午後の部屋

高杉露樹

その部屋は、わたしの記憶の奥深くに眠っていた。  意識下の、その“ぼんやりしたもの”が目を覚ましたのは、子供の頃使った美術の 本を何気なくぱらぱらとめくった時だった。 わたしの目は、ふと、ページの片隅のひとつの小さな絵に惹きつけられた。  ――広場へ続く夕暮れの街角。影絵のような少女が輪を廻しながら駆けてゆく。     裏通りのくすんだ黄色。淡い光。長々と伸びる影…。  そのとたん、何か言い知れぬ不思議な感情が、わたしのからだの底から湧き起こっ た。 (見たことがある、これと同じ風景を…。いつかどこかで見たことがある…!)  次の瞬間、わたしの内部で“時”がぐるぐると逆行を始めた――。  小学校の古びた校舎の裏庭で、幼い子供が二人、仲良く並んで腰をおろしている。 そう、あれはわたし。そして隣りにいるのは、たしか佐藤君という名の転校生。病気 で一年休学したという彼は、六つか七つの少女にはひどく大人びて感じられた。  その日、少女は初めて彼の家に招かれた。 同じクラスの友人宅の離れの二階に、少年と母親は間借りをしていた。殺風景な中庭 を横切り、ギシギシと鳴る階段を昇って、塗りのはげかかった扉を押す。  木造りの小さなその部屋は、午後の日差しの中で、柔らかな黄色に染まっていた。 だがなぜかそこは、生活の匂いが感じられない不思議な空間だった。穏やかな光に満 ちた黄色い部屋には、少女の位置を定める座標軸――壁さえもなく、床は硬さを失っ て、遥か遠い地平線へと続いていた。 「どうぞ、召し上がれ」  頭上から少年の母の秘めやかな声が響き、白くかぼそい指が、少女の手のひらに紅 いりんごをひとつ、そっと置いた。 “時”さえも、少女の周囲をゆっくりと流れていく。けだるい午後の陽光が薄絹のよ うにからだにまとわりつき、りんごの甘酸っぱい香気が部屋中に漂った。  どのくらいたっただろうか。いつの間にか少年と母の姿は消え、静寂の中にただひ とり、わたしだけが取り残されていた。 漠然とした不安が、わたしの胸いっぱいに広がった。日が傾き、黄色い部屋は次第に 色あせていった。闇が、滲むように迫ってくる。遠くでかすかに豆腐売りのラッパが 鳴った。わたしは石のようにじっと息を殺しながら、薄暗い部屋の中に立ちつくして いた…。  ジョルジオ・デ・キリコ。  このイタリアの画家の絵を見た者は、忘れられた自分の過去の記憶を呼び覚まされ るという。  どこかで見た風景。幼い日に感じた、茫漠とした不安。こうした原体験は、人とい う生き物が、母の胎内での安らぎと日没に対する怖れの感情を、遥か太古から共通し て心の底に宿している証しなのであろうか。  午後の部屋が夕闇のかなたに沈んでいったように、佐藤君親子もいつの間にか越し てゆき、離れの二階もなくなった。  はたしてあの日の出来事は現実だったのか、それともただの幻にすぎなかったの か、わたしにはもうわからない。 だがこうして静かに目を閉じると、わたしの脳裏には、時を超えて不思議な空間がひ そやかによみがえる。黄昏の最後の輝きに包まれた、あの懐かしい部屋が…。