ちぎれたノート

 喉が焦げそうで・・・。私は舌をしぼって液体を試みましたが、舌までがまるで焼肉。 只うらめしそうに天を見上げて又視界を下に戻し、この身一つ隠せそうな木蔭を求めるの ですが、無駄。どこまでも私に逆らいやがる。走ってゆけばつらい。只歩いてゆけ、歩い てゆけ。  富枝はいつも変な場所を好む。今日のこの誘いもあいつの仕業です。冬は積雪の中、秋 は雨降る日、夏は炎天。性懲りもなくこんな所が好きな奴だ。でも・・・、と自分の心を 思い返すに、こんな所で出会うことを私も自然に求めていたのではないか・・・。  私は、Mが若いころの習作を黙読しながら、時々目の前にいる当の作者の表情を盗み見 た。夕方、酒気を帯びて突然やってきたので、少々不快な気持ちになっていた私は、こう して長い文集を読む結果を自ら招いたことが疎ましくもなっていた。  「痕跡」という習作集で、主にMの学生時代の短編小説が収めてある。他の作品の傾向 と明らかに異質で、私の目に絡み付いてきたものがあった。「風と道と」というタイトル の10ページの短編であった。冒頭部を読みながら、「富枝」という女性は、何かモデル があるのかと考えた。  Mは離婚歴のある男で、中年になった今も独身である。大学時代、同じ文芸サークルで 活動していた。一年後輩だが、一旦動き出すと、周囲を省みないタイプであった。卒業し てからは、故郷の山陰に、あまり帰りたがらなかった。長男だということだけは知ってい たが、その他家庭のことは、ほとんど分からなかった。二人とも東京に住むようになって から、年に数回連絡をとって会っていた。私は結婚していたし、子供も三人となったので、 会う回数もしだいに少なくなっていった。会っても、格別何を話すということもなく、お 互い無事に生きてこられたことを確認するような感じになっていた。Mは、別れた妻のこ とを語るのをいつも避けている風であった。だから、私は、その「富枝」という女性のこ とをMに聞きただしたい衝動を抑えながら読み進めた。  彼は、空ろな目をガラス戸の外の暗くなった内庭に向けて、何かを思い出すような表情 をしていた。  「お酒がよかったかしら」  妻が、洋間のドアを開けて入ってきた。盆の上には、お茶が乗っているだけだった。  「急にお邪魔して、どうも」  Mは、不意を突かれたように妻の顔をソファーから見上げてそう言った。階段を上がる 足音がその時激しく響いた。  「あの子ったら、わざと駆け上がったんだわ」  妻は長男の普段の癖を知っていて、客に気を使うような言い方をした。  「家族があるって、いいですね」  Mは一人暮らしの自分の身を哀れむように、かみ締めながら言った。  「男二人、女三人で、ただ毎日どたばたやっているだけですよ」  妻は、私のほうを見ながら答えた。  妻が私の隣に座り、お茶を差し出す手先を見ていて、私は、一枚のチラシの中の写真を 咄嗟に思い出した。そして、そのことが糸口となり、この十日間の出来事を鮮明に思い出 すことができた。  この前の日曜日の午後に、妻と二人で美術館に行った。春になったとはいえ、まだ北風 が冷たい日だった。特別展の「Rコレクション」を見て、それから、二人だけで出ること は珍しいので、食事をして帰る予定でいた。車から降りると、急に雨が降り出した。  地下道に逃れ、美術館に通じる道を選ぶと、人通りが激しくなり、二人は人込みを掻き 分けるようにしてやっと上り階段までたどり着いた。  美術館の特別展は、予想に反して閑散としていた。どの作品も時代を感じさせる重みが あった。宗教的な背景をあまり知らない私は、聖母の前に横たわっているキリストの絵に、 自分の将来の姿を重ねて、立ち止まってじっと見つめていた。すると、妻が、「早く、早 く」と言う。行ってみると、この展示の呼び物の、ルノワールの「少女」の絵があった。 妻は、この少女はこの絵が完成した数日後に死んだそうよ、と耳元で囁いた。私は、髪に バラのような花を付けて、大きな丸い黄金色のイアリングを垂らした、目が異常に大きい その像を、何処かで見たような気がした。