侵 犯                      村上 馨
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    一見涼しそうと思えた公園のベンチも風が止んだとたん急に蒸し暑くなった。梅雨空の隙

   間から射し込む日差しを男はやけに肌に食い込みそうな熱いものに感じた。事実それを証す

   ようにやがて男の額には玉の汗が吹きだし、長袖のワイシャツは腕に貼りつきべと付いた。

   だが男は、すでに食べはじめた弁当をしまい込む訳にはいかなかった。何事にせよ、作業を

   途中で中断させることは男の性分ではなかった。

    公園の入り口にあるコンビニエンスストアは、転勤となったここ一年、男の行き付けの弁

   当屋でもあった。店員の女の子とも顔見知りになった。その店の弁当が他の店に較べて格段

   美味しいという訳ではなかった。また男のセクシャルな嗜好から言っても、その女店員が格

   段惹かれる女という訳でもなかった。ただ毎日弁当を買うことだけを機に顔を合わせる他人

   でありながら、奇妙な安心感を覚えさせる女であった。男がこの店で弁当を買うことに決め

   た理由はこの一点に尽きる。お互いが置かれている事情や背景にまったく関知せず、毎日顔

   を合わせることだけを接点に何かが通いそうな・・・ただそれだけの関係に男は奇妙な仲間

   意識を覚えたのである。公園の入り口というのも条件としてはよかった。外回りを常とする

   営業マンの男にとって毎日昼飯をどこでとるかという些事にまで神経を注ぐことは面倒なこ

   とであった。それでなくても一日どこへどういう用向きで行くのか、丹念に行動計画を練り

   予め課長に提出しておかなければならなかった。無論結果は日報に記入してしていちいち報

   告しなければならない。これを毎日毎日繰り返さなければならなかった。この辛さはやらさ

   れたものでないとわからない。文字通り、自分で自分の首を締め上げる行為に他ならないか

   らだった。せめて昼飯ぐらいは自由気ままに、無意識にでも足が運べるくらい気遣いのない

   場所で取りたいものだと男はかねがね思っていた。

    単身赴任をして逸速く彼が考えたことは、誰にも邪魔されず一人静かに昼飯のとれる居場

   所と方法をまず見つけだすことだった。美味しいものを食べる。そのことが彼の中で重要な

   テーマとなることはまずないと言ってよかっただろう。小綺麗なレストラン。混み合う時間

   帯に座れるかどうか気を揉みながらドアを開け、喧噪の中、大きな声で『いらっしゃいませ、

   お一人さまですか?』と問われ、『はい』と答えるほど窮屈なこともない。ならば、好きな

   ように選べる皿盛りのおかずが置いてある大衆食堂はどうか?今度は我が物顔の常連客たち

   が幅を利かせていてさらに居心地が悪い。彼らを尻目に上客として店の天下を盗るにはたい

   そう時間もかかる。そうして彼はこの公園のベンチ、入り口のコンビニエンスストア、そし

   て女店員という構図で成立する昼の居場所に辿り着いた。おそらくこのうちのどれか一つ欠

   けても、それはもう彼の安息場所とは言えなかったのかもしれない。

    つい先刻、男がいつものように弁当を買い求めたとき、女の態度に今までにない変化が顕

   れていたのを思い起こす。POSレジを打ちながら彼女は男にこう言ったのだった。

   「いつもありがとうございます。今日は暑くなりそうですね」

    不意を突かれた男は咄嗟に何を返せばよいかとまどったが、長年培ってきたセールストー

