「S」

 また発作を起こすのでは・・・。得郎は、振動するバイクの車体に身を任せながら、不 安の翳りを恨めしく思っていた。  道はいったん斐伊川堤防を攀じ登ると,ほぼ七百メートル上手のところで、東に下って いくのと、まっすぐな土手道とに岐かれる。荷を積んだ彼のバイクは、夏の炎のような風 に煽られて、東の平野の方に出る道の方に吸い寄せられた。そのとき、ある場面をまた思 い出してしまった。もう、この胸の内の残像は、彼の生の証ででもあるかのように,しっ くりしたものに変わっていた。それは、ほんの一ヶ月前の出来事だったが、何かしら懐か しいものさえ感じさせた。  垢で汚れた手術室の磨りガラスの隙間から、血に染まった手がまた見える。彼の中では、 もうそれは不吉の前兆でもなかった。だから、彼は、バイクの音が平野のかなたに響いて いくのを、同時に快く感じることができた。  「もう見ない方がいいよ」  そう言って、覗いていた親戚や家族のものをそのガラスの隙間の位置から追いやって、 得郎はそこに立ちふさがったのである。そして彼は目を瞑った。医者の血の手は、患者で ある母の何であろうか。そう思うと、入院の勧告を受けた日の母の顔(いやもうそれは、 人の顔というよりも、蝋人形のそれ)が浮かんできた。そして、よかったんだ、これで、 と彼は自分に言い聞かせた。  ───二時間も待ったろうか、手術室のガタピシの扉が開いて、医者が二人出てきた。  「このごろ急に眼がかすんできましてね」  主任の医者は、黄銅製の皿のようなものの中に入っている、巨大なさつまいも様の異物 を、手術鋏で敵意でも持っているように突付けながら、彼の前に立ち止まった。  ───そうだ、忘れもしない奇怪な塊。もともと卵大のそれは、全く予想もつかない程 膨らんで、はちきれんばかり。まるで嬰児を宿しているかのようだった。  「こことここ。ああ、それからここにも筋腫ができている。子宮壁内筋腫ですね。ひど いもんだ」。そう言う医師の縫い繕いした手術着が、汗でぴったり肌にひっついていた。 煙草の煙がどこからとなく漂ってきて、その皿の辺にまとわりついた。  むくんだ一塊。彼は思った。そこに自分の生命の秘密がくるまれているような、空しい ような。これが自分の肉体の抜け殻か。医者の鋏によって切開された子宮は、皿の中で奇 妙に歪んで、波打つ肉の盛り上がりを見せていた。  彼は、走りながら、母の子宮の中で苦悶している自分を思う。が、その苦しみはかえっ て愉悦さえ伴うものだった。肉壁はいくら脚で蹴っても、強靭な弾力性ではじき返す程で、 そのリズミカルな抵抗感は言い様もなく彼の心を痺れさせた。  バイクの振動は、全身の汗をすべて搾り出すかのように一際激しくなりだした。土手か ら降りると、この道は、東は低い山並みに、西を高い堤防に取り囲まれたこの弓形の平野 を、南北に二分するかのように延びている。西側の田には株をはった稲が一面に眺められ る。  ───ここH町の西の外れの地域ことを、人々は水害抜きには考えない。この地域だけ ではない。斐伊川流域の町や村はすべて、この川と闘ってきた。次第に天井川と化してい ったこの川と共に暮らし、心の深層部で恐怖を感じてきた。  そういえば、この地域には、平野の中には一軒も家らしきものはない。彼の家のある北 方の丘陵に若干集まっているし、東の弓なりに広がる山並みの中腹に、へばりつくように、 びっしりと百数十戸の家が並んでいる。それは、あたかも水を忌む儀式のようであった。  彼は、入院している母の代わりに、その中腹の住宅地に、米の配達に出かけたのである。 住宅地というより、そこは、外敵を寄せ付けない城砦といった方がよいかも知れない。慣 れぬ仕事ということも手伝って、彼は興奮をどう処理することもできなかった。何かしら 異郷への旅立ちの緊張にも似ていた。  夏になるといつもついていない。彼は思う。一昨年は、盲目の父が死んだ。昨年は、祖 母が高血圧で倒れた。