松本侑子著『神と語って夢ならず』を読んで

                              瀬本あきら

次の@〜Cは主として『Wikipedia』の記述による幕末から明治初期の隠岐の歴史的事項 のまとめである。 @ 島後の西郷港は18世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになった。これは   隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためである。   西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もあった。 A 隠岐国住民達は尊王攘夷志向が強かった。特に尊王志向の強い十津川では「文武館」 (現、奈良県立十津川高等学校)という学校が儒者中沼了三により設立されていた。 これを知った中沼の弟子の中西毅男は同名の学校設立の嘆願書を同士73名の連署を得て、 新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが取り下げられた。慶応4年(1868年)2月、 神官・庄屋ら島民有志が徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、本州上陸後、長 州藩の取り調べを受け王政復古がなったことを知り退却した。また、山陰道鎮撫使総監   西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封した ことが露見する。 これらを受けて3月15日、島後の庄屋職の会合が郡代追放でまとまる と島前の庄屋らにも参加を求めた。 B そして3月19日早朝島後・島前の住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を急襲し、山郡は隠 岐から追放され、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始した。 4月1日、中西毅男は明治政府から隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けよう と京都へ向かったが、思うような回答がないまま時が過ぎた。 C 閏4月27日、太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩主松平定安が派遣した兵が隠岐に 上陸、松江藩兵が陣屋を奪還したが、島民側に同情的な薩摩藩、長州藩、鳥取藩が仲介し 5月16日に松江藩兵は撤退し、島民による自治が一時復活したものの、明治元年11月に鳥取 藩の管理下に置かれることとなり自治は事実上終了し、翌年2月に民兵組織も解体された。 明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。 以下もその資料を援用しながら拙い感想をまとめたいのだが、如何せん、私が述べたいこ とはもう既に諸家がさまざまなメディアで述べ尽くしている。遅きに失した私は今までこ のことを考え、手が出せないでいたのである。だから、私は隠岐と私個人との関わりを述 べていくしかないと開き直ったのである。 私は隠岐に一度だけ行ったことがある。昭和30年代のころだったと思う。 県庁の隠岐支庁に従兄が勤務していて、夏休みに、隠岐に来ないかと誘いを受けた。そこ で、その従兄の弟と私は隠岐丸に乗って出かけた。 ところが運悪く台風が接近しつつあったのである。不思議と欠航しなかったので、二人は 乗船した。二等の切符を買って乗ったのだが、初めてなのでみんながぞろぞろ入る船底の 客室に入ったのである。そこには一部畳が敷いてはあったが、その他には金属の洗面器が あちこちに置いてあるだけだった。おかしいとは思ったが、二人はそのまま畳の上で横に なった。 まもなく船体が上下、左右に激しく揺れた。船に弱い私は吐き気を催してきた。そこでや っと洗面器が置いてある意味が分かった。しかし、その洗面器も船体が揺れるたびに、ガ ラガラと音を立ててあちこち動く。とうとう私は我慢できなくなって甲板に出た。激しい 風が体を押し倒すように吹き付けてきた。その時、カラカラという音が船尾から聞こえて きた。スクリューが空回りする音だった。 我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け 後鳥羽院の歌を恨めしく思っているうちにやっとのことで船が西郷港に着いた。私は助か ったと思い、うれし涙がこぼれてきた。従兄の宿に着いてから私がそのことを言うと、そ んなことで愚痴を言うなら今から帰れと怒鳴られた。台風のコースは運良く島から次第に 遠ざかった。 翌日から3日間従兄の案内で観光した。定期のバスが走ってはいたが、そのバスが旧型で 映画を見ているような感じがした。一番印象に残っているのは、駅鈴だった。写真では見 ていたが本物を見るのは初めてだったし、係りの女性が鈴を振って音を聞かせてくれたか らである。澄んだすばらしい音色だった。オキサンショウウオも大満寺山の滝から流れ出 る谷川で初めて見た。小さくてかわいい顔をしていた。当時も保護動物だったと思うが、 不思議なことに捕まえて牛乳瓶の中に入れて持ち帰る人がいた。風蘭やオキシャクナゲも 初めて見た。もちろん、玉若酢神社、水若酢命神社も参詣した。最後の日、西郷湾で泳い だ。隠岐丸が船出する日、陸から島の人が紙テープを投げてくれ、それを何本も掴んで別 れを惜しんだ。それ以後、私は、隠岐は人情味のある観光地だと思った。また反面、辺鄙 な離島だという印象を強くしていた。 その後、飛行機や高速船が通うようになって非常に便利になった。また、最近になって、 関取隠岐の海の活躍、映画『渾身』の上映、竹島問題など隠岐についてのホットな情報が もたらされるようになり、多少は私のイメージは変わりつつあった。 そしてこの度、松本さんの著書を拝読して私の中では島根に於ける隠岐の位置づけが大き く変わっていったのである。 私には歴史的な視点が本土の出雲にあって、雲藩を中心に島根の歴史を考えてきた。実は もっと劇的な歴史的展開を繰り広げるのは隠岐だったのである。 地理的な立場から考えて、離島は経済面でも文化面でも遅れてしまうのではないかと想像 してしまう。しかし、幕末の隠岐島は決して遅れてはいなかったのである。後鳥羽上皇、 後醍醐天皇の配流まで遡らなくても、当時、都で天皇の教育に携わる程の有名人、中沼了 三を出しており、上記@でまとめたように北前船の航路にあたっていることと相俟って、 島内は経済的な賑わいも見られ、庄屋、神職など、知的関心の強い人々も多かった。この 作品の主人公である加茂村の庄屋の息子井上甃介もそうであった。それらが、短期間とは いえ、地方自治政府を作る背景となっていたのではないのか。このことについては上記A 〜Cのように歴史的にはまとめられている。しかし、著者は井上甃介という人物を中心に 据え、様々な歴史的人物が躍動する時代小説としてまとめている。立志、成功、挫折。そ の経緯が早いテンポで語られている。正直、私はこの作品を読むまで中沼了三とか井上甃 介という人物を知らなかった。それを掘り起して、フィクションを交えて歴史ドラマをま とめ上げた著者の力量と情報取集力に深甚の賛辞を捧げたい。   今、出雲大社平成の大遷宮で出雲市とその周辺はまことに賑やかである。古事記1300年と いうキャンペーンでも出雲が注目された。このような情勢の中で隠岐に着目し、日本の歴 史に隠岐から新しい光をあてようとした著者の努力は歴史的にも文学的にも高く評価され ると思う。私のような昔日の間違ったイメージを抱いている人はぜひこの作品を読んでい ただきたいと思う。日本の歴史を解明するキーワード「出雲」の上に新たに「隠岐」を加 えねばならないと私は思った。   また、『小説宝石』連載時の文章を各所でリライトし、最後に6章分加筆していることも この作品への思い入れの深さを物語っている。全体として編年体で書かれていて読みやす かった。ただ、もっと長い語りになるはずのところを少し急ぎすぎた部分もあった。これ はあくまで個人的な感想である。 (了)