黙 契



                                   村上 馨

 そのすべてが、偶然でしかないにしても、千載一遇と言うほかはない逢瀬もたしかにあ るようだ。  九月に入っても一向に涼しい風には縁遠く、それどころか、八月の夏の盛りよりももっ と蒸し暑く風のない日が続いた。通勤途上いつも目に入る川向こうのビルの屋上に上げら れた大きな電光掲示板に表示される数字は、連日朝から30度を大きく越え、その赤い数 字の色だけが、川面にうっすらと立ち上る朝靄の中で、やけにどぎつく目に焼き付いた。  その日もいつも通り出社して席に着き、届いている夥しい郵便物にぱらぱらと目を通し たとき、土気色の角封筒に紛れて、私宛のやけに白い封書が目に付いた。流暢なペン字で 私の名がしるされており、脇に親展の添え書きがあった。差出人の月坂玲子という名前に 心当たりがなかった。社長が急逝してからちょうど一年目の命日が明日になるという日の       1
ことで、明日にでももう奥さん一人しかいない社長の家を訪ね、仏壇に線香の一本でも上 げておかねばならないな。と、考えていた。  文面に目を通しはじめて、やっと私は月坂玲子が誰であるか、その名前と顔を結びつけ ることができた。それには、おおむね次のような要旨で丁寧な挨拶文が書かれていた。  みなさまに三十年もの長い間可愛がられ、支えていただいた「スナック紅葉」は、今月 をもって閉店させていただくことになりました。この一年をかけてやっと心の整理もつき ました。今後は隠居し、余生を一人できるだけ静かに暮らしたい。みなさまにいただいた ご厚誼は終生忘れることはありません。そして末尾には、学もないわたしにはうまく言い 表せませんが、去年来読み続けていましたさる本の中で、紅葉にちなむこんな一節と出会 うことができました。店を畳むにつけても、また私自身にとりましても、まことに時宜を       2
得た言葉であるように思えたのです。と、前置きしてその一文が最後に添えられていた。  紅葉は千入の色を尽くして盛りありといへども、  風を待ちて秋の色久しからず。  名残を慕ふは一旦の情けなり。                                      かしこ  その店には、二度ばかり社長に連れられて足を運んだ記憶があった。それとなく、浮い た話として噂には聞いたこともあったが、男女の機微に疎い私には、それは夜の酒場での ひいきの店と馴染みの客との関係としてありていにしか映らず、たとえそれが高じたにし       3
ても、世間にはありふれすぎている社長とママとの艶話ぐらいにしか受け止めることがで きなかっただろう。 「紹介しよう。うちの社の間壁君だ。ぼくが今一番頼りにしている男だ」  普段ならまちがっても言われそうにない、そんな大仰な形容で、社長は私をママに引き 合わせたように思う。言われたママが一瞬眩しそうな目でカウンター越しに私を見上げた。 まるで溺愛する我が子を見つめるような情深い眼差しだった。なぜかそれだけが印象深い のだ。その後、もう一度仕事の接待か何かで社長とお客さんを連れて店に入ったことがあ るように思う。だが、私はもっと深い意味のある大事なことを忘れている。  社長が病院で息を引き取ったという知らせを、私は家で夜遅く受け取った。取り敢えず、 着るものも着ず社長の家に駆けつけた。やはり来るべきものが来た、という感じだった。       4
門の前に立つと、家中の明かりが煌々と点いていた。仏壇の前には、すでに両手を合わさ れて、もはや生前の面影はない青白い顔になった社長の遺体が横たえられていた。私には 知らされていなかったが、社長の病気が何であるかは薄々わかっていた。医者から家族は 知らされていたはずだし、すでに七十を越えた高齢ということもあってか、奥さんに取り 乱した様子は、少なくとも外見には少しもない。むしろ冷静で、とてもしっかりした立ち 居振る舞いであるとすら見て取れた。むろん、普段からそうした印象は取り分け強い人で もあったわけだけれども・・・  葬儀の打ち合わせは翌日改めてすることにして、私は社長宅を辞した。家まで帰り着い て車を駐車場まで入れてしまってから、なぜか私は携帯電話を手に取って、番号案内を呼 び出した。                                          5
「”スナック紅葉”は何番ですか?」  そう私は訊ねていた。 「もしもし、K社の間壁と言いますが、わかりますか?」 「まあ、間壁さん。ずいぶんお久しぶりだこと」  聞き覚えのあるママの声だ。 「実は・・・突然で言いにくいことなんですが・・・先ほど社長が亡くなりました」 「えっ・・・」  そのまま、受話器の向こうで声が途切れた。 「間壁さん、もう一度言って」 「社長が亡くなりました」                                   6
