『絵本 新編グリム童話選』を読んで

                                    瀬本明羅

(書誌的事項)  編集人   野口正信  企画・制作 風日舎  編集    中島宏枝・大西香織・吉村千穎  デザイン  友成 修  発行    毎日新聞社  著 者   高村 薫  「ブレーメンの音楽隊」        松本侑子  「カエルの王様、そして忠臣ハインリヒ」 「兄さんと妹」        阿川佐和子 「いばら姫」        大庭みな子 「ラプンツェル」 「ヘンゼルとグレーテル」        津島佑子  「めっけ鳥」        落合恵子  「あかずきん」              中沢けい  「つぐみひげの王様」        木崎さと子 「星の銀貨」        皆川博子  「青髭」
                            発行年  2001年6月

 20世紀末から21世紀初めにかけてのグリム童話ブームは、一体どういう現象であっ たか。どういう社会的な背景があったのか。それは世界的な現象であったのか。      そういうことを、今になって思い起こしてみることがある。しかし、浅学の私にはそう いう問題を読み解く力量がない。ただ、子どもたちが貪るように読んだ本があることは事 実だ。それは異常とも思える出来事であった。その本は、桐生操著『本当は恐ろしいグリ ム童話T・U』(KKベストセラーズ)である。1999年に第一巻が発行された。他社 の類書もいくつか出された。みんな大ヒットであった。                 どういうことがきっかけであったのか。未だに私は理解できないでいる。ただ、言える ことは、1996年に、松本侑子氏による『罪深い姫のおとぎ話』(角川書店)が出され ていることである。この両書の関係を軽軽に述べることを私は避けたいが、共通項はたし かにある。「子どもと家庭のための」グリム童話という枠を越えたところで、この一連の 物語を捉えようという視座である。それが、原型に迫る努力に収斂されたのだと考えられ る。                                        日本にも昔話や民話、童謡に残酷な内容のものがたくさんある。西欧との共通点も見出 される。「遠野物語」にも空恐ろしい話が随分ある。中でも、変身譚は興味がつきない。 また、全国各地にある人柱口碑は、事実かと思わせるようなリアリティーがある。     私は、郷土の大河斐伊川にまつわる人柱口碑を訪ねてあるいたことがあった。今もその 霊を祭る祠があったのである。下流部の一畑電鉄大寺駅の斐伊川北岸に「板箕堂(いたみ どう)」という小さなお宮があった。相次ぐ氾濫に頭を痛めた農民が、最後の手段として 人柱を思いつく。だれをたてようか、という相談になり、最初に斐伊川土手を通りかかっ たものにしようという結論になった。そして、土手に穴を掘り、早朝から土手の叢に隠れ て見張っていた。すると、板箕を売りに町に出かける少女がその板箕とともに穴に落ちた。 よく見ると、その少女は、まるで観音像のように両手を合わせ一心に祈っていたという。 かわいそうだ、という気持ちがしたが、取り決めを破るわけにはいかない。とうとうその 少女は、何の悲鳴をあげることもなく、多量の土砂の中に消えていった。名前は「お定」 といった。                                     この口碑は、いたいけない少女が犠牲になることが、悲劇性を増している。       民話・童話と女性との関わりということに強い関心を持っていたやさき、この書籍が発 刊されたことを知り、飛びつくように買い求めた。                   「女性作家9人が書き下ろした新しいグリム童話」という帯のコピーも魅力的であった。 「絵本」とあるが、その絵なるものは、きわめて史料的価値の高い挿絵で、読者をして幻 想の世界に誘う。最後に5人の研究家のエッセイも掲載してあるし、グリム兄弟の年表も 付してある。従って、この本一冊でグリム童話の世界のエッセンスを堪能できる仕組みに なっている。                                    それにしても、どうして女性作家だけの執筆という企画にしたものか。その疑問に明快 な解答をしているのが、巻末のエッセイ、「女性たちに支えられたグリム兄弟」「『菜の 花の沖』とヴィルヘルム・グリム」(橋本孝)と「グリム童話の"悪人"−−継母と魔女」 (野口芳子)である。特に後者は、男性の作品の中での処遇と女性のそれの大きな差に言 及している。「悪人」として扱われるのは、継母や年取った女性であり、男性が「悪人」 として扱われているケースが少ないことに触れている。また、もともと実母とあった部分 を継母と改めている例(筆者注:「白雪姫」などの例)を指摘し、「近代家族成立の時期 における『優しい母』は、『継母と魔女』の犠牲の上に創出されたといえる」と結論づけ ている。                                      つまり、女性の側からこの膨大な物語の核心を読み解き、「新グリム童話」なるものを 創出するところに、この企画の意図があったのではないのか、と考えられる。しかし、原 型を大きく変えることは許されない。その点は、微妙な表現上のテクニックで誰にも分か る形で提示しなければならない。こういうところにリライトする難しさがあったと思われ る。                                        グリム兄弟はそもそもどういう意図でこの物語をまとめ、世に送りだしたのか。     このことを解説しているのが、巻末のエッセイ、「"ドイツ"に寄せるグリム兄弟の思い」 (岩井方男)である。