黄昏れて出遇う

村上 馨


「お客さまのお呼び出しを申し上げます。M町からお越しの『みなみやまゆき』さま。い

らっしゃいましたら正面サービスカウンターまでお越し下さい」

 めったに来ることもない、Y市のデパートで、何気なく流れてきた場内アナウンスだっ

た。やけに手慣れた物言いで、いくぶん鼻にもかけたような、いかにもアナウンスめいた

調子で流れてくるその声音を耳障りに思いながら、聞くともなく聞いていたが、『みなみ

やまゆき』とその名が告げられたとたん、男は、はたと立ち止まった。そして、しばらく

訝しむふうだった。

 『そんなはずはない・・・』男は裡に問いかけた。『同姓同名はいくらでもある。それ

に、彼女はとっくの昔に結婚してもう姓が変わっている可能性もある。だが、それにして

もM町からお越しのというのがやけに気にはなる』

 男が訝しんだのも無理はなかった。そもそも、南山という姓は、人口三千人足らずのM

町にはもともとはなく、男の記憶が遡ったその当時、新しく造成された住宅団地にH市か

ら越してきた彼女の一家が唯一電話帳に載っていたに過ぎなかったからだ。だが、男はこ

のアナウンスに不思議な予感めいたもの、ひいては因縁めいたものを感じていた。この日

は、還暦を迎えた男の誕生日でもあったし、男の住むK市から40キロ近くも離れていて、

普段めったに来ることはないY市のこのデパートまでわざわざ足を運んだのは、還暦のお

祝いにと、すでに嫁いで子供もある娘が贈ってくれた商品券で、何かを買い求め、早く礼

でも言わなければならないと考えたからではあるが、娘のくれたそれは、全国共通の商品

券だったから、男の住む町のデパートでもよかったわけで、敢えてY市まで足を運んだの

にはそれなりの理由があったからだった。



 Y市のこのデパートには、もう二十年ほども前に、当時恋人であった南山ゆきを連れ立

ってよく買い物に来ていた。K市では人目につくからと男は考え、彼女もまたこのY市が

とても好きな街だと言ったからだった。出会った当時、男は四十歳、妻に先立たれ、十二

歳になる娘を一人連れていた。南山ゆきは、男より一回り下の二十八歳、独身の看護婦だ

った。複雑な家庭環境の中で育ち、父親は、彼女が小学生のとき単身赴任先でできた女と

出奔したまま行方知れずだった。幼心に男そのものへの不信感は植え付けられ、母親の情

愛を一身に受けて育った。生理的に男が受け入れられなくなり、一生一人で母親と二人い

つまでも暮らすのだと心に決めていた。看護婦になって、生涯たとえ一人でも生きていけ

るだけの職を身につけるのだという思いはその頃から芽生えていた。

 二人が知り合ったのは、男の行き付けのスタンドバーで、そこに彼女もちょくちょく顔

を出していて、いつしか互いに思いを寄せるようになっていた。年の離れた男には、それ

まで彼女に近づいてきた若い男たちがいつもあからさまに見せた、欲望にぎらぎらしたと

ころがなかった。彼女がいくら望んでも得ることのできなかった父親の匂い、優しさが漂

っていた。傍目を保とうと、強がってばかり生きてきた彼女だったが、男の前では、不思

議と心置きなく甘えることができた。いつの間にか、男のことを『とーさん』と呼ぶよう

になっていた。結婚はしないという約束でつき合った。男には、幼い一人娘がいたし、彼

女には、自分一人を心のよりどころにし、生活力にも乏しく、身寄りもない母親がいた。

彼女が、男の一人娘と自分を置き換えてみたとき、被害者であった自分が今度は加害者と

なって男の家庭に闖入することなどできることではなかったし、またしてはいけないこと

と固く心に言い聞かせた。互いにそれぞれ引き受けている者のある人生の中で、それが許

されるまでの間、たとえそれがわずかなひとときであっても、つき合えるだけつき合って

いければそれでよいと考えていた。だが皮肉なことに、思いとは裏腹にその軽さと安易さ

が逆に二人をずるずると愛欲の深みへと嵌め込んでていくことになった。そして、挙げ句

は世の型通りの破局を迎えた。きっかけは、実に些細なことに過ぎなかった。ただ事そこ

に至るまでが人並み外れていた。いつしか、二人の関係は十年もの歳月を数えていた。こ

