霧のわかれ

河合美知

 息をしている。だが、手が動かない。足も動かない。体中が痛い。頭、顔、胸、背中も。 聞こえる――人の声とざわめき。朦朧とした意識の中で、私は私を確かめようとしていた。  何処にいるのか、何があったのか。重い瞼を幾度も、幾度も開こうと、必死になって動 かす。暗闇の中の微かな明かりがしだいに広がり、影絵のように網膜へ映る。(どこかに 運ばれていくらしい。病院の廊下?)――私でない私が答えている。(しっかりするんだ ……)――ストレッチャーに乗せられている。消毒薬の匂いがする。(すみません。そこ、 空けてください!)――先導するナースの上げるハイテンションの声を遠くに聞きながら、 また眠りの底に落ちていった。  どれくらいの時間が経ったのだろうか。体が震えている。(寒い! 寒いよ〜!)―― 精一杯の力を出して叫んだはずだが、声にならなかった。体が固定されているらしい。動 かない。顔にヒリヒリする痛みがある。顔に包帯が巻かれている。それより全身を襲う寒 気はどうしたのだろう。誰か私の手を握ってくれている。温もりを感じた。しなやかで、 がっちりとしたこの大きな手は誰のだろう。 「気が付かれましたね。――私の車があなたを事故に巻き込んだのです。お許しください」  太い男の声だった。 「ス・ト・ウと言います。とんだ災難をおかけいたしまして申し訳ございません。会社の 若い者に運転させていて、あなたを事故に遭わせたのです」 「……」  狭い視野の先で、ベージュ色のカッターシャツの袖とブルーのストライブのネクタイが 朧げに揺れた。毛布が掛けられる感触があり、首のところで柔らかく止まった。  薄青色の眼鏡レンズの中に厳しく、鋭い目が見えた。六十が近い年齢か。短く刈られた 髪に白髪がのぞく。手の平に温もりが伝わる。  私は片手で支えた文庫本を読みながら、図書館へ続く歩道を歩いていた。そこまでの記 憶しかない。その後、車に撥ねられたらしい。栗本雅樹と図書館横にある喫茶店〜カモミ ール〜で会うことになっていたのだ。何時になっても来ない私をまだ待っている……。市 立福祉センターのメディカルプラザで健康・運動指導士をしている雅樹は、私の恋人だ。 浅黒い皮膚とどっかりした体格、落ち着いた雰囲気がある。そのためか二十五才の年令よ りはるかに年配に見えた。一週間に一回、私が通う北山福祉大学へ講師として来ている。  初夏の蒸し暑い日だった。私は貧血を起こし、運動の時間に倒れた。ちょうど居合わせ た雅樹が介抱してくれたのが交際の始まりで、もう一年も続いている。 (雅樹に知らせたい。そばにいてほしい。でも、こんな私を見て欲しくない。だって、顔 が包帯で巻いてある。きっと凄いことになっているだろう。会えば嫌われるかも……)  全身の痛みに、意識が落ちていく。大きな手を握り返したまま、私は眠ってしまった。  夢の世界にいた。  私は、父と手をつないで歩いている。富士山測候所から久しぶりに降りて来た気象観測 官の父の手は、温かかった。 「こうして歩くのもお嫁に行くまでだな」 「今度、雅樹に会って欲しいんだけど」 「翔子を大切に守ってくれる人なのか?」 「趣味は登山よ。今度、二人で富士山に登るの。訪ねて行ってもいい?」  私は、なぜか母を思いだしていた。 「どうして、母さんと別れたの」 「無人島の南鳥島気象観測所、沖縄の気象台……、転勤が多かった。遠距離恋愛は難しか ったんだ」 「翔子が母さんのお腹にいたこと……知ってた?」 「知らなかった。分かっていたら一緒に暮らしていた。お母さんにはすまないと思ってい る。……どうしている?」 「国際交流の会で知り合った人と一緒に大阪で暮らしているわ。私、二十歳になったから、 もう一人でも大丈夫よ」  ずいぶん眠っていたようだ。いや、眠らされていたかもしれない。起きようとしたが動 けない。右の腕から肘に副木が当てられ、包帯で固定されている。右の足も同じだ。呼吸 をするたびに胸や背中が痛い。チューブが繋がる点滴スタンドの先に、揺れるアイボリー 色のカーテンが見えた。四月の風が舞い込む。 「目が覚めましたか。気分はいかがですか?」 「夢を見ていました。一度も会ったことのないお父さんに会えた夢……」 「一度も……? あ、申し遅れました。