喪服のような黒い上着、それと境が定かでない 黒い色の背景。その中で、白い立ったシャツの襟と、笑みをたたえたふくよかな白い顔が 浮き上がって見える。暗黒の世界の中で、聖なるものが凛と漂っているような感じがした。  私は、記憶の底にあるこの像とよく似たものを探し始めた。  モヂリアニの少女像は、デフォルメされていて全く異質なものだ。日本の画家で、執拗 に少女像を描いた人を何人か知っている。しかし、それとも違う。私は、死の影を裏に秘 めて永遠に微笑む少女の姿、いや、女性の姿に「母性」、具体的には私の母を感じていた かもしれない。何処かで見たことがある・・・。そう感じたのは、深層の母なる存在とい つしか繋がっていたからかもしれない。  母は、若いころ全盲になった夫とともに、二十数年家業を支えて苦労して私たちを支え てくれた。五十歳で死んだ夫の仕事を引き継ぎ、母は、死に物狂いで生きてきた。そして、 晩年は膠原病と闘いながら、自然と弱ってくる体をうらめしく思いつつ、静かに息を引き 取った。長男の私は、順番からして、当然四国の高知にある家を継ぐ運命にあった。  私の祖母も母と同じような宿命に生きた明治の女性であった。・・・死者としての「母 性」。その上に今のすべての私の「生」はあるのかもれない。  「いい絵だね」  私が言うと、  「あなたは、マザコン的なところがあるからね」  と、妻は私をどんと突き放した。私は、これでいい、と思い、反発しなかった。  「いつだったかも、若い女の絵に見とれていたでしょ」  女性のことになると追い討ちをかけてくるので、答えようとしなかった。  「今、何を考えていたか、当てようか」と、私の前に立ちはだかった。  「お母さんのことでしょ」  私は、少し動揺しだした。  「あら、赤くなったりして・・・、図星でしょ」  「そ、それがどうした」私は、自分でもおかしいくらい口篭ってしまった。  「田舎のお母さんを見捨てたのは、結局、あなたでしょ・・・、お祖母さんも・・・」  私は、また、過去の苦い記憶を思い返さねばならなくなった。弟に家を譲り、母と祖母 を残して私たちだけが家を出たのは事実である。しかし、弟夫婦と私たちの夫婦が、両方 とも立ってゆくためには仕方のないことであった。弟にはどうしても家と商売が必要だっ たのである。私たちの苦労もそこから始まった。そのことは妻もよく理解しているはずで あった。  「また同じことを蒸し返すのはよそう」  私は、そこできちんと妻の言葉を食い止めたかった。  「そうね。私も共犯者だし、よしましょう」妻は、急に表情を和らげた。  二人は、その雰囲気のまま展示室を出た。  そして、美術館の入り口近くの、無料で入れるいくつかの展示を見た。  一枚の写真・・・。二人は、ある展示の入り口の一枚の写真にくぎ付けになった。それ は皺の刻まれた荒れた手の上に、一枚の男の子の写真が乗せられている、よく注意しなけ れば見過ごしかねない作品だった。この写真一枚を見ただけで、奥の深い世界に入ってい けそうな、そんな強いインパクトのある作品である。男の子は恐らく戦死したのに違いな い。受け付けのパンフレットを読むと、この展示の目的などがわかりにくい文体で記して あった。「わたしの一番大切なもの」というテーマもはっきりしてきた。  一番大切なもの・・・。もし、急に請われて、出してくれと言われたら、私は何を出す のだろう。たくさんあり過ぎて、かえって出しにくいかもしれない。ということは、何も ないということと同じではないか。  「君だったら、何をだすだろうかな」  「さあ、何でしょう、当ててごらん」  そう言われて、言葉に詰まってしまった。  二人は、直角に曲がっている展示場の入り口から中の方へ入っていった。すると、たく さんの手が私たちに向かって差し伸べられているような錯覚を感じた。その一つ一つの写 真を見て回ることは、相当な根気のいる作業だと思われた。