蛍のひと

瀬本明羅
 まだ完全週休二日制になっていないころの話である。  私は、土曜日が恨めしかった。というのは、土曜になると車の通勤ラッシュから 解放されるからである。なんで俺は土曜日も、そして時に日曜も通わなくてはなら ないのか。なんで……、なんで……、という限りない憤懣が込み上げてきた。  定年が待ち遠しい。あと十年か。  そんなことばかり考えていたから、毎日が楽しいわけはない。  脱サラなんていう言葉は、聞こえはいいが、じゃ、その後どうするんだという思 いが先にはしり、そのための決意には死ぬほどの覚悟が要った。  だから、現実脱出の時間を持つ、しかもひとりで持つ、ということでこころの逃 げ場を作っていた。その秘策とは、土曜日の喫茶店巡りである。  土曜日になると、車は、自然と自宅を遥か離れて、宍道湖をぐるりと一周するの である。湖面の色はいつ見ても色を微妙に変えていた。帰るころは、すばらしい夏 の夕景を眺めることができた。  喫茶店といっても、私が選ぶのは、うらぶれたはやらない店である。  私は、人と視線が合うのを病的に嫌がっていた。それは、人からじっと見つめら れることを仕事としていたからである。いつも夥しい視線に取り囲まれていると、 しかも三十年以上もそうされていると、ときに叫びたいような、部屋から飛び出し たいような気分になることがしばしばあった。だから、囲いのある椅子があって、 窓に色ガラスがはめてある店が最高であった。  それから、喫茶店の良し悪しはメニューにあると思っていた。たくさんのランチ メニューのことを言っているのではない。定番の「粗食メニュー」にその店の商い 魂を感じ取っていた。それは、第一にカレー。カツカレーでも、えびフライカレー てもいい。それから、トースト。この二つを食べてみれば、だいたい分かる。洒落 た名前のメニューはごまかしがきくが、この二つだけはシンプルなだけごまかしが きかないのである。  その日も、宍道湖南岸の小さな店でコーヒーとトーストを注文し、週刊誌を広げ ときどき窓の外を眺めていた。その店のトーストは厚くふっくらとしていた。やわ らかい歯ごたえがあり、甘く香ばしい味が口中に広がった。  すると、遠くから、いやそんなに距離はないかもしれない、薄闇の中で青緑色の 光が私の目飛び込んできた。  携帯電話の光である。女性がさかんにボタンをプッシュしていた。  携帯は当時としては珍しかった。私も持っていたが、今のと比べると厚くて重か った。しかし、夜かけると、怪しげな光を発した。昼ではしかとその色が分からな かった。  私は、じっと見つめていた。確かに女性である。そばには、小さな子どもが二人 いる。  通じたらしく、電話機を耳にあて、話し始めた。  「……だれと話しているのか。帰りの遅い夫かな」  などと考えていた。  「お客さん、ぼんやり何見てるんですか」  中年のこの店の女店主である。  「いや、携帯が珍しくてね」  「ああ、あの女ですか」  店主は、ちらっとその方角を見るや、吐き捨てるようにそう言った。  「だんなをああして待ってるんだね」  店主は、ますます嫌悪感を露にした。  「だんななんて、いませんよ」  「じゃ、だれと……」  私は意外な答えにとまどいながら、そう言った。  「だれか、新しい男でも出来たんじゃないですか」  「お、おとこって」    私は、ますますどきまぎした。  「あの女と私は同じアパートだからね、しかも隣り合わせ。全部知ってますよ」  「じゃ、子どもはどうやって養ってるんだ」  「さあ、そんなこと知りませんよ。働いているようでもないし」  私は、その女性に無性に興味を抱いた。    もう大分暮れかかってきた。電話機の光が大きな蛍のような艶めいたものに感じ られた。二人の子どもの姿は、闇に消えていた。  翌週、またその喫茶店に出かけた。時間帯もほぼ同じころであった。店に入ると、 いつもの席を確保し、いつものトーストを注文した。店主は、私が入るや、様子を うかがっているような素振りを見せた。  「昨晩は、大変だったんだから」  突然の言葉に、私はその意味を解しかねていた。  「ほら、あの女。……夕べ男と大喧嘩してて、もう喧しくて、寝られなかったん ですよ」  「ほう、そりゃまたどうして」  「どうしても、こうしてもないですよ、いつものことで。浮気性だから、今まで の男が、怒鳴りこんだんですよ」  「それで、あの人、それからどうしたんですか」  「今朝早く、アパート出ちゃったんですよ」  道理で今日は姿が見えない、と口の中で呟きながら、私は、すこぶる気落ちしてい た。  「子どもが可愛そうだね」  「まだ学校じゃないからいいものの、あちこち連れまわされちゃ、ほんとに可愛そ うですよ」  そう言って、注文した品を確認するような目つきになり、そそくさとカウンターの 中に入っていった。  私は、この前の親子の姿を闇の中に形作り、しばらく呆然としていた。俺は、ここ に来るとき、何かしら期待していたのは事実である。しかも、少し話がしてみたい とも思っていた。直接は難しい。よし、店主に電話番号を聞いてみよう、とも考えて いた。あの女性は、子どもを置いたままよく外出し、その時は必ず隣の店主に、子ど もに何かあったら電話してくれ、と頼んでいたそうだ。だから、番号は知っているは ず。そういうふうに想像していた。私の携帯がそのとき役に立つ。予想だにしていな かった携帯の使用法を、私は考え出してもいたのである。  しかし、それも実行できないまま、女性は、子どもとともに消えた。  私は考えた。どうしてそこまで思ったのか。妻子ある男がそこまで考えるとは、ど うしたことか。いままで昇ってきた階段から、最後のところで転がり落ちたかったの か。迷いとは恐ろしいものだ。そう思った。  「人それぞれだね」    遠くから、店主の声がした。  それは、私に向けられた言葉かどうか分からなかった。しかし、私のこころにずき りと突き刺さった。 ―――ふっくらとしたトーストの味か。 帰りの車の中で、私はそう呟いた。