辞 職
瀬本明羅

 「稲村課長がんばって!」  ステージに立つと、フロアの一番前の方から若い女性社員の声が飛んできた。マイクの 高さを直しながら稲村は、「がんばって」という言葉の意味を瞬時考えていた。1年早く 辞職する自分のこれからの人生へのエールか、また、頼りないので別れのスピーチくらい は旨くやってくれ、という意味の言葉か、そのどちらともとれるような言い方に聞こえた。  ステージに立って社員に辞職の挨拶をしながら、稲村は自分の言葉に対する反応を確か めようとしていた。都合100人位の衣料の販売を主に経営している会社だった。勤続3 7年の間に、2度本気で辞めようと思ったことがある、1度目は乗り越えたが、2度目は どうしてもその気持ちを止めることができなかったその経緯を、会社役員に気を遣いなが ら話した。聞いている社員の表情はすこぶる冷静で、何か突き放したものも感じられた。  しかし、話が終わると今までの労をねぎらうような大きな拍手が一斉に湧き起こった。 ホールのステージの階段を、稲村はゆっくりと過去を噛み締めるように降りていった。  7月の定期異動で転任者は10人、退任者は8人だった。退任者の中には、リストラに よる者が3人含まれていた。1人は半ば強制的に辞めさせられた者、後の2人は会社の処 遇に不満を持ち、自発的に辞職した者だった。稲村の場合は定年まで残り1年だったので、 会社は殊更つらく当たることはなかったが、部課長、役員に相談したときは、引き止める 者は誰一人としていなかった。それが、稲村には心の傷になった。  「会社の経営状態は、販売促進課の君が一番よく知っている。だから、この辞職願いは 君の愛社精神の表れとして受理します」  とまどいもなくそう言った社長は、10年前に君の辞意を知ったときとは情勢が違うか らね、あのときは君が必要だった、しかし、今の販促活動は他社の追随をやっている時代 ではないからね、と付け加えた。業績が伸びないのはお前のせいだと言わんばかりの調子 だったので、稲村は即座に言い訳の言葉も出て来なかった。  稲村が辞職願いを出そうという決心をしたのは、会社の上半期の売上実績が急激に悪化 したことが直接の動機だった。それまでは、通信販売やネット販売にも手を伸ばし、価格 競争にも何とか持ち応え、漸減状態ではあったが実績が急激に悪化することはなかった。 しかし、本社、支社ともに、この数年間近くに大手の量販店が進出し、事態は急激に悪く なっていった。特に、今年の前半は打って出る手段は皆無というように稲村には思われた。 早急に市場調査をしてその結果を分析し、勤務時間を交代制にし、営業時間を延ばす戦術 を打ち出したが、功を奏することはなかった。  ……それにしても、と稲村は思った。辞職願いを出した本当の理由は、全くの個人的な ことにある。最後の昼食会に臨んだ稲村は、親睦会の幹事が準備した弁当が喉を通らなか った。かつての出来事が一時に蘇ってきたからである。  「会社、1年早く辞めてくださらない」。妻の小枝子が今年の1月に突然言い出した。  「どうして。もう、先が見えてるじゃないか」。そのあまりにも思い詰めた表情に、稲 村は異様なものを感じ取っていた。  「もう疲れたわ。……毎日毎日孫の世話に家事。真人も和子さんもしょっちゅう仕事、 仕事でしょう。土日もない状態だし……」   妻の顔色が悪くなり出したのは、初孫の由比が産まれてからだった。それは、稲村も 早くから気づいていた。  「せめて、貴方が居てくれさえしたら、それでも気が楽になりますけどねえ」  「私が辞めても家事が楽になるとは限らないじゃないか」  そう言うと、小枝子は急に顔を膨らませて言った。  「貴方、一日中家にいるものの気持ちが分かるの」  「そりゃ、だいたい分かっている」。稲村は、この言葉は以前も聞かされたことがあっ た。だから、そう答えるしかなかった。しかし、改めて言われると、自分が今までいかに 家庭のことを顧みなかったかという事実を突きつけられ、どっと大きな荷物を乗っけられ たような気持ちになってきた。会社の自分の立場も併せて考えると、妻の言うことは正し い判断のように思えた。