「そうだったの。今夜何時頃のこと?」 「八時十二分だったそうです。私に連絡が入ったのはつい一時間ほど前のことです。今宅 へ行った帰りです」 「ようこそ、わさわざわたしのようなものに電話していただいて、ほんとうにありがとう ございました。わがままついでだけど間壁さん。今すぐその足で店の前まで来てほしいの。 お願い・・・わたし下まで降りてますから」 「わかりました。じゃあすぐ行きます。十分もかからないと思います」  私は止めてしまったエンジンのキーを再び回した。零時前のことだったと思う。ママは 社長の死期が近いことをすでに察していたようだ。  人通りの途絶えはじめた狭い路地に私は車を乗り入れた。ぽつりぽつりと、まだ閉めら       7
れてはいない店店の明かりが通りに零れていた。ヘッドライトのまだ届かないはるか遠く に赤い点のような人影が見て取れた。ずっと外で待っていたのにちがいない。ヘッドライ トの光芒が近づくにつれ、目が深くこちらに注がれた。両手を胸で抱き合わせるようにし て、ママは立っていた。車を降りた私はしばらく言葉が出なかった。それほど哀しい目が 私の方に向けられていた。 「間壁さん」  今にも倒れそうだった。 「お気の毒です」 「どんな最期だったのでしょうか?わたし、その頃夢を見ていたの」 「店で、夢を・・・?」                                    8
「ちょうど客が切れて、ひどく静かだったの。店にはわたしただ一人。店の女の子がもう 一人いるんだけど、お客さんに誘われて一緒について出ていたの。有線放送にちょうどそ のとき、あの人の好きだった「長崎の夜はむらさき」が流れて来て、そのうち、わたしカ ウンターの奥の椅子に腰掛けてうつらうつらしてしまったの」 「どんな夢を・・・?」 「あの人がはじめて店に来たときのことでした」 「そうでしたか・・・」 「この三十三年の間、あの人がわたしに逢いにこなかった日はなかったのよ・・・」 「最期は意識が混濁してたと聞きました。そのまま逝かれたようです。きっと社長も夢を 見ておられたのかもしれませんね」                               9
 店の女の子が心配そうな顔をして降りて来た。 「お忙しいのに、わざわざお呼び立てしたりしてごめんなさいね。でも、おかげであの人 の死に目に遭えて救われたわ」 「ママさんを家まで送り届けてあげてください」  女の子は黙ったまま大きく肯いた。車に乗ろうとする私に、ママはまるで躰が折れたと 思うほど深々と頭を下げた。  結局葬儀の日には、月坂玲子の姿はなかったと記憶する。  その日も、前日と同じように蒸し暑い一日だった。残暑と言うより、まさに陽は盛りだ った。夕刻、社の仕事を終えて陽も幾分萎えた頃、私は命日の供養にと社長宅へと向かっ      10
た。家の門まで来ると、すでに夕闇が降りていたが、外灯も灯されておらず、中はひっそ りと静まり返っていた。留守なのかと思ったが、玄関戸を引くと驚いたことにするするっ と開いた。 「ごめんください」と、大きな声で呼ぶと、玄関に明かりが灯り、奥から白い洒落たパン タロンスーツに身を包んだ奥さんその人が現れた。茶の湯の師匠でもあるだけあって、い つ見ても居住まいを正している。なかなかの社交家と聞いていたが、なるほどと肯かせる ものがある。それに若々しい。とても還暦を過ぎた人とも思えない。 「ごめんなさい。外出していて、今帰ったものですから・・・ようこそおいでなさいまし た」 「日頃はご無礼ばかりいたし申し訳ありません。命日のごあいさつにと思いまして・・・」     11
「それはそれは・・・いつも気にかけていただいて恐れ入ります。まあどうぞ」  請じ入れられて、仏壇のある客間に入った。先に入った奥さんがすぐに明かりを点けた。 おそらく、その日はじめて灯される明かりなのかもしれなかった。慌てて仏壇の扉も開か れた。 「今お茶でもいれますから」と、言って奥さんは下がった。私は部屋の中を見渡した。ど こか冴え冴えとしいて、生活の染みた匂いがしてこなかった。この部屋に普段人が入るこ とは稀なのだと思えた。蝋燭に火を点け、香を焚いた。社長が人なつっこい顔で私の方を 向いていた。傍目には温厚な人柄だった社長が、心の奥にどんな闇を抱えていたのか、私 には知る術もない。社長もまたそれを、誰に告げることもなく、一人黄泉深く運んで行く しかなかったのかもしれない。ここは、社長の居場所ではないのかもしれなかった。        12