   クで急場を取り繕った。

   「こちらこそどうも。いつもお世話になって助かっているよ」

    すると不思議そうに女は目を上げた。

    お互いに使った『いつも』という言葉が、互いにいつ頃から相手を意識していたことにな

   るのか、女の方も過去に時間の物差しを押し当てはじめたようにも思われた。

   「お大事にどうぞ」

    そう言って女は釣り銭を男に手渡した。女の指先が受けた男の手のひらに触れ、男はどき

   っとした。その弾みで男は咄嗟に指先を折り返したが、一瞬指と指とが絡み合うような形に

   なってしまいどぎまぎしたが、すぐに何食わぬ顔で手を離した。釣り銭の手渡し自体はじめ

   ての行為である。今までこの店に何度も訪れた経験から言ってもはじめてのことだし、おそ

   らくこの店の接客マニュアルにはないはずだ。

   「ありがとう。でも『お大事に』ってのは、何だか病人みたいだねえ。ある意味じゃ当たっ

   てるのかもしれないけどね・・・」

   「すみません・・・外暑いのでついそんな言葉しか思いつかなくって・・・」

   「いやいや、いいんだよ。失敬、失敬」

    男は照れ笑いを浮かべながら店を飛び出した。手のひらが妙に生々しい温もりに被われて

   いるのを心地よく感じながら、男は昼時を過ごすために、もうすっかり自分の居場所ともな

   った公園のベンチに向かった。歩きながら男の脳裏に『未必の故意』という言葉が浮かんだ。

   触れられた弾みに釣り銭を握り取ろうとして、条件反射のようにこちらの指を折り返したよ

   うに思えたが、急にどぎまぎしたこと、今も残る手のひらの感覚、それに何よりも触れ合っ

   た瞬間の微妙なタイミングの遅れが尋常ではなかった。それがいったいどこからくるものな

   のか・・・意図的な故意の匂いのあることは否めなかった。あるいは誤解か・・・

    弁当を急ぎ食べ終わったとたん、胸ポケットの携帯電話が鳴り出した。着信表示は妻から

   のものである。大した用事でもないことが多い。だが彼は努めて明るく振る舞うことにして

   いる。その方が波風の立たないことくらい彼は百も承知している。それでなくても妻は子供

   たちのことであらぬ心配を必要以上に増殖させている。鳴る電話の九割方はそうした類の電

   話である。

   「どうした?みんな元気だろうね」

   「ねえ、今度の休み帰ってもらえる?」

   「年度予算の策定時期で忙しいんだが、どうした?事と次第では帰れなくもないが・・・」

   「日曜日に美咲のピアノの発表会があるの」

   『なんだまたピアノか・・・』と言いかけて慌てて口を噤み、別の言葉に代えた。

   「そりゃあ、是非見たいなあ。わかった何とかするよ。美咲はどう言ってる?」

   「それが・・・あまり気乗りしない様子なのよ」

   「そりゃあいけないなあ。出るからにはそれなりの気持ちでのぞまなくちゃ。おとうさんが

   楽しみにしてるって伝えといてくれよ」

   「それにね、あなた男だから心理わからないかもしれないけど、あの子**がはじまったの

   よ」

   「えっ・・・なんだって?」

    携帯電話特有のエコーが起きて時々言葉がわからなくなる。

   「初潮ってこと」

   「そうだったのか・・・ナーバスな状態だったらあまり無理させない方がいいんじゃないの

   か?」

   「でもね、先生はこのところめきめき腕を上げてるから、是非出てくれっておっしゃるのよ」

    堂々巡りはつづく。男は腕時計を見遣る。貴重な昼休みのひとときはすでに失われようと

