まつぼっくり
            瀬本明羅
 「お清、松の実を食べると体に精がつく。お前も食べなさい。最近、何か元気がない」  秋も深まったある日、旦那さまが私に仰いました。自分の家の小庭にあるまつぼっくり しか考えつかなかったので、私はヤニくさい小さい実、しかも羽が生えて飛んでゆく実の ことを仰っているのだと思い込み、旦那さま、食べられるのですか、と聞き返しました。  すると、表座敷の茶箪笥の中から小さい壷を取り出してきて蓋を開け、これだよ、と私 の目の前に近づけなさいました。玄米より一回り大きい木の実がぎっしり詰まっていまし た。旦那さまはにこりと微笑んで、さあ、と私に勧めなさいますので、私は一粒つまんで 掌に乗せ、しばらくためらっていました。さあ、さあ、と旦那さまはまた私に勧めなさい ました。怖々私が口の中に入れると、旦那さまはまた満足げに微笑まれました。前歯で二 つに割り、続いて奥歯で噛み砕くと、やはり、仄かなヤニの匂いがしました。それから、 じわっとしつこくない甘味が口中に広がりました。私も微笑むと、旦那さまは今度は、美 味しいかい、とお尋ねになりました。私は、ええ、初めての味です、と答えました。  「お清、これは、中国から取り寄せた松の実だよ。もう、かれこれ、二十年も食べてい る」  旦那さまは、だから、六十路半ばになっても病気一つしたことがない、と付け加えて仰 いました。江戸時代から続いている呉服商の仕事はもうとっくの昔に若旦那に任せておら れましたから、ご隠居の生活は私の目には安穏な日々に映りました。しかし、時々落ち着 かなくしておられることもありました。それはどうしてなのか。私の知るところではあり ませんでした。私は勧められるままに松の実をほつりほつりと食べていました。そのうち に、外は秋の夕暮れが迫っていて硝子障子越しに寂しげな光が差していました。  「お清、今夜は泊まってくれないか。お前に話したいことがある」  私は、久しぶりのその言葉に戸惑いました。しかし、話したいこと、とは何だろうとふ と思いました。  「……話したいこととは、……旦那さま、何でございましょう。お亡くなりになりまし た奥さまのことと、もしや、関わりのあることでは……」  少しも思い詰めたところがありませんので、亡くなったお方のことを言い出した私は、 後悔していました。旦那さまの眼を見つめていると、さもしいところもないようで、ただ 虚ろとしか言いようのないお顔でした。話したいこと。そう言えば、私にも話したいこと がありました。私は、気づいていたのです。私のお腹の中のことです。旦那さまの子ども が……。今夜はそのことをお話するよい機会かもしれない、と思いました。  「……話したいこともあるし、してやりたいこともある」  「……私に何を……」。私は、旦那さまが今更何を、といよいよ詮索したくなりました。 ところが、その気持ちを見抜いているように、素早く仰いました。  「お前の部屋の手鏡だよ、お清。もう大分長い間、磨いてないね。器量良しがそんなこ とではいけないよ」  えっ鏡、と思わず口にしそうになりました。しかし、ぐっと言葉を呑み込みました。そ う言えば、蒔絵の化粧箱にしまってはいましたが、手鏡の曇は気になっていたものの、長 らくそのままにしておいたのでした。それをよくご存知の旦那さまは、何度か出して見て おいででしたのでしょうか。私は特に不愉快な気持ちにはなりませんでした、いつもの潔 癖症の所為だと思うことにしました。  「いやね、ちかごろお前の口許に心なし精気が感じられないから、自然と思ったことな んだよ」  気にしないでくれ、と付け加えて仰った旦那さまの顔には、はにかみが見られ、心に浮 かんだままを仰っているように思えました。それにしても、あの化粧箱は、亡くなった奥 さまの形見。舶来の手鏡も、櫛も、笄(こうがい)も。そっくりお前にやるから、気に入 ったら使っておくれ、とどんと私の前に持ってこられた時、奥さんとの過去を断ち切るた めの決意のようにも思えましたが……。私は躊躇しましたが、その箱を、結局使わせてい ただくことにしました。  身の回りのお世話は殊更厳しい仕事ではありません。食事はすべて台所方の皆さんがや ってくれていますし、ただ私はお傍に居てお茶を淹れたり、布団を敷いたり、お召しかえ を手伝ったりの毎日でした。