水 仙

 大阪在住の直木賞作家、N氏から賀状が届いた。添え書きにこう書いてあった。  ――庭の片隅に水仙が一本咲きました。健筆の程祈ります。  お屠蘇の酔いも手伝っていたかも知れない。僕は体が震えるほど歓喜し、同時に何か突 き上げて来るものを感じた。  僕は、とある地方の同人誌に所属していたのだが、久しくまとまった作品を仕上げてい なかった。「書けない」のではなくて、「書かない」のだなどと居直ってみても、自分の 心は安らぐ筈はなかった。そういう僕の鼻元に、澄んだ水仙の匂いをそっと差し出してく れたN氏。多謝。  そうだ。僕には、あれから書かねばならぬことが溜まりすぎていたのだ。そう思って書 斎に駆け込む僕は、「知命」を遥かに過ぎた危うい年齢。  椅子に座って愛用のシャープペンシルを握る。体に染みた中年のほろ苦さが芯の先に燻 っている。  僕が書かねばならないこと。・・・焦りの心の淵にひと際清楚な面差し。今まで僕の前 を通り過ぎた女性たち。今の今、僕を取り巻いている女性たち。そういうあらゆる女性た ちの顔の輪郭が次々と立ち現れてきた。僕は今の歳になってやっと女性の真実をしかと見 届けた気になっていて、誰かに告白したいという心を抑えかねていた。  しかし、一方で妙に落ち着いた声がこう響く。  「女性とは無償の真剣さと醜悪な不快感の止揚の中にある」  古井由吉氏の「円陣を組む女たち」のライトモチーフである。  僕はその氏の言葉を打ち消すような、今の気分にぴったりな極めつけの言葉を探す。涙 の谷。「このお乳とお乳のあひだに、・・・涙の谷」。太宰の「桜桃」の一節が、強靭な 鞭のごとくに僕を打って、全身が火照ってきた。  僕は今まで作品の中で母性なるものをほとんど描いたことはなかった。僕の作品の底に はいつも盲目の父が居座っていた。小説を作るという営為は、亡父の幻が糸を引く業のよ うなものであった。  僕の生家は代々商売をしていた。父の代には種々な事業に手を拡げていて、肥料商を初 めとして五つくらいあった。終戦直後、父はメチールで視神経を冒されてから、かえって 急に商売に対する勘のようなものを身に付け、傾いた家運を奇蹟的に支えた。  ところが、五十の歳に肝硬変となってあっけなく死んだ。それから残された莫大な借財 に、母、祖母、弟と僕は苦しむはめになった。そんな中で夢中に父親を描いた。追慕とも 恨みともつかぬ思いが、憑き物のように染み付いて離れなかった。  十年ほど経って、やっと再建計画も終わろうとしていた。その頃には、僕も弟も結婚し ていたものの、両方の家族ともひどく疲れきっていた。  相談がまとまり、定職のあった僕たちは生家を離れ、弟夫婦に家業を継がせるという形 をとることになった。しかし、僕たちが新居に移るや、母が子宮筋腫で倒れた。  忘れもしない、あのころころとした子宮。たまご大と聞いていたが、全摘出されたそれ は、大型のサツマイモ様で、はち切れんばかりに膨れ上がっていた。僕は、その中に自分 を昔のまま埋めてしまいたい気持ちになった。  それから日増しに祖母の精神が不安定となり、脳軟化の兆候が出てくるようになった。 母はその看病に明け暮れ、ますます痩せ細った。周囲はみかねて祖母を施設に入れる手筈 を整えた。昭和五十二年の正月のことである。  ところが、二月の中頃施設から危篤という知らせ。駆けつけてみると、白いベッドの上 ですでに息絶えていた。眼はきちんと開けている。心持ち開いた口許から、唾液に混じっ た薄い血が一筋垂れている。  「急性肺炎ですね」  担当医は言葉少なにそう言うと、合掌した。  規則では遺体は二十四時間霊安所に納めておかねばならない。だから遺体の処置が済む と、ひとまず家に帰って今後のことを段取りすることになった。  弟が運転するワゴン車の中で、タイヤチェーンの音を聞きながら、祖母の若い頃からの 苦労を思いやった。夫や長男に早くから先立たれ、頼みの綱の次男は酒に眼を奪われ、其 の上商売で苦しみ、挙句の果て、誰も看取るものもなく死んでいった明治生まれの一人の 女性。  僕は唐突にもやつれ果てた母の顔をそれにダブらせていた。それがまた妻の顔にも変わ っていった。そして、学生時代小倉で別れた恋人の青白い顔に、また二人の娘に。表情は すべて寂しげだが、不思議と澄んだ微笑を湛えていた。僕は体を前に屈めて車の中で大声 で泣いた。  弟が経営する小さな集合店舗の食品部門の仕事は、順調に展開した。しかし、母はリュ ウマチを患い、日増しに体力が弱まって、とうとう床につく身となってしまった。十数年 間の闘病末、急に症状が悪化したので県立の病院に入った。平成九年のことである。  「お母さんを一日でも長生きさせたくはないんですか」  若い救命救急医は、私たちを怒鳴るように言った。  そこで、主だった家族だけが相談した。結果を弟がその医師に告げた。  「今まで人一倍苦労をした人ですので、死ぬときは自然に死なせてやりたい。これが、 私たちの気持ちです」  医師は、非難するような目つきになった。  「このままでは、ここ二、三日の命です。・・・しかたがありません」  医師が言った通り、入院して三日目の夜中に血圧が急に降下した。主治医が駆けつけて からまもなく母は息を引き取った。何故か私は今度は涙が少しも出てこなかった・・・。  机の上に頬杖をつき、僕は下肢から昇ってくる冷えに耐えていた。  ――涙の谷の淵に浮かんだ一輪の水仙。永遠に白い野の花である。「ふるさと」なのだ、 女性は。そう僕は思っている。「水仙」という作品の作者林芙美子なら、そんなの子宮願 望からくる男の感傷的な偏見だというかも知れないが。  それから、僕はそのN氏の「水仙」の一言を力にしてまた物語を書き始めた。いつまで 続くか全く分からない。実は、当の僕もよい歳のとり方をしていない。安吾の言葉の通り 「あちら、こちら命がけ」なのだ。