   している。

   「わかった、わかった。とにかく帰るようにするし、今夜部屋から改めて電話するよ。もう

   行かなくちゃならない」

    弁当殻を片づけ車に戻ると、すぐにシートを倒し、頭に後ろ手を組み大きく凭れた。目を

   瞑った。女店員のうっすらとした笑顔、美咲の拗ねた顔、妻の険しい顔が混ざり合って散乱

   していた。すぐには整理もつきかねた。システム手帳を取り出し、午後の予定を確認しよう

   としたとき、また胸ポケットの携帯電話が鳴った。見知りの同業者で、個人的にも気の置け

   ない間柄でもあるKという男からである。時々情報交換や愚痴めいた話をするために呑んだ

   りもしている。

   「ああ俺だ。ちょっと心配なことがあってね」

   「何事だい?急かし込んだりして・・・」

   「実はね・・・この間きみはじめて大きな取り引きをしたと言ってた、Sという会社ね、あ

   まりいい話聞かないんだ。ついさっきも知り合いから電話あってね、もう三ヶ月も支払い延

   ばされてるらしいんだ。心配だからきみにも一報入れておいた方がいいと思って・・・」

   「危ないのか・・・?」

   「一応、そういう想定もして対処しておいた方がいいと思ってね・・・」

    いやな予感が男の脳裏を走り抜ける。同業でしかも男よりもこの地での経験ははるかに多

   いKの情報だ。男を気遣ってか、多くを語らないだけに逆に信憑性がある。

    数ヶ月前のことだ。Kと二人呑みに出かけて、行き付けのスナックでやけに威勢のいい、

   しかも身だしなみのきちんとした中年紳士と意気投合した。男の好きな歌を歌ったので褒め

   てビールを勧めた。相手はすぐに名刺を差し出した。男も返し、仕事を聞かれた。男が扱い

   商品を説明すると、くだんの紳士は大きく頷き返し、良かったら近いうちに社にいらっしゃ

   い。計画していることがある。もしかしたらあなたのお役に立てるかも知れない、と言った。

   男は内心小躍りする心を抑えていた。顧客開拓は思うに任せず、課長からはきみの行動パタ

   ーンはおかしいんじゃないかと叱責されていた矢先のことだった。ライバルのSには悟られ

   ないように話をごまかした。一日ほど置いて名刺を頼りに社を訪ねてみた。くだんの紳士は

   スナックで呑んでいたときと変わらないほどにこやかな表情で男を迎え入れ、すぐに商談を

   はじめた。インターネットを使って新しいビジネスを展開したい。ついてはノートパソコン

   を40台ばかり納入して欲しいと言われた。バーチャルオフィスを作るのだと言う。価格の

   安いディスクトップタイプを要求されないのが不思議と言えば不思議だったが、このところ

   さっぱり実績の上がらない男は都合良く追いやってしまった。『あなたを信じてますから』

   と、男が一応のつもりで提示した価格をくだんの紳士はあっさりとのんだ。『よろしいです

   か?』と、逆に聞き返したほどだった。現地でセットアップしましょうかと言ったが『いや、

   そんな面倒なことまでいいですよ。うちには専門のSEがたくさんいますから』と断られた。

   一ヶ月ほどで商品を完納し、あとは代金回収を待つだけになっていた。

   「運転資金目的で引いたんじゃなければいいんだがなあ・・・流れてるといけないから、一

   応現物確かめておいた方がいいよ」

    Kにそう言われるとどきっとした。今になってみると思い当たることが多すぎた。

   「わかった。ありがとう。今からすぐに行ってみる」

   

