ビークル
唯脳論というのがある。具体的には何某という学者が唱えている。人が知覚し、考え、
感じることのすべては「脳」のはたらきに帰一するという理論である。また、人は利己的
遺伝子の乗り物にすぎなく、限りなくその遺伝子は生きつづけるのだという。まだある。
物理学である。古典的なニュートン力学、アインシュタインの相対性理論、量子力学。す
べて一言で言えば唯物論である。
M氏はいつものように、肩掛けのカバン、両手に大きな書類袋の姿で、会社の四階まで、
その日も階段を昇っていった。心の内でぶつぶつと繰り返される小言のような「私も物に
すぎぬのか」という言葉が湧き上がってくるのを御しかねながら、五十五という自分の歳
を思っていた。晩秋のある金曜日のことである。
さて、そのM氏であるが、その歳になるまで女というものを知らない。結婚の経験があ
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るから、そういうことを人に言えば信じて貰えないので、そのことは誰にも言ったことは
ない。しかし、事実は事実だからしようがない。酔った勢いでひょいとそのことを言いそ
うになったことが何度かあったが、危うく喉元でこらえた。M氏にも人並みの自尊心、羞
恥心はあるのである。
M氏の会社の建物にはエレベーターというものがない。五階建てのビルではあるが、古
いものなので、いまだ、それを付けたらいいなどと言うものがいない。会社のだれもが、
そういう余裕のないことを知っているからである。パソコン。ああパソコンですか。それ
がちゃんとあるんです。M氏はその矛盾を矛盾とも思わないでいた。
M氏は、その日も総務部広報課の「部下」の若い女性にお茶を運んで貰い、喫みながら
その顔を間近に見、ほのかな化粧の匂いを感じ、それで「女」のすべてを知ってしまった
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ような満足感を感じていた。
仕事はPR誌、社内報、社史などの編集が主なものである。変化はない。激務でもない。
自分が他から疎んじられているという感覚もない。机の前に陣取ると、目の前の割り付け
用紙、写真や文字の原稿を見ながら恍惚感に浸るのである。
セルフィッシュ・ジーン(利己的遺伝子)という言葉がまた顔を擡げてきた。私こそ「
セルフィッシュ」ではないか。子供を設け、家庭を築くという義務を怠った点では。それ
が人の最大の務めであるというなら、私は最悪な「セルフィッシュ」な人間である。一人
で好きなように生きる。これは「セルフィッシュ」でなくて何であろうか。道徳・倫理を
述べているのではない。社会性ということを言っているのである。・・・などと、旧型パ
ソコンのキーを叩きながら、呟いていた。
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しかし、自分もセルフィッシュ・ジーンの乗り物ならそれをのちの世に伝えない、とい
う点で却って世の中に貢献しているのだ。弱いジーンは淘汰される。それでいいのだ。「
M」というビークル(乗り物・船)は「M」というジーンを乗せたまま消え去るのだから。
また、若い女性の部下が近づいてきた。あの匂いを漂わせながら。
「課長さん、今夜の打ち上げの会、結局何人になったでしょうか」
M氏は「課長」という言葉にも劣等感を刺激させない。
「うん。そのことだがね。○○君がいけば八人だ。○○君に、君から聞いてくれないかね」
若い女性の「部下」は、部屋の入り口近くの席に座っていた三十くらいの男に何やら尋
ねている風であった。
また近づいてきた。
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「欠席だそうです。子供さんの具合が悪いそうで・・・」
「そりゃ残念だ。・・・じゃ、連絡よろしく頼むよ」
M氏はそう言いながら、カラオケの題名を考えていた。歌いたくはない。「部下」も歌
わせたくない。が、「上司」という名前が結果として歌わせることになる。それは自分で
どうしようにもしようがないことだ。
M氏はキーを叩きながら、奇妙な事実に気がついた。前日入力した文章の中の一つの単
語が全く別のものに変わっていたのだ。文章の内容は社内報秋季号の「消息」という欄の
一部であった。
<・・・座礁から退け>
「座礁」
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とM氏は何度も反芻した。確かにここだけ入れ換っている。それは、前後の文脈からし
