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2003.01.02〜2003.02.08

お知らせ 投稿者:村上 馨 投稿日:2003/02/08(Sat) 23:31 No.144 掲示板を移転します。 以後の書き込みは、新コラム(掲示板)の方へお願いします。 こちらは、しばらくおいておきますがいずれ閉鎖します。 よろしくお願いします。 「黄昏れて出遇う」 村上馨 投稿者:橋本恵一 投稿日:2003/02/04(Tue) 00:16 No.139 「黄昏れて出遇う」 死の未来予想図のようなどこか理想のようなものを込めた小説だった。 「男」が主人公だがどうせなら最後まで「男」で通したほうが神秘的で 雪の降るシュールな風景の中でマッチ売りの中年という感じの 男の身に雪が降り積もるイメージが印象に残っていいのではないかとちょっと思った。 この小説は導入部がスムーズに人の心が入ってゆく感じがある。 一杯飲み屋に暖簾を掻き分けて気楽に入ってゆく感じである。 こんな再会があったらいいなという憧れがありうきうきさせるようなものを持っている。 昔愛した女と偶然に出会う、その過程を味わいながら書いたような 架空の出会いをロマンで膨らませて風船にして眺めているような感じがする。 つまり作者は創作によって恋愛を楽しんでいるように思えるのだ。 それは実際の恋愛よりも楽しそうだ。 そのうえ小説の上でも面倒なことはおこらない。 さっぱりした味がある。 -------------------------------------------------------------------------------- Re: 「黄昏れて出遇う」 村上馨 村上 馨 - 2003/02/04(Tue) 02:48 No.141 自分の書いたものを人にどう読まれるのかということは、常に気になるところです。 橋本さんの読みには、いつもはらはらどきどきとさせられます。 そしてそれは、自己への客観的視線のものさしとして、指針となり参考となるものです。 ありがとうございました。 -------------------------------------------------------------------------------- Re: 「黄昏れて出遇う」 村上馨 瀬本明羅 - 2003/02/05(Wed) 19:33 No.143 もう橋本さんが丁寧にまとめられたので、これ以上言うことはありません。 村上氏は、掌編の分野でも、いい世界を掴んでおられると思いました。シリーズ化してほしいと思います。 「絵の中の竹籠」  瀬本明羅 投稿者:橋本恵一 投稿日:2003/02/04(Tue) 00:15 No.138 「絵の中の竹籠」  瀬本明羅 なんとなくミステリーを読んだような気持ちになる。 またはつげ義春の漫画「李さん一家」の「実はまだ2階にいるのです」という なんともいえないすっとぼけているようないないようなただ 「小倉遊亀氏の御遺族には、未だに何も連絡していない。」という事実を正直に書いてるだけなのに この小説の最後のこのフレーズはなんと言っていいのかわからない面白い味わいがある。 それというのもそのフレーズにいたるまでにこの主人公は興奮したり慌てたり泣いたり いろいろ感情の波を発生させているのだ。 そして謎が解けた途端疲れてしまった人のようにぺたんとしゃがみこみ その収穫を自分だけで噛み締め喜んでいる。 思えば竹籠という単なる物質などどうでもよかったのである。 自分を思い出させてくれるものであれば。 時として人は記憶を喚起させてくれるものが意外な対象にあることを発見する。 その竹籠を編んでいる光景、それを眺めている自分、そのころ暮らしていた町、 自分の住んでいた家、家の中のお母さん、父、いやはやまったく連想は果てしくなく広がっている。 そんな広がりをこの小説に見る。 僕はまったく上手いなあと思ったのだった。 -------------------------------------------------------------------------------- Re: 「絵の中の竹籠」  瀬本明羅 村上 馨 - 2003/02/04(Tue) 02:33 No.140 うんうん、なるほどという感じです。 