岩井氏は、「グリム兄弟により、それまでは、くだらないおしゃべ りや迷信としてかたづけられていた童話や伝説に、昔からのドイツ人の真の心を伝えるも のとしての、新しい価値と意味が見いだされました」と述べ、「ドイツ人に固有な文化」 の発掘がその大きな目的の一つであるとしている。                   そうであればこそ、いよいよ疑問として残るのが、作中の「性差」などの問題であろう。 それは、時代性からして致し方ないと言えばそれまでである。そこで、果敢にも9人の女 性作家が立ち上がったのではないのか。                        さて、具体的な作品であるが、ここでは、松本侑子氏の作品を例として取り上げること にする。特に「兄さんと妹」を中心にまとめたい。                   「カエルの王様・・・・・・」、「兄さんと妹」の2作品ともに最後の部分に「教訓」として、 原作が意図しただろう子どもたちへの教えを加筆している。               「男は命じ、女は従う」                              「女は、男の面倒をみて、言うことを聞いていると、幸せになる」           この言葉には、痛烈な社会批評の精神が込められている。他の作家にはない特色である。  しかし、「兄さんと妹」では、「兄」の影がまことに薄い。現代的な言葉でいうと、D Vによって家を追い出された兄妹。母は「継母」となっていて、実子の女の子は醜いし片 方の目が潰れていたである。しかし、継母は実子を溺愛していた。            追い出された二人は森の中をさまよう。のどが渇いた兄は、妹が止めるのも聞かず、泉 の水を飲み、鹿に変身する。継母は魔女で、その呪いにかかったのだった。兄は、欲望に 勝てない哀れな男として描かれている。妹は、声なき声を聞く力が備わっていて、危ない と逸早く察知し、兄を止めようとしたが間に合わなかったのである。鹿に変身した哀れな 兄に妹はしっかりと寄り添って成長する。その兄妹を救うのが王である。王は、美しい娘 と見事な鹿に目を奪われる。そして、王は妹と結婚し、妹は妃となり子どもを産む。とこ ろが、継母は、嫉妬し妹を殺害する。すると、夜な夜な妃は亡霊となって、わが子どもと 鹿になった兄の世話をしに姿を現す。継母は死罪となり、呪いが解けて兄は元の姿に返る ・・・・・・(母親の死霊が嬰児を養うという話は日本にもあり、松江に滞在した小泉八 雲も採話している)。                                こういうストーリイから、優しく意志の強い妹に支えられてやっと生き抜き、元の姿に 返るか弱い兄の像が浮かび上がってくる。他の作品にも逞しく生き抜く女性とそれに支え られるややひ弱な男性が描かれている。                        昔話、民話、童話には、虐げられ、非業の最期をとげる女性も数多く登場するが、反面、 このような「強い」女性も数多登場する。                       この女性像の二面性は、人間の悠久の歴史の中で女性たちが現実を見据え、男たちより も一層激しく生き抜いてゆく「母性」の強靭さを物語っているのではないのか、と私は考 えている。歴史の表舞台では、血気にはやる男たちが戦う。しかし、それはいずれ死とい う結末しか待ち受けていない。歴史の中で、男たちはいわば「戦士」として消耗する。   歴史を支え、動かしているのは、実は「母性」の逞しさではないのか。グリム童話を読 んでいて、たとえ醜悪な力を発揮する女性であっても、つまりは、男たちに限りない「力」 を与えているのではないのか、と私は受け取っている。大きな誤解かもしれないが。    かつて、新藤兼人監督の「鬼婆」という作品を見た。戦国時代に、落ち武者を殺し、武 器や甲冑を奪って生計を立てている母親と娘の姿が、私の心深くに焼きついて離れない。  では、前述の「性差」という問題は、どう解決させたらよいのか。           たしかに、年取った女性や継母に対する偏った見方もあるので、これが子どもたちによ い影響を与えかねないと思われる。しかし、グリム童話の真の姿を晒しても、即座に子ど もたちに偏見が生じるとは思えない。子どもたちは、したたかに物語としての「面白さ」 だけを吸収しているのではないか、と私は考えている。ストーリイをそのまま今の女性に 当てはめることはないのではないのか。グリム童話の「夢」の破壊という立場からの論評 もあった。しかし、「兄さんと妹」の作品の中の「母性」の神聖化という理念は他作品で 無残にも否定されてはいるが、この神聖なる面と残虐なる面の両極にある矛盾した「母性」 の把握は、却って読むものの心の地平を安らげ、豊かにするものと私は考えている。    物語の中の女性たちは、身をもって自らの「歴史」を語ることにより、世の男性にあり とあらゆメッセージを送っているのではないのか。                   「男は命じ、女は従う」                              「女は、男の面倒をみて、言うことを聞いていると、幸せになる」           こういう批評的な意味を込めたメッセージも、確かにはっきりと読み取ることができる。  しかし、グリム兄弟の不滅の声は、多面体であると思われる。             こう書いている私こそが偏見に満ちているかもしれないので、反論が出てきそうである。 大方のご批評を御願いする次第である。                        因みに、私の好みから言わせてもらうと、私は、「ラプンツェル」を松本氏に書いてい ただきたかった。グリムの白眉だと一人合点している。