夜になると、私には六歳と三歳の子どもがいますので、姑に 世話ばかり掛けてはいけませんから、暗くならないうちに帰らせていただいていました。 ところが、稀に、泊まってくれと頼まれ、月に何度か泊まることがありました。亭主はど こに行ったか、皆目分かりません。そのことを私自身への口実にして、旦那さまに請われ るまま夜伽をしました。これもお勤めだと思うようにしていました。そんな夜は、家には、 お玉さんが手土産を持って断りに行ってくれました。……しかし、明くる朝になると、最 初のうちはそれでも亡くなった奥さまや子どもたちのことを思ったりして、重苦しい気持 ちになりました。奥さまが生前私に仰っていたとおりになりつつあったからでした。  「……お恥ずかしいことです。そこまでお気づきでしたか」  私は、それ以上何も申し上げることができませんでした。  「だから、今夜は、鏡と櫛と、それから、いろいろと私に掃除をさせておくれ」  「もったいないことでございます。それでは、私は帰らせていただいても……」  私が申しますと、いや、お前にいてほしいのだ、と仰いました。  「そうでございますか。それではお言葉どおり……」  そう言いながら、ふと不安が過ぎりました。実は、その化粧箱の底が二重になっていて 底の底には、奥さまの懐剣が隠されていたのです。私がそれに気づいたのは、一年前です。 きっちりとしていた底に、少しばかりの隙間が出来、何か布のようなものが見えました。 鋏の先でこじ開けてみますと、美しい袋に包まれた刀が出てきました。抜いてみますと、 少しばかり曇っているものの、冷たい光を放っていました。……もしや……。私は、旦那 さまがそれに気づいていなさるのでは……、と思い始めました。そうだとしても、旦那さ まは、その懐剣をどうなさるお積りなのか、私には想像もつきませんでした。それが奥さ まの守り刀だと知っているのは、旦那さまと私とお玉さんだけです。この老舗に奉公に上 がった当初、新参者の私に、女の使用人はすべて辛く当たりました。身に覚えのない言い 掛かりをつけられたり、汚い仕事は全部私に回されたりで、本当に気の休まる暇もありま せんでした。おまけに、奥さまは、私に優しくして下さる旦那さまの振る舞いを毎日のよ うにご覧になっていて、激しく嫉妬されているようでした。時々私をお部屋に呼びつけら れ、お前が来てからこの家の女たちの働きぶりが悪くなった、それも、お前が旦那さまに 可愛がられていることが原因だ、だから、別の支店に行って貰ってもいいんだよ、と強い 語調で罵られ、仕舞いには奥さまは懐に手を入れ、お前がここから出て行かなければ、私 にも相当の覚悟がありますよ、と鋭く睨みつけなさいました。懐に短刀を隠し持っておら れる。その時私は恐ろしさから、体が金縛りに遭ったようになりました。その後で、旦那 さまにも呼ばれ、とにかく辛抱してくれ、志乃には私がきちんと謝っておいたから、と言 われました。旦那さまに刀のことを申し上げますと、あれは、志乃がいつの間にか古道具 屋で買い求めたもので、私も実はしばらくしてから分かった、と仰いました。  奥さんはそれからというもの、私のことを隈なく観察なさっていて、私は恐れを我慢で きなくなっていました。  「お清、お前は、私の代わりにこの家に納まろうってのかい。先刻お見通しだよ。そん なことさせるものかい」  そう言って、繰り返し私に迫ってきて、しまいには泣き出し、辺りのものを投げつけた りなさるのでした。声を聞きつけて、旦那さまが駆け込んで来られ、おい、志乃、いい加 減にしろ、どうすれば気が済むんだ、と仰ると、奥さまは、追い出してよ、この小娘、と 叫ぶように仰るので、もうどうにも手が付けられない状態でした。私の心はどうか、と省 みてみますと、奥さまが仰る企てなど微塵もないという潔白さがやはり厳としてありまし た。だから、旦那さまのお心にすがって奉公を続けることが出来たのです。  それから数年経ちました。奥さまは次第に顔色が悪くなり、秋の陽が西の空に滑り落ち るように命が危なくなりました。床についてしまわれた奥さまは、ある日、私に仰いまし た。  「お清、あの懐刀を持っておいで」  「何になさるのですか」  「お前が、私のとどめを刺してくれないと、私は死ねないよ」  青ざめた顔で眼だけは鋭く輝かせてそう仰いました。