私は須藤啓輔といいます」  顔の上にかざされた名刺には、幾つかの肩書きが並んでいる。小さな文字が、男の掌の 中で揺れる。かろうじて東京本社、ストア・マネージャーという文字が見えた。 「出雲にオープンさせるスーパーの開店準備でこちらに来ています。五か月先のこの秋な んです……」 「ずっとここにおられたんですか?」 「気が付かれたのでよかった。仕事があるので今日はこれで帰りますが、これから時々お 見舞いに来ます」  私の手を握り、その人は帰っていった。  スーパー開設事務所の窓から夏の陽にぎらつく工事現場が見える。須藤啓輔が二週間ば かり東京本社に帰っている間に、出雲も夏になっていた。  啓輔の予定表には、金曜日の欄に青い丸がついている。今日は金曜日だった。小島翔子 を見舞う日なのだ。啓輔は、専用車の運転手に電話で(外出する)と伝えた。運転手は、 以前にタクシー会社にいたベテランである。自分の運転ではないにしろ、二度と事故は起 こしたくなかった。事故を起こした若い社員は、北海道支社に転勤させている。事故のこ とを忘れさせるためには、遠いところがいいだろうという配慮だった。 「例の病院へ」  後部座席へ座ると、振り向いた運転手に言った。 「あの娘はその後どんなですか?」 「半月ばかり会っていないが、ずいぶん回復が早くてね、いまはリハビリ中だと思うよ。 顔の整形を勧めたが断った。頬と額の傷跡が少し残るらしい」 「そうですか。でも、熱心に通われますね」  年代が近い運転手は、冷やかすような口調で言った。 「あの娘に会うとね、蓄まっていたストレスがとれるから不思議だ。可愛い娘だし、どう しても面倒をみてやりたくなるんだなあ」 「優しいですね」 「いや、そういうわけでもないが。彼女には、支えている彼がいるんだ。いまあの娘には 彼が必要でね。いいカップルだよ。お母さんがいるとは聞いているが、事故で入院してい ることは知らせていないようだ……」  翔子のケガは、大腿骨の骨折、上腕骨と膝の複雑骨折だった。皮膚に創があり、骨折部 と連絡しているから細菌感染の危険がある。そうなると、治療はかなり難しい。だが、そ れさえ乗り越えれば、治療とリハビリで半年すれば元の体になるはずだ、と啓輔は聞いて いた。  翔子は、窓ガラスを叩く雨音を聞きながら山野草の写真が付いているカレンダーを見て いた。掛けたのは雅樹だった。思い出した雅樹の顔が啓輔のそれになり、また雅樹になっ た。なぜかいつもオーバーラップする。  病室は季節の変化がない。巡り来る四季に喜びを抱き、自然を友達にしていた翔子は、 やりきれなさに苛まれる。気持ちとは裏腹に、時だけは静かに流れていた。季節は夏だっ た。エアコンの効いた病室のベッドから窓の外を見た。昨日と変わらない景色がまた目に 入る。沢山あった医療器具は今はないが、変わらないのは病室という四角な箱である。時 折だが、翔子は自分でもどうしようもないほど憂鬱な気分になった。早く治そうという気 持ちだけが先に走る。思うようにならない苛立ち、このまま病院から出ることができない のではという不安も顔をのぞかせる。その気持ちの落ち込みは、翔子を無口にした。病院 のスタッフが話しかけても、上の空のときがある。 (斐伊川土手にカワラナデシコがもう咲いている。雅樹と一緒にサイクリングコースを走 ってみたい。簸川平野の夏の空に浮かぶ美しい積乱雲。草むらから空に向かって飛び立つ 雲雀。宙返りを見せてくれる燕の親子。紅紫色の花をラセン状につけるネジバナも、川原 に咲いているだろうな――)  そう思ったとき、ドアが開いて啓輔の笑顔がのぞいた。 「東京に社用で帰っていたので来れなかった。どんな?」 「ええ、おかげさまで何とか」 「この絵はお土産。私の友人が絵描きでね、これを見た時、翔子さんが頭に浮かんだんだ」  啓輔が手にしていたのは、出雲平野にも思えるような田園を描いた風景画である。 「わあ、素敵な絵。早く外に出たいなあ」 気分の滅入っていた翔子は、外の空気に触れたいと思った。  半年の間に、二人の間には加害者、被害者というわだかまりは全く無くなっていた。そ れが言葉や態度に現れる。というよりも、その前に啓輔は翔子をひとりの女として見るよ うになっていた。