    案の定だった。男の不安は的中し、すでに事務所は閉鎖されていた。新聞はもう何日分も

   溜まり、郵便受けに入り切らなくなったそれは玄関先に山積みされていた。急に糸が切れた

   ように男はそのまま玄関先に座り込んでしまった。課長に何と申し開きすればいいのか・・・

   この一件はすべて男の一存で進めていた。一見客であるにも拘わらず与信も取っていなかっ

   た。日報には大口取引先のI社の紹介として上げていた。『I社はきみの上得意だねえ。直

   接取り引きばかりじゃなく、紹介までしてくれるのか。きみには数少ない財産だ。大事にし

   なくちゃいかんぞ』と、課長は上機嫌でそう言った。

    その場からKに携帯を入れた。

   『ただいま電話に出ることができません。ピッという音が鳴り終わりましたら二十秒以内に

   用件をお話下さい』

    傾きはじめた午後の日差しが、ビルの谷間を抜けて男をスポットライトのように照らしは

   じめた。屈託ない会話を弾ませながら道行くビジネスマンが、男にはまるで超人のように見

   えてきた。

    立ち上がると、男は歩きはじめた。『取り敢えずあの公園に行こう。そこでゆっくりと考

   えを纏めよう』社に戻る気にはなれなかった。

    公園の入り口に差し掛かると向かいの通い慣れたコンビニエンスストアには煌々と明かり

   が点いていた。昼時しか入ったことがなかったので、その闇夜に浮かび上がって見える建物

   が、まるで閉ざされた透明なガラスケースのボックスのようなものとして映った。ガラス越

   しに女店員の顔が見えた。『名はなんと言うのだろう?』なぜそんな思いが噴き上げてきた

   のかわからなかった。今目に映るコンビニエンスストアも女店員も昼時までの捉え方と意味

   合いがまったく違っていた。そのことが不思議と言えば不思議だった。やっとの思いで座り

   慣れたベンチに辿り着いた。そこで男は煙草を取り出し、火を点けた。男は大きくゆっくり

   と時間をかけて吸い込むとしばらく目を瞑った。課長の前で、返す言葉もなく項垂れる自分

   の姿を想像した。一千万円を超える焦げ付きは、営業所では未曾有の額だ。課長は所長への

   報告を考える。所長は本社への報告を考える。本社の原因究明をかわし、いちいちもっとも

   な理由付けとマニュアルに沿った営業経過であることを理論付けなければならない。だが、

   付け焼き刃のようなそれがすぐに破綻することも目に見えていた。結局何をしても、何を言

   ったところで残るのは事実でしかないだろう。何もできやしない。また絶望的な気持ちにな

   った。堂々巡りだった。吸い殻が足下に何個も落ちていた。『辞表用意しとかなくちゃな』

   呟きが漏れた。だが、実際に紙になんと書けばよいものか男は知らなかった。『明日は本屋

   に行って文例集を買わなければならない』少しは気が楽になったような気がした。それにま

   だ一縷ののぞみはある。相手は倒産した訳ではない。幸い支払日まであと二週間ある。社長

   を捜し出して最悪分割でも何でも払って貰えればいい。『二週間の執行猶予か・・・』そう

   呟いたとき、背後で何やら人の蠢く気配がした。暗がりでよくは見えないが、声の響きから

   して明かに男女の交わりである。唇と唇を重ね合わせる音、男の手が女の下腹部をまさぐる

   らしい衣擦れの音がする。その音に男は異様な高ぶりを体の芯に感じはじめた。かつてない

   突き上げるもの、憤りにも似た情欲を感じた。男のいることを知ってか知らずか意に介する

   気配もない。男は勢いよく立ち上がって駆け出していた。『ここももう俺の居場所ではなく

   なった』裡で叫びながら男は一目散に公園を走り抜けた。

    駐車場の車まで辿り着いたとき、煌々と明かりの点いたコンビニエンスストアがまた目に

   飛び込んだ。そのとき、男は封筒と便箋を買っておかなければならないと思った。辞表を書

   いておくためのものだ。店の中に客は誰もいなかった。例の女店員が一人、棚の乱れた雑誌

   を並べ替えていた。男がドアを開けると、「いらっしゃいませ」と手は休めず顔を下に向け

   たまま言った。

   「こんばんは。また来ました」と、男は言った。

    女が振り向き、目と目が合った。

   「あら、こんな時間におめずらしい・・・」

   「得意先からの帰りにまた近くまで来たものですから・・・便箋と封筒がないかと思って・

   ・・」

    女は親切に文房具類の置いてある棚の前まで男を案内していった。

   「ずいぶん遅くまでがんばるんですね」

   「それが契約ですから。もうすぐ夜勤の方と交代します」

    男は腕時計に目を遣った。八時にあと十分ほどである。男はすぐに目に付いた便箋と封筒

   を取るとレジに向かった。女はさも機械的にレジを打ち、すぐ横の釣り銭受けにおつりとレ

   シートを置いた。今度は何事も起こらなかった。

   「ありがとう。また寄るね」

   「よろしくお願いしま〜す」と、女は語尾を引き伸ばした元気な声で言った。帰りを急ぐ気

   配があった。

    『やはり誤解だったか・・・』男はぽつりと呟いた。外に出ると、男は大きく息を吸い込

   んだ。それにしても不思議な一日だった。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。その音が

   だんだん遠ざかっていくのを聞くともなしに聞いていた。いつかどこかで、やはりこの音を

   同じように別世界から届く音のように聞いていたことがあったように思った。もう会社に戻

   っても誰もいない。無論アパートに帰っても誰もいない。そう考える辛さは、今まで思い及

   ぶことのない心の発動だった。

    『結局のところ・・・』男は反芻する。『俺にはいったい誰がいたことになるのだろう?