両手の上に乗っているものは、 値段の高そうなもの、ちょっとした小物、仕事の道具、中には植物の小鉢もあった。  どちらともなく、口をつぐんで、一列に壁にかけてある四つ切くらいのサイズのパネル 張りの写真を見つめて、右回りに少しずつ動き始めていた。妻は私よりずいぶん時間をか けて見ているようすだった。二人の間の距離は、しだいにひらきはじめた。  私は、ひとりの世界を保ちながら、早送りのスライドのコマを見るような感じで、横歩 きに動いていった。  すると、位牌を乗せた掌が目に飛び込んできた。金文字の戒名が、ところどころ剥げて いた。信士と彫ってある。持っている人物との関係を想像してみた。しかし、選択肢があ まりにも多すぎて、一つの物語が出来上がらなかった。入り口の看板になっている作品は、 物語がすぐに出来上がった。この違いは何だろう、と思った。  最後のほうの作品の手には、「痕跡」と名付けた小型のノートが乗っていた。私は、そ の言葉をどこかで聞いたような気がした。「痕跡」・・・。この人は誰だ。知っている人 のような雰囲気を、私は直感していた。手に特色がある。掌が小さくて、指が非常に長い。 それでいて、指の関節の部分が太く飛び出している。男の手なのだが、繊細で、ひ弱そう な感じが伝わってくる。恐らく、背も高いに違いない。自分にとって大分近しい人・・・。  「ノート持ってた写真、覚えてる」  渋谷にある三十階のビルの最上階のスカイラウンジ風のレストランで、椅子に座るや、 私はそう妻に質問した。東京の夜景をこういう高さから眺めるのは、久しぶりだった。  「ええ。それがどうかしたの」  「痕跡という言葉が、いやにぼくのこころに引っかかるんだ」  事実、美術館を出てから、痕跡、痕跡と幾度となく口の中で呟いていた。痕跡は、ここ ろの傷の跡。私は、幾つも蓄えている。そして、まるでパソコンのアイコンのように、そ こを刺激すれば、かつての場面が限りなく出てきそうな気がした。  「あの人は、何をあのノートに書いているのか、非常に興味がある」  「私は、何にも感じなかったけど」  「そうか」  「日記じゃないの」  「だとしたら、よけいに興味が湧く」  私は、それ以上自分の気持ちを妻の前で述べ続けるのをためらった。せっかくの二人だ けの時間を独り占めにしそうな感じになったからである。  食事が出てきた。妻は、私が何か言い出すのを待っているようだった。しかし、私は、 この場にふさわしい旨い言葉が見つからなかったので、ただ黙って食べはじめた。妻は、 拍子抜けがしたような表情で俯き、ナイフとフォークを手にした。  数日後、Mに電話した。ずっと、「痕跡」の持ち主のことを考えた末、もう彼の他には いないと結論付けた。やはり、勘は的中した。ぜひ読みたいと言うと、彼は、少し間を置 いて、「誰にも見せたくない」と言う。「じゃ、無理は言わない。けど、かつて一緒に文 章に志したものとして・・・」と言いかけると、「分かった」と言って、また、言葉を探 しているように黙ってしまった。しばらく待っていると、「分かった。ニ、三日の間に持 ってゆくから」という返事を聞くことができ、私は喜んだ。  しかし、一週間たっても、彼は現れなかった。私は彼の性格を知っていたので、請求が ましいことは何も言わないでおこう、彼も事情があって悩んでいるに違いない、と半ば諦 めていた。ところへ、ある日の夕方、酒のにおいを帯びてMが訪れてきた。  洋間へ通すと、すぐに崩れるようにソファーにへたり込んだ。  「おい、人をあまり苦しめるなよ、なあ」  Mの様子がおかしいので、私はどうしたものかと、手をこまぬいていた。  「まあ、読んでくれ」と小型のノートを内ポケットから出すと、ポンとテーブルの上に  投げ出した・・・。  読みながら、私は、かつての学生時代のMの姿を形作ろうと努力した。そして、「富枝」 という女性と彼の関係の方へ関心が傾斜してゆくのをどうしようもなかった。  すべて読み終えた私は、作品のあらましを頭の中でまとめてみた。  