少しでも下がると、「女は少々頭が悪くても顔がよけりゃどうにかなるが、頭の足らん男

は、使いものにならん、負け犬になるな」とはり倒され、おびえたものでした。弟も同じ

ようなしつけを受けていましたが、長男のわたしは父の期待もより大きく、それだけ厳し

かったのです。

 そうした環境で育ったからでしょうか。女性的なるもの、優しく、可愛らしく、砂糖菓

子のように甘くて繊細なものに憧れるようになったのです。      (本文80頁)



 そうした男がふとしたはずみから女装の魅力にのめり込んでいく。その心理的プロセス

も見事で、入り込んではまた怯えて引き、そしてまた一歩奥へと入り込んでいってしまう

という、どうにも制御のきかなくなるハマリ方が、サスペンスタッチと言えるほどにもリ

アルで大胆に描かれています。



 いつもの射精よりはるかに強い痙攣と刺激がありました。しかしその放心の中に、どこ

か奇妙な違和感があったのです。何かが違う。でも何だろう。

 しばらく考え続けて、わかりました。

 自慰の性的妄想の中で、わたとは男ではなかったのです。自分がロシア美女になりきっ

て、男に犯されている場面を思いうかべていたのです。

 ホモになったんだろうか・・・・。不安と後ろ暗さに恐ろしくなりました。動悸のあま

り心臓が鈍く痛んだほどです。もう二度とするまい、そう誓いました。

 でも、やめるどころか、謎めいたロシア美人にまた会いたくて、ますます女装にのめり

こんでいったのです。                       (本文83頁)



 そうして、性的倒錯者としての烙印を押されるのではないかという不安に怯えながらも

しだいに本格的女装者として自立していく。そして男が女になりきったとき、ホンモノの

恋が女としてできるのかという新たな壁に突き当たる。この女として生まれ変わった後起

きる真の命題と、そこに描かれた女としての恋、これがこの小説の白眉と言えます。



 「ちょっと待って、俺、全然そういうひととつきあったことはないけど、あんたくらい

女っぽかったら、体がどうだって、俺から見たらあんたは女だから」

 その言葉に、またぐっときました。涙が出るほどの感激でした。

 自分を女として見てくれる。女っぽいと言ってくれる・・・・。これでたいがいの女装

者は陥落します。

 というのも世間のひとは、女の服を着た男を、女、とは見てくれません。女として扱わ

れたいから女装して街に出ているのに、オカマ、変態、ホモとしか見ないのです。それを

本当の女だと言ってもらえる。女装者にとって最高のほめ言葉なのです。(本文69頁)



 しおらしくふるまう、ひかえめにする、というのも女装のコツなんです。スカートをは

いて化粧をすればオンナになれるほど、女装の世界は底が浅くありません。いかにも男が

好みそうな女らしい仕草や雰囲気作りが大切なんです。わたしだってもともと男として数

十年生きてきましたから、男好きのするオンナの風情はわかっています。(本文71頁)



 女の持つ際だった特徴と男に与える性的効果を徹底的に意識して女を演じる。そのこと

が女以上に女を表現することになるのは自明の理である。歌舞伎の女形しかりでしょうか。

そして、そうして現れ出たものを素直に女以上に女として認める男と出会う。こうした男

と女のやりとり、心理的駆け引き、そして官能的な性愛関係が克明に描かれています。随

分と参考になりますね、こういう世界は。恋愛小説として読んでも優れていると思います。

締めくくりのわたしの語りがまたいいですね。



 わたしにとっては、女装とは、趣味であり、ストレスの多い仕事の息抜きでした。清瀬

マミは、抑圧の多いつらい世をしのぶための仮の姿で、本当のわたしはあくまでも男のつ

もりでした。

 でも、今では、編集者・父・夫という姿のほうが、世間体や常識に縛られた窮屈な社会

を生きていくための方便、世をしのぶ仮の姿ではないかという気がするのです。

 女装したマミこそが、人目もはばからず意のままに泣き笑い、快楽の声をあげ、美しい

ものをまとい、人生の果実を味わっている・・・・、その自由な姿こそが本当のわたしで

はないか、そう感じ始めているのです。              (本文118頁)



 最後に収められた『新しい扉』は、異色作ですね。語られる人称がこれも一人称ですが、

一章ずつ語り手が丁寧に交代します。こういう手法そのものは、珍しいものではないのか

もしれませんが、こういう性の主題を扱うとき、その微妙な心理的アヤ、ズレが客観的に

検証され、真を捉えることになる効果は抜群ではないでしょうか。

 生まれ落ちた星も環境も経歴も性格もまったく異なるふたりの女がマッサージという肉

体の疲れを癒す授受関係を深め、二人でまったく想像もできなかた新しい恋愛関係を生み

出すといった、読者もこれまた想像もできないような筋立てになっています。そして、こ

ういうことも現実には十分ありそうだと納得させるに足るところが、この作品の小説たる

ところでもあると思います。

 一人は学歴も知性もあり、夫と離婚し、一人マンション暮らしをするバリバリのキャリ

アウーマン。一方は、三十歳で独身のレズビアンのマッサージ師。長年恋人であった女に

裏切られ、結婚もできず将来に不安を抱えている。こんな二人が定期的にマッサージをす

るものとされるものという肉体の授受関係を通して内的にも関係を結んでいく。このあた

りのプロセスが先に述べたような交互の一人称形式で語られ、それをさらに別の観点から

語り補足するような重層構造で描かれています。普通には、よほどの巡り合わせでもなけ

れば生まれ得ないような女同士の関係が、マッサージという肉体の癒しを通して官能を惹

き起こす。これは、作者の技巧と妙によって、ごくありふれた日常の中でも、こういう異

質な世界がむしろ異質でなく享受できるという世界に仕立て上がっています。やがて、こ

の女二人、共同生活をはじめることになるわけですが、このやけに現実的なくだりに妙に

納得させられ、こんな人生が中にはあってもよいかもしれない、と思えてくるところが、

この作品の不思議さと言えるでしょうか。



 そんな自分の人生がどんなに保守的で、型にはまっていてつまらないものだったか、今

はよくわかる。女二人で住む、という考えもしなかった新しい扉が私の目の前に開けて、

人生の先々の展望までもがドラマチックに変わった。        (本文268頁)



 それにしても、よくもまあ、これだけのネタを拾い集め、技巧を駆使し、手を変え品を

変えしながら男と女をさまざまな組み合わせの中で描けたものだと感心せずにはおれませ

んが、最後にもう一度、とにかく面白かった、そして今後私を含めた読者が、その人生の

途上において、生かすことのできる意外な知恵が随所に鏤められていることを伝えて筆を

置きます。