   妻・・・ちがう。娘の美咲・・・ちがう。会社の同僚・・・もっとちがう。ならば友人とも

   言えるKは・・・それもちがう』何れもそれぞれ関わる領域だけで上っ面しか撫でていない。

   男は心の奥に大きな闇を抱えている気がした。その闇は不可侵な領域にはちがいなかった。

   『名は何というのだろう?どこに住んでいるのだろう?』女店員のあのくぐもったような笑

   みにまた行き当たった。『もしかすると・・・この闇の中で彼女と会えるのかもしれない』

    『彼女はどんな闇を・・・』と、裡に問いかけようとしたそのとき、男の前方の暗がりを

   一人の女が俯き加減に姿勢を倒し足早に横切って行った。横顔の気配はまさに女店員だった。

   男に気づく様子はない。すでにいつも身につけていたユニフォーム姿ではなく、暗がりでも

   あったが間違いはない。思わず声をかけようとしたがその間もなかった。女は遠ざかろうと

   していた。『もうこれきりになるかもしれない』その切なさが衝動的に男を女へと駆り立て

   た。男は女を追いはじめた。どこかで声をかけて、何でもよいただ話がしたいと思った。

    道筋からいって女は駅に向けて歩を進めていると思われた。電車に乗ろうとしているのか

   もしれなかった。一駅か二駅も先だろうか。彼女はどんな町に住み、誰と暮らしているのだ

   ろうか。彼女の中にある闇・・・彼女の孤独それが知りたい。あのくぐもった笑みの奥に潜

   むもの、それと出会いたい・・・。男はすでに尋常ではなかったのかもしれない。

    駅の手前で彼女は突然ビューティーショップに入った。ガラス越しに中の店員と何やら言

   い交わす彼女の姿が映った。それはさながら無声映画を見ているようでもあった。男は彼女

   の前を通り過ぎ、駅舎に入ると二駅ほど先までの切符を買い、売店の陰の目立たない位置か

   ら彼女の仕草を逐一見ていた。蛍光灯の真下にいる彼女は、その表情のひとつひとつが至近

   距離で捉えるほどにもよく窺えた。彼女は、あれこれ悩んだ末に一本のオレンジ色のルージ

   ュを受け取ると、小首を少し傾げ、鏡をやや横目に流し見る格好で、薄唇に一旦強く押しあ

   てると、今度はそこに食い込ませるようにしながらゆっくりと引いていった。男はそのセク

   シャルな表情に思わず身震いする。視覚的に体の奥へと移入されていくそれが、男にとって

   悦楽と呼べるものでなくて何であったろう。引き終えてもう一度、今度は正面から鏡の中の

   自分を確認すると、彼女はそれを買い求めた。気に入った風の様子が窺えた。やがて店の外

   に出てきた彼女は、すぐに携帯電話を取り出し何やらひそひそ話しはじめた。昨日までの彼

   女とは違う彼女を見ていると、男は思った。

    電話を切ると、彼女は駅舎に向けて、男のいる方へと歩きはじめた。そこで目が合えば、

   声かけようと男は決めてはいた。が、女は目もくれず男の前を通り過ぎ、再び道を急ぎはじ

   めた。改札口を抜けた彼女は下り線のホームに回った。男も後をついた。電車に乗り込むと、

   彼女は空いた席があるにも拘わらず自動ドアに縋るようにして後背を向けて立っていた。男

   は車両を一つずらし、女とは向かい側になる空いた席に座った。その方が女の様子がよく見

   えた。一つ目の駅に着いたとたん、女は開いたドアをするりとくぐり抜けるように飛び出し

   て足早にまた歩きはじめた。男も慌てて飛び出した。不思議なことに女はそのまま改札口を

   出ずに、向かいの上り線のホームに回った。『忘れ物でもしたのにちがいない』男はそう考

   えた。ホームでの時間待ちの間に女はまた携帯電話をかけはじめた。それも不思議と言えば

   不思議だったが、忘れ物の確認をしていると思えば納得もできた。だが、忘れ物程度の相手