の遅すぎた破局が二人の人生を大きく狂わせた。結婚すべき者同士が結婚しないことによ

って生まれる不幸とも言えた。別れたことで受けたダメージは、男と女が頭で考えていた

以上に身体の奥底へ、その心髄にまで強く食い込んでいた。それに気づいたとき、すでに

二人は、もう後戻りはできないところにまできていた。



 男は踵を返した。三階の紳士物の売場を離れると、階段を使って急ぎ一階に駆け下りた。

サービスコーナーには、まだ女の姿はなかった。彼女は果たして現れるのか?男の胸は高

鳴った。別れて十年あまりの、どう過ごしてきたのかさえもうまく言い表せない孤独な歳

月がいともたやすく消失し、あたかも、遡る二十年ほども前の日と同様、二人でここに買

い物に来ているような錯覚にすら陥った。彼女は、カチッとしたミニ丈のスーツが好みで、

またそれが良く似合いもしたが、このデパートの中にあるブランド店に、彼女の誕生日に

は決まって二人訪れた。店の若い店員の娘とも顔馴染みになり、贔屓客として丁重かつ親

しみを込めて扱われたこともあって、男の収入からすれば、甚だ高価な買い物であったに

も拘わらず、そのやりとりのひとときは、男にとって密かな歓びのときでもあった。

 五分ほども待ったろうか、サービスカウンターの前には、紛うかたなく南山ゆきその人

が現れた。毛皮のコートを羽織り、下にはサテンと思われる黒のスーツ、スカート丈は、

男とつき合っていた当時ほどではないが、幾分ミニ丈。看護婦という立ち仕事を長年続け

ているとは思えないほど、脚は昔のまますらりと伸びている。特に踝から脹ら脛にかけて

の引き締まったそれは昔のまま、少しも衰えてはいない。思わず熱いものが込み上げた。

 買い物をしたレジで何か忘れ物でもしたのであろうか、それとも計算間違いでもあった

のであろうか、何やら笑いながら案内嬢と会話を交わしている。そして、彼女はカウンタ

ーを離れて男の方へ向かって歩きはじめた。男も立ち上がった。

「ゆきさんじゃないか」

 男の前を、早足に、そのまま通り過ぎていこうとした彼女を後方から呼び止めた。声に

何気なく振り向いた彼女だったが、すぐに表情は驚きに変わった。『とーさん』と言いか

けてすぐに口を噤んだようだった。

「まあ、杉本さん・・・こんなところで・・・お久しぶりです」

 彼女は、男の方を正視すると、きちんと一礼した。

「ほんとに。まったくの奇遇だねえ・・・」

「ええ・・・お懐かしいです」

 彼女の目がすぐに潤みはじめたのがわかった。

「元気で・・・?」

「ええ・・・あなたも?」

「ああ、何とか・・・」

「良かった・・・ここで会えて。今あなたのこと考えてたの。どうしてるかなって・・・」

「ぼくもだよ。二人よく来たところだからね。時間よかったらお茶でも・・・」

 二人で喫茶店に入った。

「どうしてここに?}

 彼女が訊ねた。

「いやね、娘が還暦の祝いに商品券を贈ってくれてね。早く何か買って礼のひとつも言わ

なくちゃと思ってね。今日はぼくの誕生日だし、なぜだかわからないが、このデパートに

足が向いた」

「そうだったの。お嬢さんがねえ・・・。おいくつになられるのかしら?」

「もう三十四になるよ。嫁いで子供もいる。きみと会ったのが、きみの二十八のときだか

ら、そう思うと何だか不思議な気持ちがする」

「そうよねえ・・・私ももう五十のいいおばさんよ」

「そうは見えない。さすがだよ、身なりといい、スタイルといい、少しも衰えてはいない

よ」

「ありがとう。お言葉通りにいただいておくわ」

「きみの方はまたどうしてここへ?」

「それがね、こんな不思議なことってあるのかしら・・・今日はあなたの誕生日、それに

節目でしょう。お嬢さんと同じ気持ちよ。住所も変わってるから届けられる自信もなかっ

たけど、ネクタイのひとつでもと思って・・・さっき呼び出しがあったでしょう。レジで

ね、メッセージカードを入れておいてと頼んだのだけど、入れ忘れたらしいの。不思議よ

ね、もしあの呼び出しがなかったら、こうしてあなたと再会はできなかったかもしれない

わ。もしかすると、こうして巡り会えたのもお嬢さんのおかげかもね」

「あれから、きみと過ごした十年以上もの歳月が経ってしまったよ」

「きっと恨んでるでしょうね、私のこと・・・唐突にあなたの前から消えてしまったから

