昼下がりの公園

 初夏とはいえ真夏日のような強い陽射しが頭上から降り注いでいる昼下がりの公園は、 金曜日、平日とはいえ人影もまばらで、まれに行き交う人もあるにはあったが、だれもか れも一様にどこか所在なげで、時間などまるでもうどこかに置き忘れて来たかのように、 たゆたって見えた。私に映る物憂い午後の視界は、ただのんびりとあるともなく流れて行 くようであった。  実際、私にとってさっきから時間は動きを止めたとしか思えないほどの遅々とした歩み で、何度腕時計を見遣っても、その度に長針は一分とは針を進めてはいなかつた。侑子と 約束した時間、午後二時にはまだ一時間ほどの間があつた。気の遠くなるほど待たなけれ ばならない長い一時間、そしてそれから先はあっという間に費え去るに違いない短い一時 間を思うと、その両極すぎる時間の反目が私の心ををいっそう臆病にしはじめた。          1
 陽射しを遮りそうな木陰を探して車を止めた。一昨日の夕刻、松江を出るときに「ゼロ 」に合わせた走行メーターはすでに1000Kmに近づいていた。  侑子と別れてからはや二十年になる。いや、別れたと言うのは正確ではないかもしれな い。侑子との結婚を断念してから、それぞれ遠く離れて暮らしはじめ、もう二十年が経過 してしまっていると言うべきだろう。なぜなら、私は毎年六月三日の侑子の誕生日が来る と、決まって彼女に電話を入れ安否を確かめていたからだ。一年三百六十五日のうち、た った一日、それもわずか十分か十五分ほどの声の邂逅に二人の間の細い糸を二十年も繋い できた。 「まるで織姫と彦星だな」  そんな会話からはじまった二十年目の電話だったが、私の心に衝動的に火を点けたのは       2
彼女のたった一言だった。 「わたしには、やっぱり村上さんしかないんだってことがよくわかったの・・・」  侑子の中に何かが起きているのに違いないことを私は直観した。居ても立ってもおれな くなつた。 「逢いに行ってもいいか・・・」 「また突然に何を言い出すかと思ったら・・・二十年を飛び越すつもり・・・」 「行くよ。すぐに」 「待って、冗談でしょう?私、どんな顔してあなたを迎えたらいいかわからないもの」 「今、話してるその顔でいいよ」 「本気なの?そうね、案外そうかもしれないわね、あなたのことだから・・・いつもこん       3
な風に唐突だったもの」 「着いたらまた連絡するよ」  彼女の返事を待たなかった。弾んだように私には聞こえた侑子の声が私にすべてを越え させた。その三日後には私はもう有給休暇を取ってしまっていた。家には出張で新潟の某 地方鉄道に視察に行くのだと言った。この口実には信憑性があった。何故なら、私の勤務 する地方鉄道もご多分に漏れず、この十年というものすでに極度の経営危機に陥り、国の 補助金を頼りにでかろうじて首の皮を繋いでいた。最近ではこの補助金経営に対する風あ たりが、不景気感も後押しして極度に高じ、自助努力欠如との批判めいた記事や投稿がし きりと地方紙面を賑わしていたし、事実、国の補助は打ち切られ沿線の自治体がこれを負 担しなければならないという追いつめられた事態を迎えようとしていた。私は自立再建計       4
画の素案の企画執筆担当だった。役員会の期日はもう目の前に迫っている。そんな渦中で 私は大切な知人の結婚式と称して二日間の休暇を願い出た。 「大丈夫だろうね」  管理部長は、不安そうに私の顔を覗き込んだ。 「ご心配には及びません。期日までには、きちんとやります。資料も持って行くつもりで すから・・・」 「たしか・・・新潟だったね、結婚式は・・・案外、根を詰めてばかりいるより気分転換 になっていいかもしれないな。それに新潟まで行くんだったら、少し足を延ばして蒲原鉄 道にでも乗ってみたらいい。参考になるかもしれないぞ。五泉から村松まで魚の電車が走 っている」                                          5
「えっ、魚ですか?」  平静を装うための返し言葉だった。部長の口を村松という地名が突いて出たときは思わ ず胸にずきりときた。私は正にその村松を訪ねようとしていた。そこが、侑子の嫁ぎ先だ った。主人と一緒に小さな寿司屋を営んでいると聞いた。人口一万五千人にも満たない小 さな町だ。 「魚と言っても絵が描いてあるだけのことだけれどもな、乗客に言わせると、夢があるら しいんだ。ちょうどいい、そんなところも何かのアイデアに繋がるかもしれん。転んでも ただでは起きないきみのことだから、ついでに頼むよ。何せ、素案はきみの双肩にかかっ てるんだからね」 「わかりました。何とか都合をつけてみます」                          6