   が携帯に登録までしてあるのか?彼女は何の躊躇もなくすばやくダイヤルを打った。疑念は

   残った。

    やがて電車が到着し、男はまた女から一両ずらして乗り込み、同じような場所をとった。

   女の方も同じように自動ドアの前で後背を向けて立っていたが、時々ちらっと背後を振り返

   り、不安そうな眼差しを返すのを見た。それは誰かを探しているような気配とも受け取れた。

   男の中に不安と疑念が高まりだしたとき、電車はもう元の駅に着いていた。まるでこのとき

   に備えて身構えていたとでも言うように、女はドアが開くや否や身をこじ入れるようにして

   素早く外に飛び出した。つられて男も飛び出した。女の足は今度は改札口に向けて一目散に

   進んで行く。考える間もなかった。男の足もそれにつられて早足になった。

    「ちょっと忘れ物をしてね」と駅員に言って慌てて改札口を出ると、女が広場に向けて走

   り出して行くのが見えた。そしてそこでドアを開けて待っていた車になだれ込むようにして

   乗り込んだ。次の瞬間、男はその場にちすくんだ。女が乗り込んだ車のすぐ横にはパトカー

   が止められ、すぐに助手席から降りてきた警官がまっすぐ男の方に向けて突き進んできた。

   『こういうことだったのか、女の答えは・・・』

   「さっきから女のひとをつけ回してたろう」

   「つけ回してたなんて、そんな・・・あのひとはよく知ってる人ですよ」

   「いいから、いいから詳しい話は署で聞かせてもらいましょうか」

   「そんな・・・あのひとは私の仲間だ!」

   「まあ、まあ、そんなにいきり立たないで。ただ話を聞かせてもらいたいだけですから」

    そう言われながら、男は腕をぐいと警官の方へ引き寄せられていた。

    『これが任意同行ということか・・・』意に反してまで行く必要はないはずだが、その物

   々しさに男は抵抗力を殺がれていた。そのままパトカーに押し込められた。『これは犯罪な

   のか・・・』男には、どこでどう筋道が間違ってしまったのか、よくわからなかった。スト

   ーカー行為というあまりにも意外な結末を迎え、おそらくそれが見納めになるに違いない、

   女の逃げ込んだ車の中を見た。彼女は終始俯いていて、顔も上げない。父親らしい男に固く

   守られていた。彼女がつけられている気配を感じて、相談の電話を入れたのはこの父親だっ

   たのだろうと思った。そして彼女に任意同行にもっていくまでの手の込んだ入れ知恵をした

   のもこの父親なのだろうと思った。

    パトカーは動きはじめた。サイレンは鳴らされなかった。駅頭の人の群は、何事か起きた

   ものかと覗き込んだ。男は自分に向けられたそんな街の光景を遠い世界の出来事のように思

   いはじめていた。男の中を改めてこの不思議な一日が思い駆け巡った。このことを知った妻

   や美咲の悲痛に満ちた顔、課長のさも蔑んだ眼差しが次から次へと浮かびつ消えつした。男

   にとって今日の日が特異な出来事に満ち溢れていたとすれば、それは、過去のありふれすぎ

   た日々、その孤独な日々が闇の中に蓄積しつづけたものによって、咲くべくして咲いた毒花

   と思えた。そうであるならば、もう引き返すこともない。これでやり直せるのだ。男はそう

   思いつづけた。

    やがてパトカーは署の前に横付けされた。その厳つい建物を見上げると、玄関の軒の真ん

   中には大きな赤色灯が掲げられていた。男にはそれがまるで門出の証のように思われた。ま

   るではじめて校門をくぐる新入学を迎えた少年のような面持ちで、男は幾分手を振って勇を

   鼓したようにその固い石段を登って行った。

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