『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社・松本侑子著)が新田次郎文学賞を受賞!! 瀬本あきら
「新田次郎文学賞(にったじろうぶんがくしょう)は財団法人新田次郎記念会が主催する 文学賞である。前年に発表された、歴史、現代にわたり、ノンフィクション文学、または 自然界を材に取った作品(形式にはこだわらず)に対し、年一回発表されている。受賞は 選考委員の合議によって決定され、受賞者には正賞として気圧計、副賞として100万円 (2004年現在)が授与される。」(Wiki)                    今回受賞された賞の概要は上の説明で過不足なく説明されている。過年度の受賞者の名前 を調べると錚々たる顔ぶれで驚かされる。標記の作品も歴史に残る作品として正当に評価 された訳で、洵に喜ばしい限りである。                       この作品は一言で言うと、昭和23年、太宰治と入水した山崎富栄(文中敬称は略させてい ただきました)の生涯を小説風に書いた評伝である。この作品の内容を象徴的に表してい るのが、表紙の写真だと私はひそかに考えている。私は光文社の文芸雑誌『小説宝石』に 連載中からずっと関心を持って読んでいた。「酒場の女」などと書かれて歪められた富栄 像を人間性の回復という視点からしっかりと好意的に見つめ、冷静に実像に迫っている作 品である。                                    写真は作者が発掘した未発表のものである。島田髷にきりっと結い、凛とした顔立ちから 意志の強さを感じさせる。前作で触れたので、経歴は繰り返さないが、父親の期待を一身 に背負って逞しく生きてきた知性と情熱をもった女性像である。それが作家太宰治という 人物と出会うことによって、自ら暗い運命のもとに生きていくことになる。そして、二人  は死へと傾斜していく。その背景には戦争という悲惨な出来事があったことを私は知った。 太宰は空襲であちこち逃げ回り、富栄も結婚した奥名修一という三井物産のエリート社員 を、現地召集されたフィリピンのルソン島で失っている。しかも、父親山崎晴弘も再興し た美容学校を何度も戦火で失い、軍国主義の犠牲者でもあった。            そういう中で、山崎富栄は『人間失格』、『斜陽』、『桜桃』といった太宰作品を書く手 助けをしている。一連の傑作は富栄が結核に苦しむ太宰を見守る中で書かれたものである が、彼女が太宰文学に果たした役割はあまり知られていない。              娘の死後の父親晴弘の悲嘆には計り知れないものがあったに違いない。作者は「あとがき」 で述べている。「本書は、富栄の小説ではあるが、書き終えた今、本当の主人公は、(中 略)軍国主義と戦争にまきこまれ、一切を失った父晴弘だったかもしれない、とも感じて いる」。                                     二人の死後、富栄が太宰を毒殺したとか、絞殺したとかいうことをかつての太宰の身辺に いた人物が言い始めた。そんな噂の中でもひたすら沈黙を守った晴弘は、「人殺しの親」 として世間からの冷たい視線に耐えなければならなかった。              筆者は検死に立ち会った編集者に直に会ったりして、毒殺も絞殺も事実無根であることを 確かめている。そのことによって、富栄の名誉回復の実現を果敢に試み、成功している。 なぜ真実が曲解されて後世に伝わっていったのかという最大の問題点にも、きちんと答え ている。                                     また、作者の筆は、太宰の妻美知子や愛人の太田静子の苦悩や窮状にも丹念に目配りをし ている。そして、太宰への視線も温かい。死ぬことをいつも考えていた苦悩の深淵をきめ 細かい考察によって解説し、読者をも苦悩の淵に立たせることにも成功している。ともす れば太宰を尋常ではない人間として見る一般的な見方があるが、そういう読者の偏見を和 らげる努力もしている。                              因みに太宰の妻石原美知子は、石原初太郎・くらの四女として島根県那賀郡浜田町(現在 の浜田市)で生まれている。父の初太郎は山梨県出身の地質学者で、当時島根県の中学校 で校長を務めていた。短編『葉桜と魔笛』は島根を舞台に書かれている。美知子は良妻賢 母型の女性として太宰を支えた。                             すばる文学賞選考委員日野啓三は受賞作「巨食症の明けない夜明け」に対する評言の中で、  作者への提言をしている。それは、作品を「ドラマチックないしスリリングに作っていく」 ことの大切さだった。この作品の随所に「ドラマチック」で「スリリング」な場面構成と 叙述がなされていたので、私は日野啓三のこの作品への感想を聞きたくなった。というこ とは、私自身はそういう面でもこの作品は相当の工夫がなされていると思ったのである。 題名の「恋の蛍」に関連した場面が第六章で出てくる。二人で玉川上水で過ごした夏の夜 に、二人の周りを蛍が飛び交っている。この情景は、「フォスフォレッセンス」(「燐光 を発する」という意味の英語であり、実在しない花の名前である)という太宰の作品とも 関わっていると考えられる。フィリピンで戦死した奥名修一を含めた夥しい兵士の遺骨は 朽ち果てて燐光を発し、愛しい家族の訪れをひたすら待っている。玉川上水の蛍の飛び交 う情景と異国の山野で燐光を発する遺骨とが、期せずしてつながっているように思えてな らない。                                     『太宰治と聖書』(1998年、新潮社)という研究書がある。太宰のところへ足しげく通っ た新潮社の編集スタッフ野原一夫の著作である。私はこの文章を読んで初めて太宰と聖書 との関係を知った。「桜桃」の副題に「われ、山に向かひて、目を挙ぐ」という旧約聖書 の詩篇第121「都に上ぼる歌」の冒頭部が出てくるが、野原は、その山の向こうに、太 宰は確かに絶対的な神の姿を見ていたと言っている。また、「桜桃」には「涙の谷」とい う言葉が出てくるが、これは旧約聖書の詩篇第84に出てくる。どうして死を強く意識して いる太宰の作品に聖書の言葉が出てくるのか。恐らく死後の救済と滅罪の祈りを込めたに 違いないと私は一人合点している。                         この評伝小説は、表紙の写真の存在感とともに末永く語り継がれていくと思う。今回の受 賞に対し衷心より祝意を申し述べます。                   (了)