和子が辞めてくれれば一番孫にとってはいいのだが、それはでき ない相談だと考えた。  「真人には、そのことを言ったのか」  「言わなくても、真人の気持ちは分かってますよ。心の中では私と同じことを考えてる と思うわ」  「じゃ、今夜真人と相談してみよう」  そう言って、その夜、真人が帰るのを待っていたが、9時を回っても帰ってこなかった。 11時、12時の帰宅は珍しくなかった。時には1時過ぎになることもあった。営業の仕 事の厳しさは、稲村も分かっている積もりだったが、疲れはてて帰り、また翌朝定刻に出 かける息子が哀れで心を痛めていた。  そうこうしているうちに10時になり、和子が帰ってきた。  「急患があったもので、遅くなってすみません。由比はどうしてます」  「あ、そうだったの。お疲れ様。由比はもう2階で寝てますよ」。そう言って、台所に 行こうとする小枝子を見て、和子が言った。  「お母さん、夕食はもうすませました。ありがとうございます」  そう言いながら和子は2階へ上がろうとした。その背を見上げながら、稲村は声をかけ た。  「和子さん、ちょっと相談があるんだけど……」  和子は振り向いて、訝しげな表情をした。そして、稲村の前のソファーに座ると、和子 は髪を掻き揚げながらハンドバッグの蓋を開けようとした。しかし、「いやね、他でもな いんだが……」と稲村が言い始めると、その手を止めた。  「……私、仕事を辞めようと思ってるんだけど……」。稲村は和子の様子を観察するよ うな目つきになった。  「もう、後1年じゃないですか。辞めなくても……。でも、それがお父さんのお気持ち でしたら……」と和子は声を細めて言った。  「そこなんだけどね。今私が辞めて家にいないと、この家のゆとりというか、何かそん なものがなくなって、みんなくたくたになってへたり込んでしまうような気がするんだよ」  稲村は、言いたいことをオブラートにくるんだような言い方をした。ところが、和子は、 顔を引きつらせながら一気に思いのたけを吐くように言った。  「お父さんの仰ることはよく分かりました。私もいつ言おうかと思って迷ってたことが あるんです。お父さんは、私が辞めればいいと思ってらっしゃるようですけど、私にも覚 悟があります。お母さんに迷惑をかけないようにといつも思ってたんです。つらかったん です。由比も可愛そうですし。だから、1年だけ休職します。育休を取ります。お父さん は定年まで勤めてください」  稲村は、予期しない言葉が突然繰り出されたので、一瞬、次の言葉が出てこなかった。  「……そこまで私は言ってないよ。ただ……」と言葉を詰まらせた。  「もう、これ以上言わないでください。真人さんには私から言います」  そう言うと、和子は音を立てて階段を上がっていった。稲村が妻を振り返ると、一層青 ざめた顔で怯えたように2階の方を見ていた。しばらくすると、腰掛けていた椅子からず り落ちるようになって頭を抱えた。「おい、どうした。気分でも悪くなっのか」と言うと、 「たいしたことないです。貧血したみたいで……」と喘ぐように言った。稲村は寝室に背 負っていくと、床を敷き横にならせた。しかし、脈をとると、途切れ途切れに打っている。  「おい、和子さん、大変だ。すぐ来てくれ」  そう言うと、「呼ぶのは止めて、……医者に連れてってください」と小枝子は言った。  ……10年前だってそうだ。稲村は、箸を握りながら呟いた。  支店の売上が伸びないので、ある程度名の知れたモデルを呼んで小規模のファッション シヨウをすることを企画し、会議にかけた。その案は役員によって一蹴された。陳腐で軽 薄な案だと言われた。ところが、社長が旨くフォローしてくれた。「稲村案は予算の割に は効果がない。しかし、今反対した皆さんには、そういう思い切った腹案がありますか。 彼は、会社を立て直そうと躍起になっている。そこですね。100分の1イコール1分の 100なんですね。分かりますか。皆さん個々人は100分の1に過ぎません。しかし、 外部の方が皆さん個々人を見ると、それぞれが会社の代表ですね。一挙手一投足が会社そ のものの評価に繋がる。分かりますか。1分の100ですよ。また、これからは、皆さん は一人ひとりが会社を担いでもらわなくてはいけない。