カット:杉原孝芳                                瀬本明羅

花作りと蟲飼いの仕事を始めてから間もないある夏の日の朝ことである。  「お前の車、相当傷んでるなあ」と相棒の新助さんが、ある日、駐車場に止めてあった 私の車をじろじろ見回しながら言った。  「うん、だから可愛いんだよ」  二人の人間関係がまだしっくりいっていない頃だったので、私はあまりいい気持ちがし なかった。  「満身創痍、ひどいねえ」と言いながら、セダン型の私の車の天井を撫ぜて新助さんは 私の顔を見た。  そこの部分は特に傷みがひどく、全体に大きな丸い模様がついていた。塗装があちこち 剥げて、黒いボディーカラーが白っぽく抜け落ちていた。隣の新助さんの車はブルーの新 型のワンボックスカーである。並べて置いてあると、私の車の古さが一層際立っていた。  「何分十二年だからねえ」  私が言うと、新助さんは大袈裟に驚いたような表情を作った。  「そうすると、車検は毎年だなあ。もう引導渡した方がいいんじゃないか」  「ところが、退職金は借金やら何やらでパーになった。動かんようになるまで乗るしか ない」  新助さんは、私がそう言うと、傷の一つひとつを確かめるように指差してはこちらを振 り向いた。私はその仕草が内臓の患部を抉るように思えた。だから、止めてくれ、と叫び たくなった。と同時に、堰を切ったように過去の映像が頭の中を駆け巡りだした。  「その曲がったバンパーはね、会社の得意先の車が後ろを見ずにバックしてきた時の衝 撃の痕でね、相手が相手だし、得意先の会社の中だし、修理代は請求しなかった。ボンネ ットのへこみは会社のレクレーションの時ソフトボールが当たった痕。これも請求できな かったね。ドアの掻き傷は、会社の品物を積んだ時にしくじった痕……」  「おいおい、君は会社に多大な貢献をしているねえ。お人よしだなあお前は。俺は事務 系だったから分からないが、営業の仕事なら会社の車があるだろう」  新助さんは呆れたようにそう言った。  「何台かあるにはあったが、乗るものはいつも決まってたねえ。ほとんどの者は多少の 手当てを貰っただけで公然と営業車として乗り回していた」  私は新助さんが言おうとしていることはよく分かっていた。世渡り下手の私を気の毒に 思い、同時に未熟な性格をやんわりと責めているのである。しかし、そのことについては 私は不思議と不快に思わなかった。こういう退職者が行き着く仕事先に納まってみると、 過去は過去であり、現実ときっぱり切り離して考えねばならないのだ。その点、新助さん は自分の過去をあまり語ろうとしなかった。ただ一言今まで言ったことがある。三十八年 も机に向かってると、自分が蝋人形のように思えてきてねえ……。その言葉は、何か深い 洞穴の中から響いてくるような感じで、私は一瞬返答に窮したことがある。  「おいおい、この右前輪のホイールの擦り傷はどうしたんだい」  私は、この時だけは咄嗟に喉まで出てきた言葉を呑み込んだ。もしかしたらあの時死ん でいたかもしれないという想念が蘇ってきたからである。  定年までの最後の一年間は私にとって過酷な勤務が続いた。薬品の卸売りが頭打ちにな ったので、化粧品の卸にも手を伸ばしていた。大手の会社の商品ではなかったので宣伝に 相当の時間を必要とした上に、新たな得意先を獲得する壁にぶつかった。大幅な残業が常 となり、帰宅が深夜になることがよくあった。同期の者は部課長になっていたのに、私は 係長までやっと辿り着いていた。だから、会社の裏口の鍵はいつも私がかけていた。  その日も十一時までサービス残業をして、帰宅を急いでいた。深夜の国道は、時折大型 トラックと擦れ違うだけで、道の両サイドは漆黒の闇が口を開けていた。疲労と空腹から 極度に視界が狭くなっていくのが分かった。そして、幾度か瞼を閉じていた。慌ててハン ドルを直した。そうしているうちに眠っていたらしく、キュッ、キュッという音が何度か して、その度に車体が右側に弾かれていく感覚が私を目覚めさせた。よく見ると、車体は センターラインを跨いで走っていた。そして、突如眩しいライトの明かりに吸い込まれて いった。