 奥さんの元を辞すと、私はしばらく歩いて堀端に出た。城下町の名残を留めるこの界隈 は、宵闇を過ぎると人通りはばったりと途切れる。私は堀沿いに歩いて、足を歓楽街へと 向けた。大橋の袂に出ると、すでに太公望たちが釣り糸を垂れて橋の上を連ねていた。ネ オン華やかな頃合いになると、この大橋は不思議な光景に包まれる。河面は万華鏡のよう に煌びやかな夜の光を映し、波に妖しく揺れる。そこに渡された大きな橋の上に太公望た ちがどっかと腰を据え、もう時間などどこかに放り投げてしまったような風情で缶ビール を呷り、煙草の煙をさも気持ちよさそうに空に燻らせながら、のんびりとただ時間を遣り 過ごしている。その脇を、釣り竿の列をを掻き分けるようにして酔っぱらいが行き来して は、橋の上で足を止め、太公望たちに下手なちょっかいを入れる。そんな光景が夜半まで 続くのだ。                                         13
 歓楽街に足を踏み入れた。本通りを中程まで歩き、そこで裏通りに入る。紅葉の絵をあ しらった電飾看板で店の位置はすぐわかる。階段を上った二階に”スナック紅葉”はある。 この階段を上って行くと、まるで風道のように、上から賑やかな話し声や歌声がここまで 流れ落ちて来たのだが、今夜は客がまだないのか、奥は静まり返っていた。社長はこの階 段を三十年もの間、毎日飽くことなく昇って行ったのだ。月坂玲子に逢いに・・・  ドアを静かに押し開けた。一人洗い物をしていたママがゆっくりと目を上げた。 「まあ、間壁さん。ようこそ来てくださいました。こちらへどうぞ」 「その節は、お気の毒なことでした。今日は一周忌ですね。昨日、お手紙をいただきまし た」  カウンターに腰を下ろした。                                14
「わざわざ目に留めていただいて、ほんとうにありがとうございました。実を言うと、何 だか今夜来ていただけるようなそんな気もしていたところですのよ」 「そうでしたか。何もしてあげることができなくてすみません。今、宅へ行って線香を上 げて来たところです」 「今すぐご用意しますから、少し待ってね」   そう言いながら、ママはまだ洗い物の手を休めない。 「奥さん、お元気でした?」  そのまま、目を上げずママは話しかけてくる。 「ええ、お元気そうでした。今日もお出かけだったようでした。ぼくが行くのと、お帰り になったのが、ほぼ同じ頃でしたから・・・」                         15
「活発なお方だからねえ。ダメージはないと思うわ」 「今日、仏壇の扉は開いていなかったと思います」  出し抜けに私はそう言った。ママが目を上げてこちらを見つめた。私が内心どちらに肩 入れをしているか、それで悟ったふうとも受け取れた。 「わたしには、あの人のむくろのひとかけらもないのよ・・・こんなことを間壁さんに言 うのもなんだけど・・・あの人がわたしに残してくれたものは、この躰の中にしかないの ・・・」 「早いものですねえ。もう一年過ぎたとは・・・」  水割りを用意したママが、カウンター越しに私の前に立った。意図的なものだろう、紅 葉をあしらった和服を着ている。服もだが、髪を結い上げたママの姿をはじめて見る。年      16
端を重ねてはいるが、たいそうな色香だ。話が途切れて目線を動かすたびに小首を傾げ、 白い襟足に残る後れ髪に細い指先をあてた。その仕草、その眼差しを見ていて、ふと思い 出す節があった。以前から、社長に向けられる眼差しが、他の男に向けられるそれとは違 うことは薄々感じてはいた。それを今、私は私の中に甦らせることができる。別段話し込 んでいるふうはなくても、ママはいつも社長の前を居場所にしていた。他の席に行くのは 用事のある時だけだ。そうして、何かの拍子にくだんの仕草をする。小首を少し傾げるよ うにして、指先を襟足にさりげなく回す。そのとき、やや細められた眼差しがあるともな くじっと社長の方に注がれると、唇は逆に薄く開けられていく、そんなふうだった。 「今月で畳まれるのですか?」 「ええ、そうすることに決めました」                             17
「まだいくらでもできるでしょうに・・・それに常連客もたくさんいることだし・・・」 「間壁さん、一口に三十年と言っても、それは長いのよ。正直言って張り合いをなくした の。それにお客さんもみんなわたしと一緒に年を取ったわ。新しいお客さんは、わたしの 力ではもう増えないのよ。おわかりになる?常連さんもいつしか働き盛りを過ぎて定年に なっていくのよ。週に二回も来てくれてた人は、一回に減り、そして終いには一月に一回 も来ればいい方になるわ。それが、ものの移ろいなのよ」 「寂しいですね。それで知らず終わりになるというのも・・・」 「そうはおっしゃるけど、間壁さん、そうしたものじゃないかしら?ことに水商売の縁と もなればね、なおのこと・・・そうじゃない?お客さんがお客さんの立場で、ママである わたし以上の器であれるはずがないわ。わたしが、そうさせてるのよ」              18