「富枝」と「私」は、恋人同士で、いつも変わった場所で逢う結果になっていた。それ は、「富枝」の好みに起因していた。彼女のリードで何事も展開し、「私」は、半ば操り 人形のような形で、言いなりになっていた。そのことは、「私」にとって、苦痛とはなら ず、むしろ快感に繋がっていった。「富枝」と「私」の普段の生活については、何も語ら れていない。しかし、「富枝」は複数の男と関係を持っていて、「私」はそのことを承知 で付きあっていた。「富枝」は、結婚しているようにも解釈できた。  そして、ある夏の日、二人は渇きのために喘ぎ喘ぎ、あるお寺に到着した。「私」は、 鐘撞堂に行き、鐘を打ち始めた。激しい音が、寺の境内一帯に広がり、「私」はその音色 に酔っていたが、「富枝」の方は、のたうって苦しみ始めた。それに気づいた「私」は、 驚いて駆け寄るが、「富枝」は、顔色が真っ青で、嘔吐を催していた。そして、かすれた 声でうめくように言った。「赤ちゃんが、赤ちゃんが・・・鐘はいや、鐘はいや」。その 声を聞いて、「私」の四方に通じるこころの中の道が、ぐるぐる回転し始め、そして、ふ っと消えてゆく。気が付くと、「私」の周囲には何もなかった。「富枝」も、寺も。  すべて読み終えて、あらすじを整理した私は、ノートをMに返そうとした。その瞬間、 横にいた妻が、そのノートをすばやく私の手から抜き取った。  「ちょっとだけ、私にも読ませてよ」  咄嗟にMの顔を私は見たが、意外にも、表情ひとつ変えず、制止しようとはしなかった。  「うわっ、いやらしい」  そう言って、声をあげて読み始めた。  「・・・富枝は、私を横倒しにすると、唇を押し当てて唾液を私の喉に流し込み始めま した、ですって」  しばらく読むのを私は見ていたが、息が詰まりそうな気分になったので、ページをめく る瞬間に言った。  「おい、返せよ」  私は、力を込めてノートを妻の手から引き抜いた。そして、Mに、「許してくれ」と言 いながら返した。Mは、「私の作品を読んで、二人して、私を笑いものにしたいのか」と、 目を吊り上げながら怒鳴るように言った。  「ごめん。許してくれ。・・・そうじゃないんだ。誤解しないでくれ。ただ、君のこと がもっと知りたいんだ」  「今まで、すべて話したつもりだ。・・・もう話すことはない」  「いや、何と言うか、こう言っちゃおこがましいが、作品の底の真意というか、・・・」  「真意を知ってどうするんだ。作品は、作品として、ちゃんと読んでほしい」  「文学的な価値はさておいて、あの、学生時代の全共闘の闘士だった君が、こういう作 品を書いていたことが、私にとって驚きなんだよ」  そう言うと、Mの顔が見る見る青ざめていくのが分かった。私は、Mが、内ゲバ事件で 総括されたKと知り合いだということも知っていた。卒業してからも繋がりを保っていた かは知らない。しかし、卒業後、数年間姿を隠していたことは事実だった。サークルのO B会では、そのことが話題の中心だった。命が危ないんじゃないか、ということを言う者 もいた。文芸サークルは表向きの活動で、地下で、どでかいことをしているとという噂も 出てきた。  「・・・そうか、今までそういう目で私を見ていたのか」と言いながら、Mは、突然、 ノートを手にすると、二つに引きちぎって床に叩きつけた。  「おい、そこまでしなくてもいいじゃないか。言い過ぎた。謝る」  すると、妻が、唐突なことを言い出した。  「淫らな女、・・・赤ちゃん、・・・若い男は王子様。まるで、ラプンツェルの世界ね」  私は、妻の言葉の意味をすぐには理解しかねて、じっと口許を見つめていた。  「いえね。何でもいいの。例えばグリム童話の世界じゃないかと思っただけ」   その言葉を待っていたかのように、Mの顔に赤みがさしてきた。  「ラプンツェル。・・・間違いない」  「ということは、富枝は、ラプンツェル」と言いながら、私は、思わぬ方向に発展して ゆくこの作品世界に、ますます関心を持ち始めた。  「富枝は、ラプンツェルの娘と考えて貰った方が分かりやすいです」  「えっ、娘。