1分の100の精神が望まれるの です。そういう意味で、稲村案は実現は無理ですが精神がしゃきっとしている……」  その会議の後で、稲村は直接、間接の嫌がらせを受けた。課長会議でも、彼が発言する と、笑い出すものが急に増えてきた。中には「顔を洗って出直して来い」と言う者もいた。 廊下で部長から「よっ、1分の100」と皮肉たっぷりな声をかけられた。  家でも、自分の会社での位置づけが極めて危ない状況にあるという認識が心を領してい て、家族の誰かが話し掛けても返事もせず、ただ虚ろな気持ちになっていた。  「辞職願いを出すしかない」と決心し、文書を準備して部長と相談したが、君、そんな 子どもみたいなことするんじゃないよ、だれにもあることだよ、となだめられた……。  稲村は、昼食会が終わると、新任者の山崎とともに得意先の挨拶回りに出かけた。  運転している山崎は、助手席の稲村をときどき横目で見ながら言った。  「今まで、いろいろあったな。お疲れさまでした」  「いや、私の苦労はまだ苦労の内には入らないさ」  そう言うと、突然調子を変えて山崎が言った。  「おい、稲村、お前はあの3人の中に入らなくてよかったな」  稲村は、自分こそ退職勧奨を真っ先に受ける立場いたので、その後の成り行きを心配し ていた過去をまた思い出し、「……不思議に思ってる」と力なく答えた。  「俺なんか、何時ああなるか分からないからな」  山崎はしみじみとそう言った。  「後をよろしくな」  稲村は、山崎の肩を叩いてそう言った。  「うん、まあ、やるだけやってみる」  「量販店にも弱点は大いにあるさ」。稲村が覆い被さる不安を払いのけるように言うと、 お前は女の子にもてていたからな、と山崎はそう言った。意外な言葉だった。  「そりゃ、どういうことだ」  「お前の挨拶になると、若い子が声かけてたじゃないか」  「ああ、あれか、あれは、俺が頼りないからだ」  「そりゃそうかも分からないが、それだけでもない様子だった」  稲村は、返す言葉に窮してしまった。  「いや、あれは、販促の木山と川本だ」  「そうか、いや、まだまだいるぞ」  「おいおい、こんな日にからかうのはよしてくれ」  「お前は、自分で決めて自分で実行するのが好きなようだが、陰の味方がいるというこ とを忘れないでくれよな。女の子ばかりじゃない。俺だってそうだ」  そう言われて、稲村は涙を催しそうになった。  挨拶回りが済むと、5時をとっくに過ぎていた。部長への報告を済ませると、2人は送 別会の会場に向かった。歩いて10分位のところにあるホテルだった。案の定、あの3人 は欠席していた。稲村は開宴の前にもう一度挨拶をしなければならなかった。しかし、今 度は鹿つめらしい内容は差し控えた。座が白けては申し訳ないと思っていた。様様な視線 が注がれていることだし、挨拶する者は自分1人ではないから、と言い聞かせていた。  終わると、また、大きな拍手が響いてきた。花束贈呈、という司会者の声に続いてステ ージに進み出たのは、販促の木山だった。稲村はやっと笑顔を取り戻した。花束は、蘭を ふんだんに使った豪華なものだった。受け取って、握手の手を差し伸べると、木山の暖か い右手がごつごつした手を握り締めた。「課長頑張ってください。お元気で」という言葉 を残して木山は自席に帰っていった。稲村はまだ木山の体温を掌に感じながらステージを 降りた。宴会となると、もう訳がわからないようにあちこち回って挨拶し、その都度酌を され、仕舞いには泥酔状態になっていた。そして、そのまま胴上げされて会場から送り出 された。  「おい、稲村、二次会だ。俺について来い」。山崎だった。言われるままについていく と、木山とやはり同じ課の男性若手社員の高田が外で待っていた。  「花宵に直行だ」。山崎が叫んで、タクシーを呼んだ。4人は押し合うように勢いよく 乗り込んだ。  「課長さんとも今夜でお別れね」。寄り添うような格好で木山がそう言うと、高田が、 そういう仲でしたか、2人は、などと言って助手席から後ろを見てからかった。しかし、 稲村は酔い心地と解放感も手伝って、昼間に感じた憂鬱を忘れ、本当にそういう仲であっ たような気分になってきた。  