 なるほど、穿った話だった。翻って考えて見れば、私を取り巻く人の波にしてもそれと 大差はなかったろう。静かな夜だった。客足は依然途絶えたままだ。このまま、今夜は誰 も来ないのかも知れない。そんな気がした。従業員にもすでに暇が出してあるのだろう。 九時を過ぎたというのにその気配はない。 「ところで、お手紙の末尾にあった一文ですけどね。あまりに意味深いと思われたもので、 その出所が知りたくなりましてね。探して見たんですよ」 「おわかりになりまして?」 「随分と苦労しましたよ。こういう時、私がどうすると思います?」 「さあ・・・とんと及びもつかないけど・・・でもそんなことに大切な時間をかけていた だくほどのものでもなかったのに」                              19
「いいえ、強く惹かれました。殊に『千入(ちしほ)』という文字にです。私が長い間探 しあぐねていた言葉のように思えたからです」 「そうでしたの。そういうこともあるのね。で、どう探されました?」 「古語辞典ですよ。その言葉の使われている作品が引用してあることが結構あるでしょう。 図書館に行って、書棚の辞典という辞典をひっくり返しましたよ。それでやっとわかりま した。『とはずがたり』だったんですね」  ママは目を細めながら、そこに微かな笑みを浮かべたようだった。 「やはりおわかりになったのね。そういう方がいらしてくれると思えるだけで、わたしに は幸せなことだわ」 「『千入の色を尽くして・・・』ですか。凄まじい世界ですね。私には遠すぎる景色です」     20
「あの人とこんなことになるとは、思ってもみないことだったわ。とうとう何度も何度も 色を染めてしまったわ」 「『紅葉』という店の名は、どうして・・・」 「あの人と知り合う前に、主人と死に別れて水商売の世界に足を入れたの。そのときは、 まだ川向こうでお店勤めをしていたの。そこであの人と出逢って、それから三年ほどして ここへ店を出したの。店の名前は、そのときあの人がつけてくれたものなの。わたしは、 紅葉は見た目には美しいかもしれないけど、その内実は朽ち葉なのよって言ったのだけれ ど、あの人は、これはぼくの我が儘だからって言って、押し通したわ。どうしてもそうし たかったのよね。あの人のお父さんは、戦前朝鮮半島に渡り、あの人はそこで生まれたの。 十代の後半まで京城で送ってるのよ。そこで、あの人が見てきたこと、してきたことが、      21
思春期のあの人には焼き付いてるのよね、きっと・・・。おまけで今日まで生きているも のにとっては、紅葉に勝る美しさはないはずだって言うの。よくわからないけど、あの人 の心情はわかったような気がしたのね」 「おまけだと、そう言われたのですか?」 「ええ、あの人あまり理由を語らないのよね、特に自分のことはそうだったわ。唐突にそ んなことを言うのよ。あの人が何を抱えていたのか、三十三年間も連れ添いながら、結局 わたしにはわかっていないのかもしれない。いろいろ心の奥に溜めてきたことが、ぽっと あの人にそんなことを言わせるのだろうけど・・・わたしにわかることは、ただあの人の 心の澱みのようなものを肌で感じていたことだわ。あの人の懐にいるような気がしていた の・・・少し大袈裟だけどね。ねえ、間壁さん。わたしの話を聞いてくださる?あなたに      22
は話しておきたいの」 「ええ、是非・・・」  水割りグラスに半分ほど残っていたそれを一息に飲み干した。 「ロックグラスに換えてもらえますか?フロートで・・・」  ママが器用そうな指先でそれを作るのを見ていた。それは、おそらく社長の肌の上を何 度も這い、そこを慈しんだ指だ。 「間壁さん、あなたの心の奥にも誰か棲んでいらっしゃるのじゃないかしら・・・」  私はカウンターの上に頬杖をついてママの方を見ていた。ママがちらっと顔を上げて、 私の方を盗み見てはまたすぐに目を戻した。 「誰かを棲まわせることができるほどの器じゃありません」                   23
 ママがまたこちらを見遣って、今度は笑いかけていた。 「間壁さんも社長のように、含みある物言いをされるところがあるのね。都合が悪くなる と、そうなさるのかしら?ご自分の中にとても大事にしてらっしゃるものがあるわ。それ は何なのでしょうね?女には、いつ死んでもいいと思える真っ白な瞬間があるわ。それは 理屈じゃないの。躰の奥の叫びみたいなもの・・・」 「男には、その人のすべてがわかったと覚知される瞬間があるものです。それを大事にし ているのかもしれません。同じように理屈じゃありません」 「となりにすわってもいいかしら」  自分の水割りグラスを用意して、ママは私の隣に腰掛けた。 「今日はお会いできてほんとに良かった。じゃあ、聞いてくださる?わたしの話が退屈じ      24