娘は森の中で生まれ、森の中で育っていった。そして、王子、眼がつぶれ た王子は、ラプンツェルの涙で元の眼を取り戻す。その子が大きくなって・・・」と妻。 「童話というものは、ほとんどがハッピーエンドじゃないか。それがどうしてこの作品と 結びつくんだ」  私は混乱しながら言った。  「あなたは、七化けのグリム童話をしらないんだわ。いろいろあるのよ。残酷な話まで いろいろ。王子様だって、単に、若者となっているものもあって、しかも、この若者が最 後には、魔女、いやこれも男に対する怨念を持った普通の中年の女としてあるものもある けど、この魔女に殺されるというパターンもあるのよ。子どもたちには読ませられないわ」  「王子も殺されるのか」と私。  「そうよ。すべて童話はハッピーエンドとは限らない。ラプンツェルはまだお母さんの お腹の中にいたとき、お母さんが、ラプンツェル、野ヂシャという野菜ね、それを欲しが るものだから、お父さんが、隣の、魔女の畑から盗んで帰って食べさせるの。それを見つ けて、魔女がすごく怒って、怒鳴り込んできたの。事情を聞いた魔女は、そのことは許す けれど、その代わり、産まれてくる子どもが女の子だったらくれと要求したの。魔女の思 い通りの女の子が産まれると、約束どおり魔女はその子を貰い受け、ラプンツェルと名付 けると、男を近づけないように高い塔の中へ閉じ込めるわけ。そして、その子が大人にな った。魔女は、気が気でないので、ときどき娘の様子を見に行くの。塔の下で呼ぶと、彼 女の長い髪が、するすると降りてくる。それで引き上げて貰って、魔女は娘に会うことが できた。ところが、その長い長い髪で引き上げられたたくさんの男たちがいたわけ。その 中に、王子様がいたのね。彼女は、他の男とは違うこの王子様が好きになったの。そうし ているうちに子どもが出来るのね。ここのところ、少し曖昧で、誰の子どもか分からない はずなのに、物語では王子様の子どもとなっているの。このことに本人は気づかずに、こ こもおかしいけど、ある日、魔女に、このごろ洋服がきつくなって困るわ、と言うと、魔 女は、愛想が尽きて、その子の長い髪を断ち切って、森の中に捨ててしまう。それから、 ラプンツェルは、男の子と女の子を産むの。何も知らない王子様は、また彼女を下から呼 ぶと、するするといつものように長い髪の毛が降りてくる。それをよじのぼって、びっく り仰天。そこには怖い顔をした魔女がいたの。驚きのあまり王子様は、塔から飛び降りた。 すると、茨の棘が両眼にささり、失明するの。・・・この辺がいろいろあるみたいだけど、 普通には、ラプンツェルに出会い、彼女の涙が王子様の眼にかかり、光を取り戻し、めで たし、めでたしとなっている。けど、塔の上で殺される、というのもあるみたい。・・・ 私は、いろいろなのをごちゃまぜに話したみたいだけど、だいたいこんなとこね」  妻は、「お酒にしましょうか」と、Mの顔を見つめた。  「それがいい。そういう気分になってきた」と私。  Mは黙っている。  まもなく、燗をした酒とつまみが出てきた。  Mに勧めると、ニ、三杯立て続けに飲み干した。私と妻も少しずつ飲んだ。喉を刺激し て、液体が降りていくのがよく分かった。おいしいと思った。Mと飲むのも久しぶりだと 思うと、何かしら心が弾んできた。Mの過去を探るのは、何のためか。しきりに、そうい う思いが湧いてきた。誰にも、触られたくない過去がある・・・。  「野ヂシャのサラダでも作りましょうか」  妻は、笑いながら言った。酒のためか、こわばっていた顔がすっかり明るくなっていた。  「それにしても、野ヂシャさん、いや、ラプンツェルの母親は、よく子どもを手離す気 になったものだね」  私が言うと、妻は、また真面目な顔つきになって、「産後の肥立ちが悪くて、死んだと いう話もあるわ」と言った。  「一口に母親と言っても、千差万別ですよ」  Mは、母親という言葉に力を込めてそう言った。  