無垢                     瀬本明羅

 私は、健三さんのような人を世間にあまり知らない。 父とその晩も酒を飲みながら、何かまとまったことを言ったのだろうか、と思い出しても 何もないのである。そういう寡黙な人である。  深夜まで酒の相手をして、今夜もごちそうさんになりました、そう言ってまことに満足 した顔で、月明かりを頼りに自転車を引きながら帰っていった。  私は、玄関横の窓から後ろ姿を見送っていた。  「どうして、健さんにしゃべらせないの」  酒のにおいが充満している部屋に帰ると、父はまだ残り酒を手酌 で呑んでいた。  「あいつは、昔から聞き役だった」  「子どものときからそうだったの」  「そうだった。自分からしゃべったことがない」  「それで、いつも愚痴の聞き役をやらせてるわけだ」  「・・・・・・」  「六十近くにもなって、愚痴の相手じゃかわいそうだ」  父は、私を睨んで言い放った。  「自分からしゃべらないから、俺が相手をしてやっているんだ」  翌日、私は健三さんの家に仕事帰りに寄ってみた。  健三さんは、仕事場でこちらを向こうともせず、轆轤(ろくろ)を回していた。  「お邪魔していいですか」。私は遠慮がちに言った。  「・・・うん」  「何年になるんです。この仕事初めてから」  「四十年くらいかな」  轆轤の上の陶土が、ある音楽を奏でるように形を変えていく。見る見るうちに細長い 棒のようになった。  「ああ、鶴首の花瓶ですね」  「ろくろっくびの花瓶だ」  健三さんはそう言うと大声で笑った。  私も思わず笑った。  仕事部屋には、窯入れを待っている夥しい「ろくろっくび」があった。 これもまた音楽だ。私は、そう感じた。健三さんはこの楽曲の中でたっぷりと漬け込まれ たいい味の漬物みたいだ。そう思えた。  「坊っちゃん。お陰で久しぶりに笑いましたよ」  私は、夕べの父との話を思い出し、健三さんが自分からしゃべらない訳が分かったよ うな気がした。  帰り道、細い路地のうねりが「ろくろっくび」のように見えて、一人で笑った。