ゃなければいいけど・・・」  そう言うとママは、独り呟くように滔々と語りはじめた。私にはその遠い夢物語が目に 浮かぶ・・・                     ◆                     とても寒い冬の日だった。店にまだ客はなかった。ママと今日は客足が悪そうね、と話 していた矢先だった。いきなりドアが開いて「おおーさむーい」と言いながら、コートの 襟を立て雪を被った二人の男が入って来た。 「まあ、ふくちゃん。どうしたの、そのかっこう」と、ママは言いながら常連らしい片方      25
の男に駆け寄り、すぐさま雪を払った。                       「れいちゃん、この方を」と、ママに促されて私は残された男に近づいた。男は『すみま せん』と、言った。どこか違うな、とそのとき思った。店に出て、日はまだ浅かったのだ けれど、今まで店に来たどんな客とも違って見えた。 「ふくちゃん。あなたはやっぱりいつも福の神ねえ」と、あまりぱっとしない冗談を口に しながら、ママはいつになく悦に入っていた。  その夜は、ふくちゃんが来てくれたにもかかわらず、間で一見客が二人あっただけで、 いつもなら、実入りが少ないと、ママはたいそう不機嫌になるところだが、ふくちゃんが いてくれたおかげで座は大いに盛り上がった。カウンター越しに、男二人と女二人が相対 峙し仲むつまじく時を過ごすことになった。ママがふくちゃんのお相手ばかりするので、      26
わたしは連れだったあの人と話すことになった。  最初にふくちゃんが「紹介しよう。長崎高商同期生の早瀬君だ。ぼくと違ってエリート だ」と、言ってあの人と引き合わせた。 「大手メーカーで出世コースに乗っていたんだが、奥さんの実家の跡取りが急死したんで 急遽帰ってくることになった。これから、そのメーカーの代理店として独立してこちらで やっていくことになる。店にとっては、俺よりプラスになる男だからひいきにしてやって くれ」と、あけすけなふくちゃんは、ママにそんな立ち入った事情まで聞かれる先から話 していた。まだ見も知らぬあの人だったが、そういった話には、ママはすぐに血色立つの で心配になった。同時に、そんな心配をするわたしが可笑しかった。 「余計なことは言わなくていいよ」と、あの人はふくちゃんを制したが、その顔には笑顔      27
が零れていた。とても優しい人なのだと思った。男の人として、今まで見たことも、遭っ たこともない、雲の上の人のように思えた。わたしとは違う世界の人と思えた。わたしと 言えば、主人と死に別れ、生活に窮し、その頃のそうした女の通り相場のようにこの道に 足を踏み入れた、行き場のない女だった。忘れもしない、あの雪のしんしんと降っていた 日、あの人はちょうど四十歳、わたしは二十八になろうとしていた。  その夜、あの人と踊った。ママが新しいデュークボックスを入れたからと言って、めず らしくふくちゃんをダンスに誘った。気の乗ったママが「あなた方もご一緒なさいよ」と、 言ってくれなかったら、あるいはその夜わたしたちが踊ることはなかったかもしれない。 だが、わたしたちは踊り、そのダンスのたった数分間の間に、わたしの中にもあの人の中 にもかつてない事件が起きていた。まだあの人と言葉もろくに交わしていなかったが、男      28
と女の間には奇妙な符合もあるものだ。あの人に片方の手を背中に回され、もう片方の手 と手がぎこちなく合わされた瞬間から、わたしは胸の奥が何者かに締め付けられていくよ うな激しい緊張感に襲われ、周りが見えなくなった。気がつかないうちにわたしは、あの 人の胸に躰を預けていた。わたしは目を瞑った。あの人のことは何も知らなかったが、あ の人のすべてを感じていた。しだいにあの人の指先に力が込められていくのがわかり、あ の人はわたしに絡めた指先を何度も繰り返し強く握りしめた。温かい手だった。わたしも また、握りしめられるその度に指先に力を込め、あの人に応じていた。曲が終わり、突然 部屋の中がしーんと静まり返り、わたしとあの人は尻切れとんぼのように急に躰を離した のだが、その仕草はどことなくぎこちなかった。わたしの中に起きたことをママに気取ら れまいと、自分を包み隠すのに必死だった。幸いママもふくちゃんもわたしたちの変化に      29