翔子は一度も見たことのない父親と重ねていた。 「車椅子で出てみる? 通り雨で街路樹が濡れて奇麗だよ」 「でも、ひとりではベッドから……」  啓輔は車椅子を引き寄せ、翔子を抱き起こした。Tシャツの下にはブラジャーはない。 そのUネックからピンク色の肌と小さな乳首が見えた。気づいた翔子が(あ、いや!)と 呟き、隠そうとした腕が言葉とは逆に啓輔を引き寄せていた。翔子の小さな唇が開き、ピ ンク色の舌先が白い歯を割っている。啓輔は翔子の顎を上向かせ、その唇を吸った。  栗本雅樹は、北山福祉大学での講義が終わると、生徒を運動場に連れだし、軽いジョギ ングを一緒にした。木陰で汗を拭いていると、走り終えた女子学生が近寄って来た。 「先生、最近、翔子を見舞わないのはなぜ?」  ほとんどの生徒が雅樹と小島翔子のことを知っていた。 「嫌いになったの? 重荷に? 冷たいのね、先生っ」 「そうじゃないが、そんなふうに見えるかい」 「ね、先生、私とデートしませんか。この間、ボーイフレンドと喧嘩しちゃったの。付き 合ってあげてもいいわよぉ!」  それを無視して雅樹は立ち上がると、翔子の入院している病院に急いだ。病室のドアを ノックしたが返事がなかった。もう一度大きく叩いた。応答がない――。ドアノブに手を かけた途端、中に引かれたドアの陰に車椅子の翔子と須藤啓輔が立っていた。  秋の風が吹き始めた。八月も終わりである。 翔子は、リハビリで流れるほどの汗をか いた。平行棒で歩行練習、手すりを使って階段の上り下り、PTによる筋肉トレーニング を繰り返しているうちに、車椅子から松葉杖になった。  翔子の病室は啓輔の配慮で、シャワー室とトイレもついた贅沢な部屋である。リハビリ の後の汗を流すのにも便利だった。体温より低い湯を頭からかける。滑り落ちる水滴の下 に、幾筋も残る縫合の跡がある。見ないようにしているつもりでも、赤い腫れを意識して しまう。  その日もシャワーで汗を流した。洗い髪を拭きながらシャワー室から出ると、目の前に 須藤啓輔がいた。裸に近い体を見られたせいでもないだろうが、翔子は、(この人に私は 抱かれてもいい、抱かれたい)と突然思った。手術の跡を知っている啓輔の前で、裸にな っても恥ずかしくはなかった。いつの頃からか、翔子は啓輔を男として見るようになって いたのだ。 「出雲平野の白い雲を初めて見た時、美しいと思った。手を伸ばせば届きそうだが、届か ない。君を見ると、そんなことを思う」 「私は雲なの」 「そう見える。奇麗だ」  啓輔は、翔子の体を包んでいるバスローブの白い紐を解いた。まだ濡れている翔子の体 が現れる。啓輔は白く細い体を引き寄せた。倒れ込んできた翔子を両手で抱き抱えてベッ ドに運んだ。  胸から腰に動く太くがっちりした大きな手が、時折赤い傷口に触れる。翔子の体が一瞬 固くなった。(もっと強く抱いて)――喘ぐ口で翔子は啓輔の唇を探していた。翔子は体 の奥底まで啓輔を受け入れながら、その重みと匂いを決して忘れない、と思った。  翔子は、午後の回診で大部屋へ替るように担当医に言われた。 「沢山の患者さんが周りにいるといろいろの情報も入るし、若い女の方もいて楽しいこと もあります。そろそろ退院も近いから――」  今朝の啓輔とのことを思い出し、翔子は頬を染めた。 「何処へ行くの?」  運転する啓輔に、翔子は何度も聞いたが、返事はなかった。北山山脈を背景に、赤いア ドバルーンが二つ上がっているのが見えた。  啓輔の車は、国道九号線から左にウインカーを出して大田の街に入った。街を抜けると ほぼ一本道である。道路の左側に現れた青い色の標識板が、無言で三瓶への行き先を告げ ていた。車の右側には整列した稲の切り株を残した長閑な田圃、左には紅葉の終わった林 が続いている。啓輔はなぜか目的地を言わなかったが、翔子は少しも不安がなかった。ゆ るやかな傾斜になり始めた山道は、山の仲間と何度も通ったことがある。翔子はできるな ら、もっと遠くへ行きたいと思った。啓輔と一緒にいる時間が、その分だけ長くなるよう な気がしたからである。 「窓を開けてもかまわない? 風と話がしたいの。いいでしょ?」  甘え声になった。眉間に小さな縦皺のある啓輔の横顔が僅かに頷いたように見えた。