・・・」

「そうかもしれないが、ぼくも煮え切らなかった・・・」

「あなたのことを忘れたことはなかったわ」

「ぼくもだよ、あれから思い出だけで生きてきた・・・」

「もしかしたら、やり直せたのかしら私たち・・・?」

「そればっかり考えてはきたけどね」

「そうね、そうして時間ばかりをを遣り過ごしてきたのだわ。でも逢えてよかった。もう

二度と逢えないものと思っていたから・・・」

「ぼくもだよ、これ、ありがとう。大事にするよ」

 きれいにリボンのかけられたネクタイの包装紙には、『とーさんへ』と添え書きもして

あった。

「いつまでたっても、ぼくはきみのとーさんなんだなあ」

「そうね、いつまでも・・・」

「ところで、今はもう誰かと・・・?」

 最後にどうしても聞いておかなければならないことだった。彼女は黙ったまま俯いたが、

それは問い詰められた素直な子供がそうするように、そっとひとつ正直に頷いたようにも

受け取れた。真新しい毛皮のコートにサテンのスーツ・・・それを見事に着こなしている

彼女を改めて見つめ直したとき、男は今の彼女のすべてを、その意味するところをしかと

悟った。



 外は粉雪が舞っていた。それが髪に落ち、そのしずくが瞼から頬を伝った。日はすっか

り落ちて辺りには黄昏が降りていた。灯りはじめた外灯や街明かりの光芒が幾筋もの尾を

曳いて男の目に眩しく飛び込んだ。男は泣いていたのだった。女と過ごした十年間のくさ

ぐさが雨のように降り注いできた。彼女の語った一言一言、彼女のよこした手紙の一文一

文、彼女の取った何気ない仕草の一つ一つ・・・そうしたことが事細かに思い起こされた。

 携帯電話が鳴った。娘からのものだった。

「あっ、おとうさん。今日誕生日でしょう。遅くなったけど、おめでとう」

「ああ、おまえか・・・それはどうもありがとう」

「元気なの?このところ連絡なかったから・・・」

「ああ、とても元気だよ、それに今日はとてもいい一日だった。実はね、この前おまえの

くれたお祝いの商品券で今日素敵なネクタイを買ったんだよ。ちょうどよかった。そのお

礼の電話も入れなきゃと思ってたところなんだ。今度会うときしていくから是非見てくれ

よ。ブランド物だしな」

「そう、それはよかった。でもそうは言ってもとーさんのことだから、きっとダサイもの

選んだんじゃないの?」

「それは、ちゃんと見てから言ってくれよ」

「はい、はい」

「じゃあな、おまえも元気で暮らせ」

 そう言って男は電話を切った。

 『ほんとに今日はいい一日だった』男は一人またごちた。『もう二度とこんな日はない

だろう』今度は自分に言い聞かせるように呟いた。



 それから三日後のある夜のこと、入浴のために服を脱ぎかけたところで男は脳溢血で倒

れて意識を失った。男は、夢を見ていたのであろうか。失神と覚醒の相半ばする朦朧とし

た意識の中で、男はY市のデパートでの不思議な出来事を想っていた。南山ゆきは今も昔

も美しかった。それは、今見ている夢の中の出来事のようでもあり、つい先日の確かな現

実のこととも思われた。だが、そのことの是非はさして重要なことではないのかもしれな

い。なぜなら、この我々が我々のこととしてしかと意識しているように思える現実さえも、

実は過去世から未来世へと渡る狭間でまたひとつの夢でしかないのかもしれないのだから

・・・。

 その日はその冬一番の寒波がこの地方を襲い、明け方には三十センチあまりの雪が街を

覆い尽くしていた。男の直接の死因は凍死だった。それからさらに三日後、何度携帯電話

を鳴らしても出てこない父親を不審に思った娘が訪ねて来てやっと発見された。浴室の脱

衣籠には、脱ぎ捨てられた真新しい白のワイシャツと、その上には鮮やかなブルーに白を

織り交ぜた粋なデザインの施された、凡そ今の父親にしては少し若すぎるとも思われたに

しても、不思議と似合いそうな、しかもその好みには女の気配すら感じさせるような洒落

たネクタイが丁寧に折り畳まれて置いてあった。無惨な父親の死に際を目の当たりにして

取り乱し、泣き喚いた娘だったが、その面に苦悶の痕はなく、むしろ僅かにではあったが

笑みが零れていたのをいつまでも憶えていた。