はまったく気づいていないふうだった。内心おどおどしているわたしがわかるのか、あの 人はわたしを見つめながら、軽く目配せをして笑って見せた。どことなく憂いを感じさせ るあの人の瞳に、わたしは特別の匂いを感じていた。思えば、それがわたしたちの秘密の 饗宴のはじまりだった。すでにそのときからわたしたちは共犯関係を結んだ。それがわた したちの奇妙な符合だったかもしれない。  それからあの人は、週に一二度くらいの割で一人で顔をだすようになり、そのうちふく ちゃんを凌ぐほどママのお気に入りになった。夜更けてドアが開くたびにわたしはそこが 気になった。もしかすると、あの人かもしれないという期待がいつも頭の隅を離れなかっ た。そうしたとき、それがほんとにあの人だったりすると、わたしの胸は高鳴った。あの 人は店に入ると最初必ずわたしの方に一瞥を投げた。その目はいつも『きみに逢いにやっ      30
きたよ』と、言っているようだった。互いに身の上話をしたことは一度もない。あの人 は殊に自分を語りたがらなかった。ママはそういうことをせっせと訊ねるのだが、あの人 ははぐらかしていた。一度だけ、あの人が「あなたはおひとりなのですか」と、訊いたこ とがあった。わたしは黙って肯いた。聞き返すのは怖かった。あの人が独り身じゃないこ とは、はじめからわかっていた。  あの人が常連になって三ヶ月が過ぎた頃、久しぶりにあの人と踊っていたとき、あの人 が耳元で「次の水曜日、店が退けたら食事でも一緒にしないか」と、そっと囁いた。わた しは「はい」と、何のためらいもなく肯いた。約束の日、何時まで待ってもあの人は来な かった。ドアが開くたびに何度期待に胸を躍らせては沈んだことだろう。結局あの人は現 れず、わたしはいつもより遅くまで居残って片づけものなどを手伝っていたが、ママがも      31
ういいと言うので踏ん切りをつけて店を出た。すでに春も近くなっていたが、夜気は冷た かった。アパートまでそう遠くはなかったが、仕事帰りの冷たい風の差し込む夜道はしみ じみこたえた。何かを追い払うように道を急いだ。そのとき、足を速めたわたしよりもも っと速く、すたすたと足音の近づく気配が背後にしたと思うと「れいちゃん」と、呼びか けられた。あの人の現れ方はいつも出逢いのように意外だった。心が薄ら寒いときに現れ るのだ。女の落ち時を心得ていたと思う。 「まあ、早瀬さん」と、言ったわたしの顔は、包み隠そうにも悦びで花開いたようになっ ていたのに違いない。どぎまぎしていた。 「ごめん。急用で鳥取に出かけていてこちらにいなかったんだ。今すっ飛んで帰ってきた。 もう間に合わないかと思っていた」                              32
「そんなに無理されなくてもよかったのに。お仕事大変でしょうに」 「そうはいかない。今、一番大事なことだ。それより、こんなところで立ち話もなんだ。 何かあったかいものでも食べに行こう」  ちょうど脇の電信柱の街灯から青白い光が注ぎ落ち、闇に立つあの人を照らしていた。 コートの襟を立てたあの人の物思わしげな顔が夜目に浮かび上がった。  その夜わたしたちは躰を結んだ。食事をして少し酒も入った後、アパートまで送って行 くというあの人をわたしも拒まなかった。場末の鄙びた旅館の一室であの人と夜を明かし た。 「後悔しないの?」と、訊いたわたしの唇を、あの人は「たとえ後悔したにしても、きみ とこうして逢えたことと引き換えることのできるものなど何もない」と、言って力ずくで      33
ふさぎ、わたしにもうそれ以上何も言わせなかった。畳の軋む音がして、全身から力が抜 け落ちた。  それからしばらくしてわたしはアパートを替わった。そこは昔からの文化住宅で、見知 りの人も多かったし、互いの生活に介入するくらいのあけすけな女友達もいた。あの人に 迷惑をかけそうだった。周囲には行き先を告げずにそこを出た。女友達には田舎に引っ込 むのだと嘘を言った。こうしてわたしたちの隠された生活は始まった。毎日、お昼休みに なると、あの人は隣町から自転車を漕いでやってきては、慌ただしい一時間ほどをわたし と共に過ごし、午後はそのまま外商に出かけた。弁当を持たない人だった。あの人に食べ させるお昼ご飯の献立をあれこれと考えることが、唯一わたしにできたあの人との営みと 言えることだった。店には三日と空けず顔を出してくれたし、客も連れてきてくれた。店      34
ではあの人もわたしも必要以上に距離を置いていたので、誰も勘ぐるところまで至らなか った。それでも店では、はじめて出逢ったときそうしたように、二人きりで踊った。あの 人はいつもわたしの恋人だった。あの人に抱かれていると、躰の芯から悦びにふるえた。 こんなに幸せでいいのかと、思うことさえあった。その一方でこれでいいのか、何をして いるのだと、責め苛まれてもいた。この逡巡の中で、わたしはいよいよ深くあの人なしで は生きられない生活に溺れていった。  やがてあの人も陰で協力してくれて店を出した。なぜあの人がこうまでわたしに入れ込 むのか、ほんとうのところはよくわからなかった。店でもあの人は若い娘に目がなかった。 誰彼となく踊るので、店でも有名になった。そのことで喧嘩をしたのはしょっちゅうだっ た。わたしはと言えば、もうとうに盛りを過ぎていた。いつまであの人をわたしの中に引      35