その竹籠を編んでいる光景、それを眺めている自分、そのころ暮らしていた町、 自分の住んでいた家、家の中のお母さん、父、いやはやまったく連想は果てしくなく広がっている。 そんな広がりをこの小説に見る。 これはどきっとする捉え方ですね。 考えてもいなかったことであるのに、言われてみるとはっとする。 そして、読む前の自分以上に自分を納得する。 おやっと思ったのはこういうところにあったのかなあと考えさせられました。 受容したものの意味をはっきりと形にして再認識できる、 これができるということは素晴らしいことです。 -------------------------------------------------------------------------------- Re: 「絵の中の竹籠」  瀬本明羅 瀬本明羅 - 2003/02/05(Wed) 06:45 No.142 橋本さんの批評文を読んでいると、なんだか貴方が当時私の傍にいたような錯覚を覚えます。 近所の子どもの中に橋本という友達がいたような気がしているのです。 それほど私の深層を読み取っておられるということ。これは、書いたものにとって至上の喜びです。 反面、その鋭敏な感性に畏怖の念を抱きます。 時として人は記憶を喚起させてくれるものが意外な対象にあることを発見する。 そうですね。「竹篭」は、たまたま「竹篭」だったにすぎません。 あるちっぽけな物が、過去の時と場面・状況を即座にそのまま蘇らせてくれる。 私の少年時代の悲喜こもごもの時間が、どっと頭に蘇ったのですね。 恐らく橋本さんによく似た子どもも近くにいたのではないでしょうか。 それから、「家族」特に「母性」ということも憧れの気持ちを込めながら書きました。 感激です。ありがとうございました。 「吸い殻」 エロティシズム 投稿者:橋本恵一 投稿日:2003/02/03(Mon) 02:19 No.136 「吸い殻」 村上 馨 無論さして新しくはなくどちらかというと一昔いや昭和初期頃の性風俗の薄暗い雰囲気で しかしながら村上氏がこういう分野に足を踏み入れるということ自体が僕としては悦ばしく ロマンティストの村上氏らしく上品でムードは素敵でちょうど煙草を一服したようなどこか緊張を ふっと解きほぐすようなエロティシズムが部屋の天井に漂っているような、僕は好きだな、こういう習作。 この部屋の周辺にその雰囲気は溢れ出してこの町全体を包んでいるのだがそこまでは描いていない。 描いていないけど雰囲気とは恐ろしいものでそこら辺までその空気は及んでいるのである。 会話はややありきたりだがなにしろ雰囲気は流れさしている。 灰皿というのは女性の象徴でもありそこに無造作に捻じ曲げられ捨てられた吸殻は 使用済みの男の象徴でもあると思うのではあるがこれを印象に残るオブジェに使用しているのは 無意識かもしれないけど僕の気に入っているところだ。 この作品に僕が一番思うことはこういう作品は村上氏の大いなる飛躍点になるであろうという 僕の勝手な期待である。そこには基盤として村上氏の文章表現が性格に根ざした上品さというものを 備えているということからの思いだ。つまりそういうエロティシズムを僕が欲しているからだ。 -------------------------------------------------------------------------------- Re: 「吸い殻」 エロティシズム 村上 馨 - 2003/02/03(Mon) 03:57 No.137 橋本さん、久しぶりです。 歯に衣着せず忌憚なく突っ込みいただきありがとうございます。 煙草というのは、吸う人でないとわからないかもしれませんが、吸うときの思いというか、 身体の中を吹き抜ける風のようなものが、結果吸い殻にその痕跡を残すところが不思議ですね。 橋本さんのHP、自画像めいた写真も何故か煙草をくわえていますね。 折れた煙草の吸い殻であなたの嘘がわかるのよ・・・そんな一世を風靡した歌謡曲もありましたね。 こういう作風を持つことが、飛躍点なのか降下点なのかは、神のみぞ知るところですが、 他者の眼を踏み台にしてもう一度やってみたいとは思っています。 