葉隠入門 2
桜田 靖
世の中の移りと共に
今より三百年前に出来た「葉隠武士道」全巻は、すでにアメリカの学者により英文に翻訳され
ていたが、このたびはフランス語にも翻訳され、「人道の書」としてグローバル化していること
は真に悦ばしい。
葉隠武士道で、一番有名な文言は「武士道というは死ぬことと見つけたり」である。口述者の山
本常朝の本意は、侍たる者は生き恥をさらすな、犬死もするな、そのためには生きるか死ぬかの
局面に到ったら、迷うことなく死ぬ方につけ、だと解釈している。
だが、世の中から武士階級が消滅してしまって久しい。侍に向けて説いた言葉を後世の人間が教
条的に解釈して行動するなら、その者はドン・キホーテを笑えないだろう。先の大戦前から戦中
にかけて、葉隠の「死ぬことと見つけたり」の部分は、明らかに「兵隊は死を恐れずに、この帝
国と国民なかんずく親兄弟姉妹、祖霊の地の人々を守るために、敵兵と玉砕の覚悟で戦え」と煽
動し反駁の余地を与えなかったと思う。これについては、そういう戦雲の時代向けの解釈をした
というか、或いは軍部が恣意的に利用したといっても構わないだろう。
今の世も、尖閣、竹島、北方四島と領土にまつわることは、潜在的に一触即発のきな臭いリスク
を抱えているけれど、今日明日にも他国との有事が勃発するとは、日本人のほとんどが考えてい
ないだろう。
こういう社会情勢や民族意識において、「死ぬことと見つけたり」は人道の教えとして、人間万
事に死ぬ気になって諸事に励めよ、と説明されているように仄聞している。
かといって、山本常朝の説いたことから、本質を外してはいない。その昔、武士階級は士農工商
の最上級にあり、他の庶民階級の生きる鑑であった。お侍さんに向かって無礼な振る舞いをした
ら、庶人はお手打ちにあっても文句言えない時もあった。貨幣経済が潤い、文化の有り様の爛熟
に従い堕落していった後世の侍のことは知らない。しかし、心ある侍は盗泉の水を呑まないスト
イックな生き方をして、身をもって俗世に範を示しただろう。
「ノーブレス・オブリージュ」という西洋の言葉は有名である。高い身分の者ほど、身をもって
人倫に恥じない生き様を振る舞うよう務めるべきだ。
「死ぬことと見つけたり」は、この「ノーブレス オブリージュ」と同義に解釈しても良いと思
っている。
終
参考資料(桜田 靖執筆頁のコピー)
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