き留めておけるのか不安でしようがなかった。そんなとき、決まってわたしはあの人に駄 々をこねた。 「さみしい・・・ひとりで寝なきゃいけない夜ばかりなんてさみしいわ」  すると、あの人は「ぼくの中にはもうきみしか棲んでいないのだから、たとえぼくの躰 が今きみのそばにないとしても、きみはいつもひとりじゃない。安心しなさい。ぼくとき みの魂は二つでで一つだ」と、そんなふうに言っていつもわたしを落ち着かせた。そんな とき、わたしはあの人の優しさ、大きさを感じ取ることができて、またしばらくそれでや れるのだった。  わたしは、あの人との一部始終を日記に書き留め始めた。あの人の言ったこと、あの人 に抱かれたこと、逢えない日の孤独な思い、そのすべてを書き留めた。そういう些細な積      36
み重ねを忘れてしまうのことが怖かった。それが、後半生のわたしのすべてだったから・ ・・それをわたしから奪い取ってしまえば、わたしにはもう形あるものは何ひとつ残らな かった。  たった一度だけ、あの人の家に上がり込んだことがある。あの人の奥さんが茶の湯の大 会で金沢に出かけ、三日ほど家を空けたのだ。留守中に、束の間だけ奥さん気取りで上が り込んだのはいいが、後味の悪いものだった。家の中は乱雑で、掃除はまず行き届いてい なかった。あの人は家の中のことは何も言わないのだろうかと、訝った。「何も構うな。 そのままにしておけ」と、あの人が言うので、何もできなかった。食事の用意をしように も、どうして毎日使わなければならないはずのものが、あちこちに分散しているのかよく わからなかった。蒲団は干してあるのだろうかと、そんなことまで気になった。あの人は      37
泊まって行けと言ったが、それだけは断った。  傍目にはあの人もわたしも大過なく過ぎた。あの人の起こした会社もまずまずのようだ った。役人や金融関係の接待にあの人はせっせとわたしの店を利用した。あの人の連れて くる客がまた新たな客となり、客層も厚くなった。客筋も良かったので焦げ付きは殆どと いっていいほどなかった。あの人の世話にならなくてもいいほどに資金繰りも良くなった。 わたしはしだいに店の経営に力を注いでいくようになった。女の子の数も二人に増やした。  あの人はあの人でこちらに住む韓国の人たちとの交遊を深めていた。少年時代、京城で 過ごしたことが、あの人にとって決定的な人生観を心の奥底に刻印したようだったが、あ の人はそれが何であるかを語ろうとはしなかった。あるとき、あの人が朴さんという居留 民団の団長と呼ばれる人を連れてきたことがあった。小さな焼肉店を営んでいる人だ。そ      38
の人が、別の日に違うお客さんと店に来たときに、あの人についてこんなことを言った。 「早瀬さんは、たんなる親韓派じゃない。わたしたちと、ほんとうに友になりたがってい る。もう一度、わたしたちと生き直そうとしている」 「それは、どういう意味でしょうか?」と、わたしが訊ね返すと「あの人は、日本人がわ たしたちの町で何をしてきたか、その目でよく知っている。わたしも早瀬さんもまだ少年 だった。あの頃のわたしたちは、みんな自分が選んだ道ではない不条理な道を歩かねばな らない宿命があった。わたしが早瀬さんで、早瀬さんがわたしでも同じことだったと思う。 人間性で回避できた問題じゃない。もっと大きな力が人間と人間の関係を支配していた。 あるとき、わたしたちの仲間がものを盗んだかどで銃殺された。あの人もそれを見ていた。 早瀬さんにそれを回避する何ができた訳でもないが、わたしたちは彼を憎んだ。何の前触      39
れもなく唐突に人が殺されていいのか?あの人はわたしに言った。どんな人間にだって人 生の春夏秋冬はあるべきものだ。それは誰しも自分で選んだ命でない以上、最低の権利の はずだ。それは生きていられる時間の長さの問題ともちがう。たとえ十歳で夭折しようと 百歳まで生き長らえようと、その四時の価値においては同じだってね。同感だよ。殺され た少年がわたしであっても、彼であっても不思議はない時代だった。人生の春夏秋冬さえ 理不尽に奪い合い、踏みにじられた時代だった」  そうした訳もあってか、あの人は親善協会のボランティアにも打ち込みはじめていた。 そんなあの人にとって、わたしは何なのだろうと、思うこともあった。『償い?』そんな 言葉が頭を掠めたこともあった。だがそれも事の後で理屈づける便宜語でしかないような 歯切れ悪さが残った。あの人の少年の日の魂の敗北は、所詮あの人にしか焼き付けられな      40