てもおかしな語であった。一見して分かる内容である。
M氏は、もとの原稿を急いで探した。しかし、どこにもない。
「おい!君たち、私のパソコンをいじったんじゃないだろうね」
数名がふり向いたが、返事をする者はいなかった。
長い沈黙が続いた。
「・・・そりゃ大変な誤解じゃないんすか」
若い男性の「部下」が怒りを押し殺したような声で言った。
「・・・いや、ごめん。・・・ちょっとね・・・」
おかしなこともあるものだ。だれかの悪戯だ。そうに違いない。原稿もないことだし。
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彼は心の中で呟きながら自分の周辺を探してみた。狂ったように動き回った。
すると、机の脇の抽き出しの下の床に紙の端がのぞいているのを見つけた。引っ張って
よく見ると、原稿だった。ほっとした。退職者からの寄稿だったのだ。文章を読み返し、
元の語が何であったか確かめようと思った。すると、< から退け>とあり、どう見て
も、元の語が判読できなかった。
「消えている」
元の語が何であったか思い出そうとした。しかし、どうしても思い出すことができなか
った。不思議なこともあるものだ。いや、私は夢を見ているのだ。そうに違いない。彼は
改めて周囲を見回してみた。ちらと時々こちらのようすを盗み見ているものがいるものの
これが夢だという証拠を探し出すことはできない。
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M氏は、その原稿を机上にもどすと、改めてディスプレイを見つめた。
<・・・座礁から退け>
黒い文字が異様に光って見えた。
M氏は、また、何度も口の中で言ってみた。もう仕事が手につかない程混乱していた。
時間が止まったようにも感じた。
五時を過ぎた頃になり、やっと冷静になってきた。周りの「部下」たちは、心なしか浮
かれているような気がした。片付ける音がにぎやかに部屋中に響いている。
「車の手配がすみました」
先程の若い男の「部下」がそう告げにきた。M氏も片付けを始めた。
みんなが先に降りてしまった階段をM氏は一人ゆっくりと一段一段踏みしめながら下っ
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ていった。
「座礁とは、どういうことか。何が、いやだれが座礁しているのか」
M氏はその単語の意味を考えた。
「啓示」
頭の中にそのような単語が浮かび上がってきた。
「セルフィッシュ・ジーンに対する啓示だ」
そう考えたことが、M氏の心を軽くした。
「パブ艶」と記してある広告燈の下で人員点呼が始まった。M氏はマイクロバスの運転
手(といっても同じ社の社員だが)にお礼を述べ、自分も入れて計七名いることを確かめ
ると、パブの入り口のドアを押した。中は狭く、二十名も入れば一杯になるくらいである。
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先客の二人は、団体が入ってきたので、そそくさと出ていった。
「おい。貸し切りだ。貸し切りだ」
そう若い「部下」が叫ぶと、急にみんなの表情が明るくなった。フロアを占拠した感じ
で、だれもが居座ると、「課長さん、始めましょう」と若い女性の「部下」が鼻にかかっ
たような声で言う。M氏は、広報誌が百号に達したことの意義を述べ、みんなの努力に対
するねぎらいの言葉を述べた。終始緊張していた。それから乾杯すると同時にカラオケの
激しい調子の曲が流れ出した。
M氏は、注いで回ろうと、あちこちばたばたしたが、逆にしたたかに飲まされてしまっ
た。ものの三十分もたたないうちにすっかり酔いが回って、足がふらついてきた。
一時間くらいたつと、M氏は何か大きな声で叫びたい衝動に駆られた。頭の中であの「
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座礁」という文字がぐるぐる跳ね回っていた。
「座礁だ。座礁だ!ビークルが座礁だ!」
M氏は声をしぼって叫んだ。
「おい、みんな、課長はタイタニックになったぞ」
だれかがそう言うと、どっと笑い声が湧き上がって狭い部屋いっぱいに広がって、M氏
を息苦しくさせた。
それから、自分でも訳のわからない言葉がつぎつぎに飛び出してきた。音楽も止まり、
みんなが、彼のところに集まってきた。M氏は「セルフィッシュ・ジーンが座礁したんだ!