「こういう時だから無難に頼むよ。ぼくはもうちょっとだからね。最後の最後へ来たとこ ろであまり波風も立てたくないんでね」  念押しするように部長は言った。 「踏みならされた道ばかり歩くより、時に森に分け入る勇気が必要かもしれんな、村上君 ・・・ぼくにはもうできんことだが、きみにはできる」  そうさらに付け足して部長はぽんと私の肩を叩いた。部長にも翻って想うところはある のだろう。考えて見れば誰だってそうだろう。特にこういう時には・・・だ。 「無難かつ大胆に・・・か」  私はひとり呟いてみた。部長の言う無難とは、外見的には世論を逆撫でせずにうまくか わせということだろうし、大胆にとは、内部に巣くう病弊を退治することだろう。気の遠       7
くなる話だ。病弊と言えば、こういう問題がいともたやすく上から下へと振られてしまう ことだろうけども・・・。いったい誰が本気で考え、そして立ち上がるのだ?  水曜日の夕刻、仕事を終えるとすぐに私は松江を後にした。昼休み私は念入りに車を点 検した。新潟まで私は殆ど休憩は取らず走りきるつもりだった。  湖岸を走りはじめると、バックミラーに映る西の空は茜色に染め抜かれていた。たなび く雲は、今少しずつ色を変えながらその中心へと加速度を増し、吸い込まれるように収斂 されて行く。それは、恐ろしいほど残酷で寂寥とした光景だ。私は逆行する自分を感じて いる。考えることをやめれば、私もまたどこまでも底のないその深いブラックホールのよ うな穴蔵へと吸い込まれて行きそうだった。やみくもに強くアクセルを噴かした。見る見 る妖しく燃え上がる夕空が遠ざかって行き、やがてあたりは平穏な黄昏色を取り戻したか       8
に見えたが、すぐに夕闇が降りてきた。私はふうっとひとつ溜息をついた。  米子から高速に乗った。すでに日はとっぷり暮れた。私は憑かれたもののようにただ走 り続けた。ラジオもCDのスイッチも入れない。闇の中を、まるで逃亡者のように言葉を 閉ざしたまま失われた時間を追いかけている。落合から中国道に入り、名神を抜け、米原 から北陸道に入った。金沢インターに着いたのは深夜二時前だった。そこで仮眠をとった。 新潟までもう手の届きそうなところへ来ていた。  朝、目が醒めたとき、自分がどこにいるのかよくわからなかった。時間と場所がめまぐ るしく流れていた。昨夜、車の中で静かに目を閉じたとき、侑子の声が聞こえてきた。 「わたしはどうしてもここを離れることはできないわ」 「どうして・・・」                                      9
 その後急に私たちは言葉をなくした。瓢湖の畔に佇む侑子の髪が風にほつれ、うっすら と紅をひいたくちびるに絡みついていた。はじめて薄化粧をした侑子を見た。酔うほどに 美しいと思った。それはもう二十年前も前のことになる。そのとき、私は会社を辞め、新 潟の侑子の生家に立ち寄り、両親に会い、侑子にプロポーズし、侑子を島根に連れて帰ろ うと考えていた。  出逢いはそれからさらに四年ほどさかのぼる。侑子は新潟の片田舎から、私は島根の片 田舎から、ともに高校を卒業して同じ東京の光学機械メーカーに就職し、そこで知り合っ た。侑子の方はそうでなかったかもしれないが、私には最初から侑子との出逢いは決定的 なものだった。当時、いや今でもそうなのかもしれないが、多分私の求めていたものは、 私が心の奥深く閉じ込め続け、そこで抑圧されるしかなかった性の見事な代償ではなかっ      10
たかと思えるのだ。闇の中でも私は侑子だけは見えている気がし、逆に侑子の目だけはそ んな私を捉えることができると思えた。私の心は憑かれたもののように侑子に傾倒してい き、神ほども全幅の信頼をおいていた。彼女なら、いや彼女だけが、封印された闇の中か ら私を解き放つことができる。  三年ほどで侑子の父親が病気になり、彼女は会社を辞めて帰郷した。私は全国の営業所 を転々とさせられた後、ロサンゼルス駐在員として渡米した。侑子とも海を隔てて隔絶さ れた。連絡もぷっつりと途絶えた。アメリカでの一年間は、私を本物の孤独にした。侑子 以上のものはこの世にないと心に刻印した。アメリカから帰るとすぐに私は辞表を出し、 侑子のいる新潟へと向かった。  朝まだき六時ちょうどに金沢のサービスエリアを出発した。すでに陽は昇っている。こ      11
こまで来て急ぐ必要はひとつもなかったが、私はスピードを上げた。少しでも長い時間侑 子の住む町に滞在し、侑子を感じていることに意味があつた。侑子の私に対する保証は何 もない。侑子には連絡は入れまいと決めていた。着いたらすぐに侑子の店を探しに出かけ、 夜になったら侑子の店にひとりの客として入って行こうと決めていた。今在るありのまま の侑子を見たいのだ。気懸かりなことと言えば侑子の主人の目だった。侑子が疑われるよ うなことになってはいけない。あくまで客として一線を引きつつ、ほんの僅かでも侑子の 懐に入れればいい。二十年の歳月は侑子にどのような変化を与えたのだろうか?案外この まま逢えずに終わるかもしれない・・・  昼前に三条燕のインターを下りた。そこからは一時間もあれば村松に入れるだろう。一 般道を走りはじめると、どこまでも続いていきそうな、のどかな田園が広がった。上空か      12