私は渾身の力を込めてブレーキを踏んだ。光の帯は轟音とともに私の車体を呑み 込んだかと思うと、何の衝撃も残さず消え去っていった。暫く身動きできなかった。放心 状態から、やっとのことで自分を取り戻し、車から降りた。車は完全にセンターラインを 越えていた。車に返り、安全な位置に動かして止めた。そして、今までの道を辿って歩き 出した。闇をすかして見ると、縁石に黒いタイヤの跡が何十メートルも付いていた。車輪 は縁石の反発で、何度も右方向に弾かれていたのである。そして、その度に私は無意識の うちにハンドルを左に戻していたようである。……縁石を飛び越えなくてよかった。また、 トラックと衝突しなかったのは奇跡だ。私は、歯の根も合わぬように震えだした。  「……新さん、それは奇跡の傷だよ」  私は興奮しながらそう言った。  「おいおい、謎めいたことを言うなよ」  新助さんは、私の異常な表情を見て取って、それ以上詮索することはなかった。  「いや、今の仕事は暇だからね。こんなことまでついつい気になってしまって、余計な ことを聞いてしまった。謝る」  新助さんは急にしおらしくなった。  「だからね。夜俺はこの黒い車が黄金色に輝いている夢を見ることがあるんだよ」  「へえ、そりゃ尋常じゃないね」  「だれかが、私をこうして生きさせているんだよ」  「だれかって?」  「だれかさ」  私はそう答えるしかなかった。すると、新助さんは腰のタオルを取り出して額の汗を拭 って言った。  「さあ、仕事、仕事」  私も手袋を着けて蟲小屋に急いだ。新しい仕事場は園芸農家であった。知識・技術のな い二人の仕事は自然と草取りに回されることが多かった。しかし、多角経営に乗り出して いたこの農家は、カブトムシの飼育も試みていた。  蟲小屋の床にはチップ材がたくさん入れてあった。その中には夥しい数のカブトムシの 幼虫が蠢いていたし、黒い成虫が毎朝数十匹産まれていた。角のあるオスが出ていること が多かった。メスはチップの中に隠れていて、昼上に出ることは希だった。私たちの最初 の仕事はめだった蟲を手で掴み、別の飼育箱に入れる作業だった。素手で掴むと、角や脚 の爪でちくりと刺された。中には、黒い羽根が半分くらいしかない蟲もいた。幼虫のうち に手で触ったり、傷つけたりするとそんな畸形が出来ると聞いていた。突然変異なのか分 からないが、羽根の色が赤茶色のものもいた。これは非常に目立っていて、私たちは赤羽 根と呼んでいた。  「おい、今日は畸形が少ないぜ」と新助さんは喜んで言った。主人は、畸形が極力出な いように慎重に扱ってくれ、と常々注意していた。  「赤羽根が五匹だ」  私も喜んで籠にいれていた。  「おいおい、この蟲は畸形じゃないけど、たくさん傷がついている」  新助さんは私の顔を覗き込むように言った。  「新さんの言いたいことは分かっている。もうそれ以上言わないでくれよ」  二人は顔を見合わせて大声で笑いあった。すると、主人が声を聞きつけてやって来た。  「お二人さんは、今日はご機嫌ですね」と言ってにやにやしている。  「蟲が好きなんですよ」と新助さん。  「傷がついてない蟲なら私は好きなんだけど」と私。  すると、主人は「そんな蟲なら、私もだーい好きですよ」とおどけて言った。  その言葉を聞いて二人はまた大声で笑い合った。  飼育箱の中へ今朝採った蟲を入れると、箱の中の蟲たちが急にざわつき始めた。新入り の蟲たちに角を向けて、盛んに牽制している。新入りも負けずに角を突き出す。暫くあち こちで押し合いが繰り広げられた。ギッ、ギッという威嚇の音を響かせているオスもいた。  「どこも同じだねえ」と新助さんは寂しそうに呟いた。私は蟲たちが絡み合っている姿 を憑かれたようにじっと見つめていた。  すると、主人が私の肩をポンと叩いて言った。  「もう、そんなに見つめるのは止めましょう。次の仕事が待ってますから」  促されて私は外に出た。外気がむっと体を包み込んだ。夏の陽はもう頭上遥か彼方に上 り、今日も暑い一日が始まろうとしていた。                                      (了)