何だか夏になるのを待ち受けていたかのように、死んだり、病気に なったりする。自分だって、こうしてバイクに乗っていられるのが不思議なくらいなのだ。 心臓は極度に肥大し、時々脈が打たなくなったりする。メンタルな面でも、大分危ういと ころまで来ている。だから、ニトログリセリンやトランキライザーは、いつも肌身離さず に持って歩いている。発作が起きたときは、機能的なものだと思えばニトロ、メンタルな 予期不安であればセパゾンかメイラックスをほおばる。とまらないときは、救急車を呼ん で貰う。もう幾度も救急車のご厄介になっている。最近は、医者が「S」という得体の知 れない薬もくれた。まだ、飲んだことはない。死ぬと思ったら飲め、と医者は言っている。  兄弟はいない。母と祖母の三人家族である。その二人に堅く守られているような毎日な のだ。ただ、この母の胎内のような、山と川に挟まれた狭い平野に命を預けて、黙々とや っていくしかない。  強く生きて何になる。旨く世を渡って何になる。人に勝って何になる。金を貯めて何に なる。・・・彼は青い稲田の彼方にまで響いていくような大声で叫んでやりたい気にもな っていた。そして、いつしかまた夢想してしまう。この息苦しさは、まだこの自分が母の 胎内の強靭な子宮壁の中にいるからなのだと。彼はバイクから狭い平野を見回しながら、 そのとき、瞬時、安らかな吐息を漏らした。平野の形状は、子宮の形に何と酷似している ことか。そして、稲田の彼方から漂ってくる馥郁とした香りを吸い込み、母性そのものに 浸っている気持ちになっていた。  しかし、彼としても、バイクの荷台の米袋よりもっともっと大きな荷を自身に負わせて いた。それは、産まれ出る苦しみを味わうことであった。母性の陣痛のそれではない。産 まれ出る新生児としての圧痛である。彼は、母の胎内から一度も出たことがないと思って いた。出ることの苦痛はいかなるものであるのか、豪も知らないと思っていた。先天的な 心臓病の上に、大人になるにつれ、心臓神経症の症状も伴って、複雑怪奇な体になってい た。不整脈はしょっちゅうで、たまに胸部に激痛がはしった。だから、ごく最近まで一人 歩きなどしたことがなかった。  だが、彼にとって貴重な試練への第一歩を踏み出すときが、刻々と近付いている気配に 戦慄した。そして、それにつれ、先ほどからのあの甘美な匂いは、胸の痛みとともに薄れ て、自分を離れて遠くの方で漣のようにたゆとうているような気がした。  彼はそうして出発当初の意気込みを失いかけていた。  目の前には、石ころ道が急に強い勾配を見せはじめていて、目的地が近付いていること を告げている。そしてその坂道は、ビニール袋に詰めた数個の白米とともに、五十CCの バイクの馬力をゆっくりと吸収しだした。・・・母はここで、毎日、こうして車を降りて、 力いっぱい押しながら坂を登るのだろうか。そう思いながら、彼は、車から降りると、ア クセルグリップを戻し、ギアをローに入れ替えると、ゆっくりアクセルをふかしながら、 両手で車を押して坂道を登りはじめた。  こんなところで、死ぬもんか。彼は呪文のように喉の奥でそう唱えながら登った。  さすがに息が苦しくなり、胸の痛みも増してきた。坂は彼のあがきを拒絶するかのよう に、白い輝きを見せている。リアのホイルが砂をかんで空転しはじめた。祖母だって、最 近まで、この道をリヤカーひっぱって攀じていったんだ。蝋人形のような顔色の母の顔と、 土色の祖母の顔が浮かんできて、得郎の後押しをしてくれるような気がした。  しかし、スリップする音が、この世のものではないような、ものすごい反響を伴って得 郎の胸の中を駈けずり回る。いけない。心臓が痛む。早く登りきろう。彼は焦った。だが、 手遅れのようでもあった。夏の日差しが、彼には冷たいもののように感じられた。まるで 巨大な蟻地獄の砂の流れに巻かれたようで、少しも前に進もうとしない。