その言葉は今でも忘れることがで きません。  「奥さま、そんなに私を憎んでおられるのなら、懐刀を持って参ります。奥さま、貴女 が私を刺してくださいませ。お願いでございます」  「お前がそういう覚悟なら……」  奥さまが起き上がろうとなさるので、看病していたお玉さんが止めに入りました。私は、 何時の間にか、奥さまを追い詰めた張本人になっていたのでした。奥さまが息を引き取ら れたのは、それから間もなくのことでした。  懐刀はどうなったか。日が経つにつれ、旦那さまにも私にも、探そうという気力が失せ ていました。  その日も、いつものとおりお玉さんが私の家まで使いに立ちました。私は、風呂から上 がり、家に居る時よりもずっと早い夕食の膳につきました。旦那さまのご飯をよそって差 し上げると、いつものとおり、にこりともせず受け取って、ゆっくりと食べ始め、ときた ま咳払いをなさいました。私は、旦那さまが食べ終わるのをいつものとおりじっと待って いますと、不意に私を横目でご覧になり、お前も一緒にお食べ、と仰いました。お世話を するのが私のお役目でございますから、と申しますと、今夜は特別だから、と仰いました。  「特別と仰いますと……」と私はすかさず尋ねました。  「いや……、何となくそんな気がしただけだ」  旦那さまはちらとまた私をご覧になり、小さい咳をなさいました。  下座の私は、その「特別」という言葉に突き動かされて、食事を共にすることにいたし ました。食べ終わると、片付けをし、床を並べて敷き、その化粧箱を持ち出して、姿を整 えました。  手提げ行灯に火を灯し、その灯かりに照らされながら床に滑り込みました。ところが、 旦那さまは、入ろうとなさいませんでした。じっと光の中で私の顔を見つめておられたの です。  「お清、お前は、いくつになっても綺麗だ」  「いや、旦那さま、歳は争えません」  旦那さまは、思い出したように立ち上がって化粧箱を持って来られ、灯かりの下で開き なさいました。  「鏡、櫛……みんな綺麗にして上げるからね。……志乃のこと、お清は決して忘れてい ないだろうね。悪い女だったね。恨んでいるだろうね。……しかし、お清、ほんとに悪い のは私だよ。そのことを……、ちゃんと言いたかった。お前に……、それから、志乃にも」  私は、起き上がりました。ちゃんと旦那さまと向かい合って、言葉をすべて漏らさず聞 きたかったのです。  旦那さまは、古い布を懐から出して、鏡を丁寧に磨き始めなさいました。その手を見つ めていると、昔、こうして奥さまが磨いておられた姿が蘇ってきました。そして、思いも しなかった言葉が口を突いて出てきそうになりました。いやいや、旦那さま、一番悪いの は、他でもない私です、奉公を止めてしまえば、こんなことにならなくてもよかった……、 それに子どもまで……。  「旦那さま……」と私は、ほんとうに話しかけました。  「おやおや、この曇はもう取れなくなっている」  旦那さまには、聞こえなかったようでした。外は風が吹いていました。  それから、しばらく磨いておられたその手が、ぴたりと止まってしまいました。  「ああ、思い出した。あの刀、どこへ隠れてしまったのかね。今も志乃を守っているだ ろうかね」。その言葉は、独り言のようにも聞こえ、私は返事を躊躇っていました。  私は急に頭に血が上ってきて、混乱し始めました。旦那さまが、底を開いて、刀を取り 出しそうに思えたのでした。旦那さまのその日のご様子からしますと、刀を手にして何を 真っ先になさるのか、私には不思議と想像できました。その刀は、先ず私の胸を貫き、続 いて、旦那さまの喉笛を欠き切ってしまうでしょう。そうとしか、私には思えない雰囲気 でした。「特別」な日、という意味には恐ろしい覚悟が秘められているという直感があり ました。私の過去のすべての罪障が襲い掛かり、死という償いを求めているような気持ち で、私も最後の覚悟をしていました。  「それからね。お前の連れ合いは、今どこで何をしているだろうかね。済まないことを してしまったね。私が仲を断ち切ってしまった……」  突然のことで、一層混乱しそうになりました。私の罪は限りなく湧き上がってくるよう な気がして眩暈を催し、旦那さまの顔が、遠のいたり、また近づいたりしました。  