吸い殻

村上 馨


 四畳半ほどの薄暗い部屋に入れられた。

 「すぐに来ますから」と言ったきり、部屋に案内してくれた女はすぐに消えた。薄暗い

と言っても、蛍光管には青白い妖しげな皮膜が施してあり、光の発色も鈍かった。光の波

長や色温度といったものが見慣れたものと異なるのであろう。それだけで、自分の手の平

さえ、自分のものではない感覚が生じてくる。床はすでに敷いてある。小さな枕がふたつ。

枕元には、スコッティーのティッシュペーパーの箱、そしてアルミ製の会議用によく使わ

れる見慣れた定番の安灰皿がひとつ。他には何も見あたりそうにない。どれだけ待たされ

るのかもよくわからないが、長い時間待つにはいささか居心地が悪すぎる。

 灰皿が気になった。吸い殻がたった一本だけ残されている。それも、まだ半分ほども吸

われていないのに無造作にもみ消されたものらしく、フィルターの先で折れかかっている。

してみると、待つ女がやってくるのは、たばこ一本吸うか吸わないかの時間かもしれない。

少なくとも私の前には一人の先客がいて、吸い残していったものにちがいない。それも、

女が来るまでの、その所在ない時間を苛立ちとともに待つ間のたばこであろう。ここは、

女とセックスするためだけに用意された場所だ。事が終われば、そそくさと立ち去るのが

男の常だろう。悠長に余韻に浸りながらたばこなど吸えるわけもない。

 そんなことを考えていると、そっと入り口の襖があいた。薄暗がり、そして幻惑された

光の中では、女の顔もよく見えない。「はじめての方ね」そう云った女の声と調子で、そ

う若くもないことはすぐにわかった。そして、何の前触れもなく、女はさも事務的に服を

脱ぎはじめた。

「早くしないと、時間なくなるわよ」

 突っ慳貪と云えば突っ慳貪だった。ことさら情は入れたくないのかもしれない。

「たばこ一本吸っていいか?」

「あなたがそれで良ければね。終わりの時間は同じだから・・・」

 全裸になると、女は布団の中に入った。なぜか、私にとって、セックスの意味がこれほ

ど不思議なことにに思えたこともない。天井に向けてたばこの煙を噴かした。すると、冷

めた蛍光管の青白い光に、私はいっそう現実から遠ざかって行くような気持ちになった。

 「あいつの抜けた穴をなんとしてもうずめなければならない」そう一人ごちた私は、い

きなり布団を掻き上げ、女に絡みついた。肌に女の匂いはなかった。洗い落とした後の石

鹸の匂いがした。両手で女の脚を上げ、そのまま両脇に押し広げると、女の渡してくれた

コンドームをそそくさと付け、女の奥に押し入った。腰を激しく動かす。だが、それは長

くは続かなかった。みるみる萎えていくのが自分でもよくわかった。

「飲んでるの?」

「ああ・・・」

 飲んではいなかったが、そう云わざるを得なかった。

「手でしてあげようか?」

「そうしてくれるか」

 女から離れ仰向けになった私が、今度は女に全身を預ける。さも慣れた手つきで女は私

のそれを指先で掴み、素早くそして小刻みに動かしはじめる。が、しかし・・・一度萎え

てしまった私のそれはもう何をされても熱くも固くもならない。不思議なことに、そこで

苛立ちすら湧いてこない。性的能力すらも退廃してしまったというのか。これで女がもっ

と若くて美人であったらどうかとも考えてみたが、そう大差はないように思えた。今の私

は女そのものすらを憎んでいるのかもしれない。一人の女との仄かな出逢いがやがて深い

交わりとなり、互いに互いを抜いては人生が考えられないほど抜き差しならぬ関係に陥っ

た。二人で築き上げた信頼に揺らぐことはないように思えたが、破局はやってきた。それ

も激しい軋轢と闘争劇の末に、最後は互いに互いを罵り合い、相手そのものを否定するよ

うな捨てぜりふを吐いた。一人の女への憎しみが輪をかけたように女全体への憎しみと不

信にまで膨らんでしまっていた。

「時間はあとどれくらいあるの?」

「そうね、あと三十分ってところね」

 女にさしてプライドを傷つけられた様子はない。夜な夜な絶え間なく繰り返される欲望

の処理劇・・・さまざまな男模様があって不思議なことではない。こういう局面も稀なこ

とではないのかもしれない。

「あたしも一本もらってもいい?」

 女と二人、俯せの身体を起こし、肘を立て、並んでたばこを吸った。

「女と別れた・・・」

 一瞬、女は私の顔を見上げ、怪訝そうな顔をした。

「ふられたんじゃないの、こういうところへ来るんだから・・・」

 とどのつまりは、そうかもしれなかった。

「未練あるんだ・・・ほんとは、まだその女としたいんじゃないの?」

 図星だった。私の中で別れたその女の代わりができるものはまだどこにもなかった。何