まあ、そういう意味では「宣言」なのかもしれません。 橋本さん、私は一足先に50歳、黄昏の中を走り始めていますよ。 村上さんの新作 投稿者:瀬本明羅 投稿日:2003/02/01(Sat) 08:59 No.134 気を取り直し、今やっと書き込もうという気持ちが湧いてきました。決して勿体をつけたわけではありません。 自分なりに心の中を整理していました。 何回も「吸い殻」を読み返しました。 というのも、長年お付き合いをしていて、こんなストレートな作品は読んだことがなかったからです。 村上氏が掌編小説を書いたのも初めてではないかと思います。 まず、どうして?という疑問が頭を擡げました。どうして、方向転換したのか。 ということです。 また、どうして、性の場面をストレートに書いたのか。という疑問です。 これはまた、衝撃でもありました。 こういう方向から長い間の沈黙を破って登場するそのもの書きとしての志は、 いかなるものか、という自問自答を繰り返しました。 そして、また私の志の根底を揺さぶりました。 お前は、甘い感傷でものを書いている、という鞭でもあったのです。 性欲ということを前提として並んでいる二人が、突然、身の上話をする。 こういう設定にしたたかなものを感じたのです。 時代設定などどうでもいいのです。 こういう場面を読者につきつける、その意気込みを感じないわけにはいきません。 モラルとかなんとかいう価値観を意図的に超えようとしたその気概を受け止めないわけにはいきません。 どきっとした、という情緒的な受け止め方を完全に拒否しています。作者は恐ろしいほど覚めています。 吸殻の数に拘り、「凛とした」女の顔をしかと見ています。 そして、元のさやに返るかもしれないという暗示もどうでもいいのです。 村上氏という作者が、こういう作品を書いたという事実だけが、私の胸深くに刻み込まれました。 終生わすれません。 ありがとうございました。 「黄昏・・・」の作品は、もう私は力尽きて書けません。お許しください。 最後に、次のの文章を思い出しましたので、書きます。 「文学作品はそれが享受に耐える実質を保有しているかぎり、 すべてある状況を身をもって生きた人間の誠実な証言であり、 だからこそ、ある特定の時代の性格を体現した虚構の体系と見做しうるのである。 作品の背後にひそむ人間の貌、時代の陰影を読み取りたいというわたしの固執からいえば、 状況に対峙する作家の姿勢もしくは態度という観念を抜きにした作品論はありえない。」 これは、三好行雄氏の『作品論の試み』の中の一節です。 「作品の背後にひそむ人間の貌」。ということを強く感じました。 -------------------------------------------------------------------------------- Re: 村上さんの新作 村上 馨 - 2003/02/02(Sun) 11:08 No.135 瀬本さん、何度も深くお読みいただきありがとうございます。 もっとさらりと読んでいただいてよかったのですが、それほど深い意味が込められているわけではありません。 ありふれた場所、ありふれた時間、 ありふれた男に生まれた稀有な心模様をスパッと切り取って縮図的に描くとすれば、 ああいう方法と書き方しかなかったということです。 ただ、そこで、ああいうありふれた世界で、男と女に奇妙な符号が生まれるということは、 以てしかるべき背景と理由が潜んでいるには違いありません。 梅崎春生の名作「桜島」の中で、戦地に赴き死ななければならない男が、妓楼に出かけるシーンがありますが、 それはずっと私の脳裏にこびりついていて、案外知らずそれがモチーフに発展していたのかもしれません。 村上作品 投稿者:瀬本 投稿日:2003/01/30(Thu) 06:39 No.133 村上氏の意欲に感激しています。書き込みをしたいのですが、まだまとまりません。 村上作品 投稿者:瀬本明羅 投稿日:2003/01/24(Fri) 19:24 No.132 予想外の方向から、久方ぶりに村上作品が登場しました。 正直いって驚きました。今は、その衝撃から身を立て直しているところです。いずれまた。 「絵の中の竹籠」の感想 投稿者:村上 馨 投稿日:2003/01/13(Mon) 16:26 No.131 この小説とても面白く読ませていただきました。 