「あなた方のお母さんについて、あまり話を聞いていないけど、今の状況から想像する と、とてもいいお母さんだった気がする」  Mは、反応を確かめるように言った。妻は、「さあ、どうでしょうかね、あなた」と、 私の方に振ってきた。私が黙っているので、また突然関心をそらすように言い出した。  「紫の上とまでいかなくて、藤壺いや女三の宮までゆくと少し危ないかな。夕顔までゆ くと、これは随分危ない。せいぜい・・・」  「おいおい、そりゃ、どっちの母親のことかい」と私が誘い水をさすと、妻は「もちろ んあなたの方よ」と前置きし直して、「・・・末摘花かな」と落とした。  Mは、「因果はめぐる、ですね」と、また深刻な語り口になった。  「女三の宮は、若菜の巻ですね。ラプンツェルは、野ヂシャ。ラプンツェルの娘は、若 い野ヂシャ。じゃ、ラプンツェルの娘は、若い菜、若菜ってことになりますね。光源氏の 後の妻、女三の宮は、柏木と密通し、薫を産む。光源氏は、義理の母藤壺と過ちを犯した 報いだと思った。・・・因果はめぐるですね」  「若菜」。その言葉が、酔った私の心に染み込んだ。 「富枝は、若菜なんだ」と私。 「そうです。その通りです」とM。 私の衝動は、もう抑えが利かなくなっていた。 「君の別れた奥さんは、若菜に違いない」 Mの表情が、また青ざめてきた。 「・・・今日はこれで失礼します。人を侮辱するのにも限度というものがある」 立ち上がって、玄関の方へ急ごうとするMを、妻は慌てて引きとめようとした。   「モデルなんて、本当はないんです。ラプンツェルから若紫に続く、いや、時間的には 逆だけど、この世界の螺旋軌道から決して逃れることは出来ない。私は、このごろそう思 い始めました。・・・ただ、砂が、パラパラと降っているだけです、この世は」  Mは、そういい残すと、激しく玄関のドアを閉めて消えていった。    翌日の夕方、家族が揃って食事を済ませると、私は洋間の椅子でしばらく休んでいた。 昨晩の出来事が、また蘇ってきた。「俺は、悪い奴だ。自分のエゴでまた友を失ってしま った」。そういう苦い思いだけが胸の奥底に残っていた。四国の家を出てきたのも、本当 は家の束縛から解放されたかったからではないのか。だから、実の弟まで疎遠になってし まった。それに、子どもたちも、大きくなるにつれ、どんどん自分から離れていってしま う。最近、将来のことなどをじっくり話し合ったことがあるのか。今日の夕食後も、三人 の子どもたちは、そそくさと自分たちの部屋に逃れていった。  妻が入ってきて、「おやっ、忘れ物」と、眼を丸くして言った。そして、ちぎれたノー トを拾い上げた。  「ああ、ここね。砂がパラパラっていうところ」。そう言いながら、その部分を読み出 した。 「道は風が出てきたので多少涼しくなりました。しかし視野の半分位に小高い丘の森が迫 ってきているのに、草がすべて枯死していて淋しく思いました。風は砂塵を巻き上げる程 に強くなってきました。彼女はパラソルを風の吹く方向へ向け私も砂塵から守ってくれま した。パラパラとパラソルに砂がぶつかります。パラソルの内だけが真空になった様です。 彼女の下駄の音だけが別世界のものの様に軽い音をたてます。/「何処へゆくの」/私は 今日の目的地を知りたくなってそういうと、/「あの森の中のお寺よ。池があってほんと に綺麗よ」/流し目で私を促します。・・・」  「流し目なんて色っぽいわね。たくさんの男たちに流し目を送っていたのね」  妻は、抜き読みを終えると、そう締めくくった。  「・・・・・」  「何を考えているの。当てようか。・・・長い髪の女でしょ。そういう人がどこかにい て、下から呼ぶと、するするとブロンドの髪の束が降りてきて、必死に昇りたいんでしょ。 騙されていると知っていても。男って、いつも誰でもそうだと思う。後から後から入れ代 わり立ち代り昇ってゆく。引き上げる女も女ね。だれかれ構わずに引っ張り上げるんだか ら。そういうものよね。永遠の煩悩の綱だわ」  私は、またもとの話に戻らざるを得なくなった。  