俺はどうなるんだ!」と叫ぶと同時に気が遠くなり、どっと床に倒れてしまった。
・・・どこからともなく、「カーン」という音がして、ジュース缶のようなものが階段
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を転がって落ちるような感じがした。音が階段中に広がって反響した。M氏は、どこかで
寝ている自覚があるものの、そこがどこかわからなかった。そして、ふと思い出した。そ
うだ。パブへ行く途中、会社の階段で何か缶のようなものを私は蹴ったのだ。
M氏は徐々に記憶を取り戻した。それから私はその音を聴きながら、物と音、つまり物
があるから蹴れば音が出るという単純な三次元の世界のことを考えていたのだ。私は、そ
の三次元的世界の、しかも量子力学が絶対視される檻の中のビークルにすぎないこともつ
きつめて考えていたのだ。その思念は、何もそのときだけのことではない。おのれの生き
るということのテーマでもあったのだ。「私も物にすぎぬのか」つきつめて言えばそうい
う言葉で表すしかない内容のことであった。
M氏は暗闇の中で、思い切り手を伸ばして周りの状況を触って確かめようとした。
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また何かが転がる音がした。寝返りを打ってその物を探ってつかんでみた。丸い物だっ
た。M氏はその形から即座に、目覚し時計だと気づいた。・・・ということは、私は自分
の家に居る。だれかが、泥酔した私を家まで送ってくれたのだ。しかも、布団を敷いて寝
かせてくれたのだ。お陰で風邪をひかずにすんだ。M氏は「部下」たちの善意を身に染み
て感じた。
電燈を点けようと躰を起こすと、激しい頭痛が襲ってきた。
明るくなった室内を見回すと、何も、どこも変わっていない、まぎれもない、自分の家
であった。単身赴任というのでもない。妻といたほんの数か月を除いて、ずっとこの家で
故郷から遠く離れて住みついていた。今更のように、その長い旅路がしみじみと胸に迫っ
てきた。もし子どもがいれば・・・。そう考えたこともある。もし再婚していれば・・・。
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そう考えもした。しかし、すべて「もし・・・」で終わり、実現への努力を敢えてしなか
った。彼は時計を見た。午前三時半であった。「もう少し寝よう」彼はそう言って電燈を
また消した。
すると、また、会社で見た「座礁」という言葉が気になり出した。
「座礁」しているということは、私の今の生活のことか。ということは、家庭を築いて、
セルフィッシュ・ジーンを後世に残せということか。それとも全く違うことを「啓示」し
ているのか。全く違うこと。M氏は、はたと論につまづいてしまった。全く違うこと。・
・・例えば、人は本質的に物ではないこと。しかし、こう考えると、人だけではなくなっ
てくる。動物も、植物も、地球も、宇宙も・・・すべて物として存在するにあらず。そう
いうことか。私のふだんの思考・思念が根本的に「座礁」しているということか。とする
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と・・・。M氏はますます混乱してくる自分の状態をはがゆく思った。そして、挙げ句の
果て、宇宙を貫く意志という風なことを仮想してみた。そして、うん、旨い考えだと悦に
入った。唯物論に対するアンチテーゼとして、最強の理論だと思ったのである。
しかし、私に、私に啓示を与えたのは何故か。それは単なる誤解や誤認にすぎぬのか。
その疑念に対しては、少しも明解な解答を下すことはできなかった。
M氏の疲労は極度に高まっていた・・・。
「おはよう。きのうは醜態を晒してしまって・・・。いや、感謝しているんだ。ありがと
う」
M氏は二日酔いの頭をふりしぼるように、できるだけ快活にみんなに告げた。
「課長はタイタニックの映画観たんですか」
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若い男が彼に尋ねた。
「あっ、ううん、観た、観たんだよ」
「道理で・・・。・・・でもビークルとか何とか言ってましたけど・・・」
M氏は、また昨晩のことを再現しそうな気配に嫌気がさしたので、「そんなこと言った
かな」と、とぼけることにした。
彼は、机につくと、パソコンのスィッチを押し、ウィンドウズ3.1を起動させ、一太
郎の画面上に、昨日の文字を確かめようと焦っていた。
「消えている」
< から退け>そう表示されている画面を、目をこすりながら、じっと見つめた。
原稿だ。原稿の消えていた文字はどうだ。机の中に整理しておいた用紙を慌てて取り出
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した。
「消えている。昨日のままだ」
M氏はこの事態をどう解釈してよいか迷った。私の昨晩の結論は正しいものだったか。
もし、正しければディスプレイに文字が残っていてもよいはずだ。でも、元の文字に戻っ
ていないところを見ると、夢や幻ではない。このことだけは断言できる。
M氏は、その日初めて、ビル群の遠くの澄んだ秋空を眺めた。冬を感じさせる空模様で
あった。
その日、帰宅してから、M氏は、こんどは、擬音語ということをふと考えて、それに凝
り始めた。
ある詩人は異星人の生活を「ネリリしキルルしハララし」ていると言った。旨い言葉だ。
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またある詩人は、犬の鳴き声を「のをあある とをあある のをあある やわああ」と表
現し、哀しさを滲ませた。M氏は、言葉の持つ世界の奥深さを思った。
・・・すると、人の生きざまを表すよいオノマトペはないものか。M氏は考えあぐねて、
「ポロ ポロ」という言葉を思い出した。何某という小説家の小説の題名である。作中で、
ある神父が口にした言葉をそう表していた。真理を、この世、いや宇宙の「座礁」を乗り
越えた真理をさりげなく「ポロ ポロ」と述べる。そんな人になりたいものだ。「ポロ
ポロ」と述べ、「ポロ ポロ」と生きる。こんな生き方もあってもよいではないか。
M氏は、室内燈の光を見つめながら、そして、その光に浸りながら、「ポロ ポロ」と
幾度も念仏のように唱えた。 (了)
(1998年11月23日)
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