面白いというのは、語弊があるかもしれないが、 瀬本氏の作品に面白いという表現をさせてもらうのはこれが初めてではないかと思います。 おやっと思わせる不思議なものがあったという方がむしろ良いのかもしれません。 それがどこにあったのか?どこから来るものなのか? 無論それはこの絵であるが、問題は、その絵の解釈について間違っているとかそうでないとかの次元を超えて、 今瀬本氏でないとできない捉え方が研ぎ澄まされたナイフのような文章で刻み込まれていることです。 絵は写真と違ってそのすべてが作者によって造られたものであるから、 そのすべてに作者の込めた意味合いはある。 普通には、その作者の意図を超えて理解することは難しい。 ところが、この小説には、敢えて、曲げてでもと思われる激しさが潜んでいます。 それが凄いところだと思います。 この辺には、無論危険も潜んでいて、度を越すと独りよがりになってしまう恐れはあります。 しかし、その辺もこの小説は抑制がよく利いていて実に引き締まったものになっていますね。 どうして「径」という題名なのか。 どうして、「夏の日」とか、「パラソル」などという題名にしなかったのか。 私は、その後あれこれ素人ながら考えぬいた。 縦一列。 これだ。母の姿の何と清清しいことか。そして、子どもの何と素直なことか。 また、犬の歩みが、何とゆったりしていることか。 これが家族というものだ。 籠は全体の柔らかな色調に大きな力を与えている。 しかも籠の中身は草花で、生活感が乏しいのである。 食材かなにかであれば、この絵の世界は全く別のものになる。 恐らく子どもは、どこまでも「こみち」が続くかぎり、母についてゆくだろう。 いや、二人が歩むと、そこが自然に「こみち」となるのである。 そして、やがて子どもは母になる。 そして、また子どもを連れながら「こみち」を歩むことだろう。 すると、「こみち」は、未来へと限りなく続く生命の道である。 この捉え方ですね。 真似のできない凄いところです。 であればこそ、この竹籠への思いが特別なものとして募ります。 そして、その後主人公は、偶然にも同窓会でこの竹籠の事実関係を知る。 そして、そこで不覚にも涙を流してしまう。 この小説の極みは、最後にこの涙について、我々読者が問いかけられるところでしょう。 それに答えられない読者は人間失格でしょう。 それだけ激しいものが、鬼気迫るものが、ここにはあります。 『白いこみち』は誰にでも見えてくるものではないでしょうから。 脱帽です。 顔洗って出直します。 ぼちぼちと 投稿者:瀬本明羅 投稿日:2003/01/10(Fri) 22:02 No.130 私的なことでいろいろあり、失礼しました。 また、牛のごとく、ぼちぼちと動きはじめます。 よろしく御願いいたします。 謹賀新年 投稿者:瀬本明羅 投稿日:2003/01/02(Thu) 08:31 No.129 あけましておめでとうございます。今年もよろしく御願い申し上げます。 2003年。未年。個人的には、左右対称の数字が好きで、2002という歳に未練があります。 しかも、聖と俗、清と濁、その区別が曖昧模糊として過ぎ去ってしまったので、 なんとか根源を究めたいという気持ちを、歳が明けてからもずるずるとひきずっているのです。 しかも、年末に近所との付き合いの仕事が急に出来て、役員の私は、家の仕事を全くしなかったので、 そのすっきりしない気持ちもひきずっています。 人間は、自分の体なのに自分でない部分を随分持っているということを実感しました。 年の瀬は、越すに越されず越されずに越すとか申します。古人は旨い言葉を残してくれました。 とまれ、歳が明けました。 しかし、引き続きいろいろな悩みを引きずっています。これは、どにもならないことなのか。 現実があるから、どうにもならないのです。 その現実は、個人の力ではびくともしないのです。 今年もその現実に翻弄されることでしょう。 しかし、何かの営為は、私たちの心を支えるでしょう。 その一つが、この『座礁』という場所での活動です。 みなさんとともに「作品」を発表しあい、親和し、時に議論しあう、そういう営為を大事にしていきたいと思います。 本年もよろしく御願いいたします。