をしてもその女の肢体がちらついた。私の愛撫にのたうち、激しく反応する体に未練ばか

りが残った。

「だが、憎んでいる」

「時間かかりそうだね、あんたも・・・恋に別れはつきものだよ。それに、別れのない恋

なんて恋じゃないよ。馴れ合いだよ、それは・・・」

「はっきりしてるねえ、人ごとだからか?」

「あんたもロマンチストだねえ、逃げたあたしの亭主と同じだよ」

「別れたのか?」

「若い女とできて、とっとと出て行ったんだ。籍はまだ抜いてない。そのうち、疲れて舞

い戻ってくるにちがいないさ。出て行って、しばらくしてから、私に便箋10枚ほどにも

なる長い手紙よこしてきてさ、その女と運命的な出逢いをしたと、切々と書いてあった。

よく云うよ。あたしと結婚するとき、いったいなんて云ったと思う。そんなもんじゃなか

ったよ」

「あんたも未練があるのか?」

「あたしは未練はないよ。ただあの人のことは、あたしが一番よく知ってる。それだけは

自信ある。あの人の面倒はあたしが看てやらなきゃ誰も看る人はいないと思ってる。きっ

と飽きがくる。あの人長続きのする人じゃないから・・・あの人が女の人を裏切るか、そ

の逆か、それはどっちももどっち、同じことだけどさ、結末は見えてるさ。世の中、馴れ

合いの中でやっていける男女とそうでない男女がいるものさ」

「辛抱強いねえ、女の人は・・・愛してるわけだ」

「そうとは云えない。むしろ、いやらしさかもしれない。でないと、身が持たないよ」

「ところで、子どもさんはいないの?」

 そう云うと、急に女の顔が曇った。吸いかけのたばこを指先で押さえつけながら力ごと

揉み消した。アルミ製の底の軽い灰皿がカタコト鳴った。

「幼稚園に通う娘がいてさ、その子に親の職業がちゃんと云えないんだよ。レストランで

働いてるって云ってあるけど、どこのレストランかって聞くようになってさ。いつまで隠

し通せるものか、それを考えるとね・・・」

「この仕事から足を洗えばいいじゃないか」

「そうは云ってもねえ・・・長年この稼ぎに体も心も染みてしまってるからねえ・・・と

きどき、自分の鈍感さにうんざりすることがあるよ。仕事と思えば、何でもなくなってし

まったんだよ。一晩に何人男を受け入れても同じことに思えてさあ・・・まったく、自分

にも飽きがきてしまったんじゃないかと思うことがあるよ」

「女の裏側にあまり立ち入ったこともないが、辛抱強いねえ・・・娘さんいいひとだろう。

あんたの話聞いてたらそう思えてくる。娘さんのためにも隠し通せるところまで頑張って

隠し通せなくなったところですっぱりこの仕事やめることだよ。今すぐにはできなくても

猶予があればできるだろう」

「うれしいこと云ってくれるねえ、あんたも・・・」

 娘の顔がちらついているのかもしれなかった。薄暗がりの中で女の涙ぐむ気配が感じら

れた。名も知らぬ見ず知らずの女と二人こうしてひとつ布団の中にくるまり、しかも裸に

なってたばこを何本も燻らしながら身の上話をしているのだが、そこに奇妙な信頼関係が

芽生えていた。女と共犯して完全犯罪でも目論むのに似た心理に近いのかもしれない。

「あんたも、そう変な意地ばかり張らずに、もう一度その女の人と会ってみたらどうさ。

あたしがその女の人だったらきっと待ってると思うよ。あんたもその人が好きだったら、

もう色恋はできなくても違う道はあると思うよ。何も別れることはないよ」

 部屋の外から、コンコンとせわしげにドアをノックする音が聞こえた。時間だから部屋

を空けろとの督促にちがいない。女ははっと我に返ったように跳ね起きた。

「ごめん、時間だった。忘れてた。急いで!」

 たばこを揉み消し、慌てて服を着た。女の方は手慣れたもので着替えも早かった。先に

廊下に出て、私の出て来るのを待っていた。

 「ありがとう、じゃあね」と、女が最後に云った。白色の蛍光灯の下で、はじめて女の

顔をまともに見た。そしてはっとした。どことなく、その女が別れた女に似て見えたこと

が不思議でならなかった。凛とした顔立ちに胸が締め付けられた。

 外の風はまだ冷たかった。原色の目映いネオンが長々と続く路地を大通りに向けて歩い

た。まだそれらしき顔付きをしていたのかもしれない。途中でまた呼び止められた。

「おにいさん、おにいさん。若い娘がいるよ。寄ってかない?」

「ありがとう。さっきもうすませてきたよ」

 ふんとでも云いたげに女はすぐに顔を背けると、私の後ろを歩く男に近づいて行った。

歩きながら、たばこの吸い殻が気になった。私と女とで吸ったたばこで、さして大きくも

ない灰皿はいっぱいになった。せわしげに入れ替わったあの部屋に次の男がやってきて、

あの灰皿を見たらどう思うだろう。それを想像すると、笑いが込み上げてきて、私は一人

ほくそ笑んだ。冷たい風がやけに肌に心地よかった。