翔てゆく少女
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「名前はゆきこって言うの。こう書くの」と言って娘はぼくの左手をとると、その手の
平に華奢な指先でゆっくりと揺・季・子とつづってみせた。
「変わってるでしょう」娘はぼくの顔を覗き込み、確認するように言った。そのとき、
笑顔が愛くるしく輝いて、どこか幼さを残したその顔に女性の過渡的な魅力がどっと溢れ
出た。年の頃は、まだ十七、八にもいたらぬと思われた。
ときおり六月のなまあたたかい風が、宵の静けさに誘われるようにふうっとどこからか
迷い出てきては、ぼくと娘の頬をそっとやわらかな刷毛が撫でていくようにかすめていく
のだった。すると、娘の生気に満ちた艶のある長い髪は、急にほつれて風にゆあみするの
だった。
澄みきった上空には、星が降るようにちりばめられていて、あらゆるものがこの上なく
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すばらしく、神秘的にさえ思われてくる夜だった。誰でもよい、そんな夜におのれの存在
を感じてみるがよい。とたんに、それはもう人生の向こう側だ。
こんなふうで、ぼくがゆきこというその女性と出会ったのは、あたりがもうすっかり初
夏の香をただよわせはじめていた札幌の、六月も終わりに近い日のことだった。その日、
ぼくは空路北海道へ入った。旭川に私大が新設されたが、そこの特別高圧電線が近隣の密
集住宅地のテレビ受像機に、どういう訳だか電波障害を誘発するらしい。前日、その私大
からぼくのいる東京の本社に電話が入ってきた。NHKと協力して原因を調査した後、し
かるべく対策を講じてくれ、との一方的なものだった。金はいくらかかってもよい、ただ
し、くれぐれも住民感情を害することのないように慎重を期してもらいたい、云々と、電
話口の相手はこのいつの頃からか流行しはじめた『住民感情』というわかったようなわか
−2−
らないような言葉をやたら繰り返し強調してきた。千歳で降りて札幌まではバスに揺られ
た。車窓からは、昼下がりの陽ざしがやわらかく射し込んできて、ほくはついうとうとし
てしまったようだ。隣の客に凭れかかっては、その度に目を覚ました。
「よくおやすみになったようですな」バスが着いて、席をたつとき、その客は笑いなが
らそう言った。降りると先ず営業所へ立ち寄り、その足ですぐ札幌放送局の門をくぐった。
まっすぐ受付へ向かおうとしたが、入口でちょうどこれから外出しようとする女性にすれ
ちがった。それがゆきこだった。
「こちらの方ですか?」とぼくの方から声をかけた。
「ええ、そうですけど・・・」
「じゃあ、営業技術課へは、どう行けばいいんですか?」
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「それなら二階です。階段を上がって右手の三番目の部屋がそうです。表札がかかって
ますからすぐわかると思いますよ。そこにエレベーターがありますけど、階段を使われた
方がわかりやすいと思いますわ」
「すみません。どうもありがとう」とそれだけ言い交わすと、ぼくたちは互いの目的に
向かって歩き出した。ゆきこは善良な人が何の勝手もわからない未知の来客にみせる、あ
の親身な情のこもった愛想のいい笑みを浮かべてぼくとすれちがった。そのことに、たい
して意味はなかったのだが、おそらくゆきこは誰に対しても同じような態度をとるのだろ
うが、そのとき、ぼくはそれだけのことで自分の身が知らず軽くなっていくのを覚えた。
そして、あたりにすがすがしい涼気が漲ってきはじめたように思えた。
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