何 を考えているのか見当がつかなかったが、それでもよかった。冷たい山からの風が舞い込 み、翔子の紅潮した頬をくすぐる。  三瓶山が穏やかな曲線を見せ始めたとき、それまで黙っていた啓輔が口を開いた。 「退院おめでとう。山が好きだという君を連れて来たかったのだ……」  啓輔の左手が翔子の膝の上に乗った。翔子はその手を傷めた太腿に誘い、しっかりと握 った。 「ありがとう。入院中は我が儘ばかり言ってごめんなさい」  啓輔の手が強く握り返す。 「――迎えに来てもらって嬉しかった」  ある疼きが体中を走ったような気がした。  出雲風土記の国引き神話にも登場する三瓶山は、トロイデ型の優雅な山容を持ち、女性 的で伝説の多い山である。車は西の原から浮布池に向かう。翔子は歌うように話しかけた。 「伝説があるのよ。長者の娘に思いを寄せた大蛇がいてね、若者に姿を変えて池に誘い込 んだの。しばらくして娘の衣が白い線を描くようにして浮かんだんですって。悲しいお話 だわ」  啓輔は、自然木で作られたベンチに翔子と並んで座った。クロマツの林の中から聞こえ る鳥のさえずりが啓輔を和ませた。東京のネオン街では見ることのない柔らかな光、高層 ビル街では味わえない清冽な空気があった。人影もない。啓輔は小さな声を翔子の耳に吹 き込んだ。 「志学で泊まろう……温泉は体にもいいだろうし」  一瞬、翔子の体は硬直したように見えた。その細い体を啓輔は引き寄せた。目を閉じた まま、翔子は赤い花びらにも似た小さな唇を開いた。 宿は木造の鄙びた二階建てだった。  啓輔は、こんなところでいいのかな、というような顔をしたが、翔子は、(昔の湯治場 の雰囲気を残しているようで好きだわ)と部屋に案内してくれる女の人の背中を見ながら 囁いた。  二階の部屋に入ると翔子は、夕陽の差し込み始めた窓を開けた。 「夏の初めや晩秋の朝早くには、墨絵のような朝霧が出るのよ。ね、明日の朝、一緒に霧 の中を散歩したいわ。ねー、いいでしょ?」 「霧には少し季節が早いんじゃないかな。それはともかく、退院したばかりだから、朝は ゆっくり寝て居た方がいい……」  土産物屋やスナックの並ぶ温泉街特有の猥雑さを超えた先に、ちらりと高原の広がりが 見えた。夜の澱を見せ始めた街並は、翔子との夜の時間を啓輔に思わせた。もし翌日、霧 の出る朝ならば、石鹸の泡のような薄衣が翔子の夜の跡を覆ってしまう のではないかと啓輔は思った。   夜が来た――。  怯えたような鳥の鳴き声に、翔子は起こされた。夜は明けたばかりらしく、窓の障子に 微かな明かりがある。乱れた浴衣の衿を合わせて、隣りを見た。昨夜、その上で啓輔に組 み敷かれた布団は、きちんとたたまれ、部屋の隅にある。思わず翔子は顔を赤らめた。( おはよう……)と、翔子は呼んでみた。その言葉に何処からも返事はなかった。  翔子は髪にちらと手をやり、羽織りに両手を通しながら階段を降りた。フロントから声 がかかった。 「おはようございます。あの、お連れ様はお帰りになりましたので、お言付けが――」 「は……」 「何時までおいでになってもかまいません。お連れの方から全部面倒をみるから、と言わ れております。何なりとお申しつけください。もし、お帰りならば大田の駅へ車でお送り しますし……」  女将らしい人からメモを手渡された。何のことなのか翔子は分からなかった。啓輔が既 にここには居ないということだけは確かだ、と翔子は思った。  あわてて開いたメモには、(翔子はまだ若い。目指している立派なソーシャルワーカー になって欲しい。翔子ならそれが出来る。マンションを準備しておいた。幸せに――。私 を追わない方がいい。さよなら)と書かれ、その後に、マンションのアドレスがあった。 翔子は、昨日見た赤いアドバルーンを思い出した。スーパーが開店したのだ、と思った。  メモを羽織りの袖に入れ、翔子は宿の下駄をつっかけると外に出た。霧の海だった。霧 の衣が翔子の体をふわりと包んだ。駐車場に車はなかった。(あなた――)と、翔子は呟 いた。初めて使う言葉だった。霧が晴れたら明るい陽の光が射す日が始まって欲しい、と 翔子は思った。不意に雅樹の顔が浮かんだ。  立ちつくす翔子の横を白い子犬が駆け抜け、霧の中に消えて行った。