いイメージなのかもしれない。秋の紅葉はあの人にとっては、まさに命の象徴と映ってい たのかもしれない。  時間も時間だし、そろそろお終いにしなきゃね。あの人とのお別れを話すわ。あの人の 躰に最初の異常が表面化したのは、いつものようにわたしのアパートでお昼の食事をとっ ていたときのこと。美味しそうに食べ始めていたそれを、あの人はいきなり訳もなく戻し てしまった。具合が悪くて食欲がないと言うのではなく、自分の意に反して戻されたとい う感じだった。そのことがわたしを不安にした。胃は旺盛なのに、途中で何かつかえるの だと思わせた。丈夫な人で、病院の門などくぐったことのない人だったが、すぐに検査を 受けた。即入院を宣告された。あの人は真っ先に帰ってきて、そのことをわたしに告げた。     41
目の前が真っ暗になった。「一時間でいいからここにいて」と、わたしは言った。これで もうあの人は帰らないかもしれない。三十三年間重ねてきたものが、今唐突に失われよう としている。「どうしたんだい。食道に腫れ物ができているだけだ。取ったら直に帰る」 と、あの人は笑いかけながら言った。それを否定できるほど、わたしは強くない。「そう ね。わたしは病院にお見舞いにも行けないから、ここで待ってるわ」と、言ってそれでも できるだけあの人を引き留めるためのつまらない用事を探したが、「じゃあ」と、言って 引き上げようとするあの人を「待って」と、三度も引き留める理由もなくなった。あの人 の手を取って頬に押しあてた。「バカ」と、言いながらあの人はわたしを抱きしめた。し ばらくそうしていた。いつもいつも、その瞬間を手に入れるために生きてきたようなもの だ。玄関先まで出て、車に乗るあの人を見送った。ドアを開けてあの人が右手を軽く挙げ      42
て「じゃあ、行って来る」と、言った。それがあの人の姿をこの目に捉えることのできた 最後になった。コート姿でいきなりわたしの前に現れた、あの雪の日から数えて三十三年 になる。  入院してしまうと、日に日にあの人は衰弱していった。病院には奥さんが張り付いてい たので、どんなに心配でも顔は出せなかった。三十三年間守り続けた掟を、たとえ生死に かかわろうと破るわけには行かなかった。入院してから、殆ど毎日欠かさずかけてきてく れた電話が途切れがちになった。部屋から歩いて出て、ホールの公衆電話からかけている のだと、あの人は言っていた。あの人の吐く息の辛そうな音が電話口にまで伝わってくる ようになった。それでもあの人は、まるで青年のように「きみを愛している」と、もう嗄 れてか細くなった声音で言いつづけた。ありがたかった。これほどありがたいことはない。     43
の世に生まれてこれほど哀しく、また、この瞬間に勝る歓びを受けたこともない。 「もういいわ。あなたありがとう。こんなに幸せなことはないわ。お願い。もう部屋に帰 って休んで。お願いだから」  明かりの落ちた部屋で涙が次から次へと溢れ出た。それから一週間電話のない日々がつ づいて、そのままあの人の声は途絶えた。そして、それがあの人との三十三年間に亘る逢 瀬の果てのほんとうのさよならになった。あの夜、わたしはうつらうつらしながら、あの 人の夢を見ていた。あの雪の日、あの人と出逢ってから、わたしはまるで自分が映画の中 にでもいるような錯覚に陥っていたのかもしれない。あの人とわたしの銀幕を夢見ていた。 あの人とわたしの夢のリフレイン・・・  そして、あなたからの電話があったわ。わたしはとっさに待ちわびたあの人からの電話      44
かと思ってしまったの・・・                     ◆                     橋の欄干にすでに太公望の影はなかった。風は止んで朧な月明かりの下、河面はたゆた いながら静かに街明かりを映していた。私は橋を渡りはじめ、中程まで来て足を止めた。 ぽつりぽつりと水に映る仄白い明かりは、夏の日の灯籠流しを思わせた。流れるともなく 漂っている。わたしはしばらく頬杖をついて、この世のものとも思えぬその薄明かりを、 ただぼんやりと見つめていた。  それにしても、月坂玲子はなぜ私にあの秘められた『とはずがたり』を語って聞かせよ      45
うとしたのだろうか・・・私もまた、まだ見ぬ夢明かりを、ただこの欲望の河面に見てい るだけなのかもしれなかった。私は踵を返し、一人の女が待つ暗い部屋へと足を向けた。  そして、その夜から数えてほぼ一年後のよく晴れ渡った秋の日、私は地方紙の片隅にじ っとよく目を凝らさないとわからないくらい小さな活字で書かれている、月坂玲子その人 の寂しい訃報を見つけた。                            (1998年10月23日)      46