「旦那さま、私にお話しいただいたことはよく分かりました。もう、それでお仕舞いに していただけませんでしょうか」と、私は咄嗟に懇願しました。すると、「ああ、そうだ ったね。どうぼやいても、もう取り返しがつかないことばかりだからね」と仰って、また 鏡を磨こうとなさいました。私は、鏡を強く引っ張って取り、畳に置きました。すると、 驚いたような顔で私をご覧になります。私は、続いて旦那さまの両手を握りしめ、私の布 団まで力いっぱい引いて行こうとしました。旦那さまは、急に我に返ったような顔になり、 促されるまま私の布団の中に入り込んで、私を強く抱きしめなさいました。私は、先程の 妄念を振り切る思いで、旦那さまに身を預けていました。  それから、しばらく経つと、旦那さまは、私の横で軽いいびきをたてて寝入りなさいま した。私は、旦那さまと私の着物を直しながら、また、刀のことを思いました。  隠しておこう。そう思い立って、化粧箱のところへ行き、中のものを取り出し、底を開 いてみました。すると、底には何も入っていません。私は、目を疑いました。もしや、旦 那さまがどこかへお隠しになったのでは、と思いました。  私は、気づかれないように布団から抜け出しました。そして、違い棚の地袋や天袋、そ れから机の引き出し、文箱などを探しましたが、どこにもありませんでした。ううっ、と いう旦那さまの声がしましたので、私は慌てて旦那さまの布団の中に潜り込みました。す ると疲れがどっと襲ってきて、いつしか私も寝入ってしまいました。  ……暗い暗いところを私はさ迷っていました。そして、やっと我が家に辿り着きました。 戸を開けても、誰もいません。子どもたちは、お義母さんは、どこに行ってしまったので しょう。仕方がないので、私は、一人布団を敷き寝ました。旦那さまの家で寝るのとは違 い、久しぶりに伸び伸びとした気分になりました。でも、私の体は子どものように小さく なっています。屋根もトタンで覆ってあり、天井がなく、風の音が響いています。しばら く私は寝入っていました。すると、コトンという音がしました。少し経つとまた、コトン という音がしました。何だろう。確かめようと私は外へ出ました。暗かった空から月が顔 を出しました。地面を見ると、幾つものまつぼっくりが落ちていました。拾おうとすると、 聞き覚えのある声がしました。振り返ると、行方が分からなくなった佐市が私を見下ろし ていました。お前は、どうして私を裏切ったんだ、あんな、じじいといい仲になりやがっ て、と私を厳しく責め立てます。何とでも言ってください、仕事もろくにしなかった癖に、 暮らしていけたのは、あなたが憎んでいる旦那さまのお陰だよ、そりゃ、私は罪を犯した 極悪人だわ、でも、子どものことはいつも考えていた。善人ぶるなよ、その子どもが、何 の金で養って貰っていたか分かったとき、お前をどう思うかだ、胸が痛まないのか、そう だ、俺の子どもとは限らないしな。私が足に取りすがろうとすると、すっと、佐市の姿は 消えました。また、まつぼっくりが一つ落ちてきました。……まつぼっくり。ああ、そう だ。私は急に旦那さまがどうなったか不安になりました。お店に帰らなくては、早く帰ら なくては。小さくなった体では、気が急くだけで足がはかどりません。私は走り続けて、 息が苦しくなりました。  夢を見ていたのでした。ひどい汗をかいていました。旦那さまは……、と思い隣の布団 を見ると、誰もいません。私は縁側に出ました。  ……ああ、旦那さまがこんなところに。出てみると、うつ伏せになって倒れていらっし ゃいました。力を込めておこそうとしますと、血糊がべっとり手に着きました。ああ、旦 那さま。そう叫んで、右手を見ると、あの見えなかった刀を固く握り締めていらっしゃっ たのです。  「お玉さん。お玉さん」。私は必死で夜中の廊下を走って行きました。旦那さまを殺し てしまったのは私だ。それから、奥さまも……。走りながら、そういう思いが胸を激しく 締め付けました。お玉さんの部屋の近くまで行くと急に腹が痛みだし、粘液のようなもの を吐き出しました。そして、私は前のめりにどっと倒れてしまいました。気が遠くなって いく私の意識の中に、お玉さんの声が微かに聞こえてきました。        (了)