「これで最後じゃないさ、木山」などと真面目な口調で言った。  「おい、お2人さん、調子に乗っちゃいけないよ」。山崎が水を注した。  「花宵」の看板が見えてきた。高田が即座に降りて中を伺っていた。手で招くので、待 っていた3人も中に入った。あら、山崎さんお久しぶり、という声の主はママさんらしい 40位の女性だった。山崎を取り囲むような格好でそれぞれ陣取ると、他の客に負けない ようにはしゃぎだした。店の中はカラオケの音がやかましかった。しかし、稲村は先ほど から催していた尿意を我慢できなくて、立ち上がった。奥のカウンターの横を通りかかる と、あっ、お父さん、という声がした。腰掛けている若者は真人だった。連れの客は誰も あまり若くはなかった。  トイレから出ると、入り口近くで真人が待っていた。稲村は、おい、出よう、と促した。 ウエイトレスに何がしかの金を渡し、事のわけを言い、外に出ようとすると木山が駆け寄 ってきた。  「あら、どうしたんですか。今日は課長の送別会でしょ」  「うん、ごめんね。また会おう。息子と一緒になったものだから」  木山は驚いたように、真人の上から下まで眺めると、いやあ、課長さんとそっくりね、 と言った。ごめん、ごめん、と何度も言いながら二人は外に出た。ほの暖かい夜気がから みついてきた。月が明るい夜だった。稲村は、親子でこんなときに、こんな風に歩くのは 久しぶりだと思った。  「……呑み過ぎたよ」と稲村。  「お父さんのそういう姿は初めて見たよ」。真人はあまり酔っていないなと稲村は感じ た。  「得意先か、あの連れの人は」  「いや、御時世だからね。今時接待はないよ。皆会社の上司だよ」  「こんな遅くまで付き合っているのか。大変だな」  「あのとき和子が育休を取ってくれたから、こんなことが出来るようになったんです。 悪いとは思いながら、つい誘われると断れなくて。……でも、お父さんは、定年まで勤め ればよかった。和子は気が強いからお母さんと、毎日ぱちぱち火花を散らしているけれど、 あれは、あれでいい奴なんですよ」  「うん、そりゃ分かっている。私が辞めようと思ったのは、何と言うか、男の意地みた いなものだよ。会社のこと、家のこと、いろいろとね」  すると、真人は遠くを見つめるような顔つきになった。  「……何だか分かるような気がする」  「そうか、そうか、分かってくれるか」。稲村は何度も頷きながらそう言った。  「もう、その話は止めようよ」  「あのとき、直接お前に言っていたら、状況は随分変わってきたかもしれない」  「お母さんに苦労かけてたからね。和子はどちらにしても休んでいますよ。……いやも う、ほんとにその話止めようよ」  「そうだな」  稲村は、ふとまた社長の言葉を思い出した。今、自分は100分の1でもないし、1分 の100でもない。やっと1分の1になった、と思った。支えてくれるものもいない代わ りに支えるべきものもない。厳しい生き方だが、自分だけで自分を支えねばならない、そ れが、心地よかった。  「1分の1だよ」  「何それ」  「いや、何でもない」  稲村は、夏の月を見上げながら、心の中で幾度も1分の1という言葉を繰り返していた。 2人は何時の間にか繁華街を通り抜け、JRの駅前に立っていた。待合室の大時計の針が 11時を指していた。  「あっ、花束を忘れた」。稲村は急に思い出した。  「どこに置いてきたの」。そう言われて、稲村は咄嗟に思い出せなくなった。  「あのホテルだ」  頭の芯まで痺れがきていたので、思い出すのに時間がかかった。ケイタイをプッシュし て、フロント係を呼び出した。  「もしもし、さっき宴会をした者ですが、花束忘れたんです。……いやいや、もういい です。ホテルのどこかうんと目立つところに活けてください。お願いします」  そう言ってケイタイを切った。  「明日でも取りに行ったら」と真人が言った。  「いや、ほんとにいいんだよ」  稲村は、ホテルのロビーの真中に生けてある蘭の花束を思い描いて、一人で微笑んだ。 駅前のネオンが一段と輝きを増していた。                                      (了)