突然、ホイルの スリップする音と、エンジンの爆音が、暗く冷たい穴倉の中で鳴り響いたような感覚が頭 をかすめ、彼はその底の方に落ちていくような浮遊感を全身で感じた。  ───「Sだ」。咄嗟に彼はズボンのポケットをまさぐり、一粒の錠剤を口にほうりこ んだ。  「あんた病気なのに、よくここまで来て下さった」  老婆は、縁先で得郎にお茶を出しながらそう言った。彼は、ふと、何時間ここで寝てい たのだろうかと、意識を失ってからの時間の経過を気にしだした。夏の陽は、大分西に傾 いていた。  「坂の上でひっくり返っていなさったとき、もう、顔色がなかったんで、慌てて近所の 人を呼んでここへお連れしたんじゃ」  「どうもすみません。命拾いしました」  「医者に診せたときにゃ、不思議なことに、顔色がもどっていましてなぁ」  「病気持ちの自分のことを考えずに、たいへんな無茶をしました」  「それにしても、不思議なことじゃ」  老婆は、しげしげと彼の顔を覗き込むようにした。  「お祖母さんにも、お母さんにも、随分お世話になりました。・・・ここの村は、昔何 度も水害に遭い、とうとう田畑見捨てて、この山の上まで逃れて来たんじゃから、米はほ とんどの家が作っておらん。」  「母も、お婆さんにお世話になったそうで」  「いや、これも奇遇じゃ。そこの曲がり角の一本松の下で、お母さんは、腹を抱えてう ずくまっていなさった。ちょうどわしが運良く通りかかったんじゃ」  「親子が、お婆さんのお陰で命拾いしました」  「お母さんは、佐賀神社のお使いじゃと思うとります」  「えっ」  「そうじゃ。そうに違いない。みんなそう言うとります」  「・・・」  「こんどの秋祭りにゃ、皆さんをご招待する言うとります」  得郎は、目頭があつくなるような気持ちになった。  「あっ、大切なものを忘れるとこだった」  老婆は、奥の方へ入ろうとした。  「お金ですか」  「お金じゃったら、とっくに払うとります。あんたのズボンのポケットを確かめて下さ いよ。ちゃんといれときました。」  得郎は、腰掛けながらポケットに手を突っ込んだ。ある。確かにある。しかも封筒に入 れてある。  「もっと大事なもの」。そう言うと、老婆は仏間の方へ入って、何やら唱えて、鐘をち んと鳴らし、また、戻ってきた。手にもっている物は、かなり小さいもので、外からは分 からない。  「ほら、こんな大事な物、この前落しなさった。」  差し出す掌をよく見ると、鎖の取れたロケットだった。  「さあ、開けてみなさい」  言われるまま蓋を取ってみると、写真が入っていた。母に抱かれた赤子の私、その隣に 父。いや違う。父ではない。だれか見知らぬ若い男が立っている。  「あんたも、こんなに小さいときがあったんだね」。老婆は、目を細めて言った。  彼は、自分の目を疑った。一昨年に死んだ父は、若い頃、こんな四角な格好でなかった。 それは、写真帳で見て知っている。どう言うことだ、これは。もしかして、母の親戚か友 人のだれか。いや、待て、私は確かに戸籍で確認している。私は、父の実の子どもだ。彼 は、また発作を起こしそうになった。そこで、また「S」に手が伸びようとした。  バイクにまた乗って、坂を下りながら、得郎は、幻想に怯えていた。  倒れた直後の意識が薄れるときに見た光景と、先ほどの写真の男がダブって、混乱しそ うになっていた。意識が遠のくときに見た場面・・・。長い管のような軟らかいトンネル の中で、羊水のような液体の流れに身を任せて、明るい方へ出て行こうとしていた私。産 まれ変わるぞ。歓喜が身内を駆け抜けた。それに、若い男の四角な顔・・・。そして、ニ トロ、セパゾン、「S」。  夕日が輝き始めた。ともあれ、母に、ちゃんと仕事ができたことを報告したい。そう得 郎は思った。バイクは、母が入院している病院に向かって行った。  ───私は、産まれ変わったのだ。
(筆者補記)  この作品は、「日本海文学」に発表した「寧日」を改作したものです。