「Mは、いつもそこから出よう、越えようと思っていた。一人身になってから、いっそ うそういう気持ちを強くしたと思う。でも、越えられなかった。だから、ノートを捨てら れなかった。過去を引きずっていたんだ」  「あなたは、越えられるの、ラプンツェルの世界から」  「人間である限り、それはだめだよ」  「本当は、後悔しているんでしょ」  「何を」  「東京まで出てきたこと。それに・・・、私と結婚したことも」  「今更答えてもしょうがないじゃないか」  「そうね。ごめんなさい」  しばらく二人は黙り込んでしまった。遠くで電車の音がかすかに聞こえてきた。  「物語にはいつも続きがあるものよ」。そう前置きして、妻は詩を紹介した。             かぐやひめ             竹のなかから             うまれた姫は、             月の世界へ             かへって行った。             月の世界へ             かへった姫は、             月のよるよる             下見て泣いた。             もとのお家が             こひしゅて泣いた、             ばかな人たち             かはいそで泣いた。             姫はよるよる             変はらず泣いた、             下の世界は             ずんずん変はった。             爺さん婆さん             なくなってしまうた、             ばかな人たちや             忘れてしまうた。  「金子みすゞの詩だわ。人の世界は、こうなってしまうのね。かぐや姫は、ブロンドの 長い髪を持っていなかった。だから、越えることができた」  妻は、そう言いながら部屋を出て、二階の子ども部屋の方に上がっていった。スリッパ の音が、家中に響きわたった。また、電車の音が聞こえてきた。  一週間後、MからEメールが届いた。妻と二人で、食いつくように読んだ。  まず、お礼を言います。僕の「宝物」について、心を込めて二人で語って頂いてありが たく思っています。  でも、一つだけ気が付いていないものがあります。それは、「鐘の音」てす。 これは、 僕の祈りです。懺悔です。  本音を言います。富枝のモデルはあります。・・・それは、私の「義母」です。 その ことを越えようと苦しみました。でも、だめでした。自分も、別れた妻も出来ませんでし た。「業」は恐ろしいものです。でも、作品ですから、あくまで 虚構の上で、というこ ともあります。  しかし、「痕跡」を破り捨てて、私の闘いは終わりました。惨敗の形で。以前、身を隠 したことがありますが、今度もしばらくそうします。 いつかまた、気分を改めて会える日を待っています。                           では、それまで、さようなら。
 (筆者補記)  この作品を書くに当たって、次の資料を参考にしました。  「新装版 金子みすゞ全集 T〜V」(金子みすゞ JULA出版局)  「習作集 痕跡」(瀬本明羅 著)   「完訳 グリム童話集 T〜X」(金田鬼一 訳 岩波書店)  「本当は恐ろしいグリム童話 T U」(桐生 操 著 KKベストセラーズ)   「ベストセレクション 初版グリム童話集」(吉原高志 吉原素子 著 白水社)  「グリム 森と古城の旅 メルヘン街道をゆく」(NHK取材班 宮下啓三 日本放送出版協会)  また、拙作「ビークル」は、「そんなばかな!」(竹内久美子 著 文春文庫)を参考にしました。  この作品の中で、ビークル(vehicle)の訳語を、「車、船」としました。  「船」を入れたのは、筆者の比喩的な解釈によります。  そして、タイタニック号が「座礁」したという部分も、虚構として表現しました。  お気づきの点がありましたら、遠慮なく、メールしてください。