らは強い光が降っている。伸びはじめた苗が風に小刻みに揺らぎ、きらきらと撥ねている。 その深い緑が目に沁みる。そこまで来てやっと私は車のスピードをぐんと落とした。そこ から先の風景はすべて侑子を偲ばせるものばかりだ。  昼下がり、侑子の住む町村松に入った。目抜き通りは一本で五分もあれば通り抜けてし まうほどの小さな田舎町だ。侑子の店を探し出すのにそう手間取らなかった。この町に寿 司屋は一軒しかないのだ。店の二階を住まいにしているのだと聞いた。目抜き通りに車を 止めて、目に付いた煙草屋に立ち寄った。いつもそうするようにセブンスターを二個だけ 買い、侑子の店を訊ねた。 「すぐその先ですよ」  そう言うが早いか、世話好きそうなおばさんはもう土間に下り、私と一緒に外に出た。      13
「この先の二つ目の路地を右に入ったら、すぐに看板が見えますよ」 「ご丁寧にありがとうございます。助かりました」 「どちらからお見えで?」 「東京から出張で来たんですけど・・・今夜接待があるものですから」  それでおばさんは奥に入った。めざとい人なら、この田舎町のことだ、ハザードランプ を点滅させながら止めてある私の島根ナンバーのワゴン車を訝しんだかもしれない。  路地の入り口で車を止めた。そこから五十メートルほど先に「すし勝」と書かれた看板 が見えた。思わず、目頭が熱くなってきた。玄関は開け放たれており、暖簾は竿に巻いて ある。すでに玄関先にはきれいに水も張られている。準備中なのだ。これが彼女の日課な のかもしれない。もしかすると、今にも彼女は玄関先に出て来るやもしれない。しばらく      14
すると、向こうから一人の婦人がやって来て店の中へ入って行った。胸が高鳴りはじめる。 すると、ややあって、その婦人と何やら立ち話をしながら、紛れもない侑子その人が玄関 先に出てきた。二十年の歳月が稲妻のように私の中を駆け抜けた。遠くからでも、話しか けながらその横顔に笑みがこぼれているのがわかる。それは歳月を越えて、昔もそして今 も少しも変わらぬ侑子の人となりそのものを、再び私に告げる光景だった。昔と変わらず ショートカットにした髪、Tシャツにジーンズ姿、その上にエプロンをつけている。不思 議な光景を見ている気がした。何か注文でも受けたのだろう。彼女は立ち去る婦人に二度 三度と丁寧にお辞儀をすると奥に引っ込んだ。それを見届けると、私も車を動かし駅前に 向かった。そこに小さな旅館があったのを覚えていた。日の暮れるまでにはまだ随分と間 があった。                                         15
 蒲原鉄道は、村松と五泉の間の僅か五キロほどを結ぶ私鉄線である。途中、今泉という 駅がひとつあるきりだ。昔は、村松の先、加茂まで延びており、総延長十五キロはあった と聞いた。JRの五泉と加茂を結ぶ別の短ルートでもあったわけだが、村松から先、加茂 まではその後切り捨てられたことになる。今、国の補助は受けていないとは聞いた。私は 五泉までの切符を買った。なるほど、部長の言ったとおりだった。一両編成の車体には、 一見小学生が自由奔放に絵筆を走らせたとしか思えないほどの大らかな筆致で、お伽噺の 挿し絵にでも出てきそうなほど大きく彩り豊かな魚が、車体中にそれこそ所狭しと描かれ ていた。同じ鉄道会社に身を置く者の側の視点からすれば、信じられないほど大胆な話だ。 我々鉄道マンは、車体デザインには並々ならぬ精力を注いできた。スピードとスタイルの      16
イメージ表現・・・ある意味では、それは我々鉄道マンの夢の表象だった。その夢とレー ルへのこだわりを乗客側に引き渡してしまうことなど及びもつかないことだ。大衆を、我 々の夢とレールの上に従えて走り続けるところに、我々の仕事の隠されたカタルシスがあ った。「夢があるらしいんだ」と部長は言った。つまり、それは乗る人の夢であり、我々 の夢のことではもうなかったのだ。  午後三時、乗降のトラヒックとしては最も低い時間帯にしても、乗客はやっと十人余り、 一人一人客層の見分けはすぐにもつきそうだ。地方鉄道のどこにも見られるのどかな光景 だ。この町でも車を放棄する人間などいそうにない。この車両もまた人いきれで埋まるた めには、車がよほど高い代償を伴うものになるか、町が車で溢れ慢性的渋滞状態になるか しかないだろう。レールとその上を走らす車体という大がかりな施設を抱えながら、もは      17
や隙間商売でしかなくなった地方鉄道の命運を賭けた戦いとは何だろう。今私に出てくる 答えと言えば、まさにこの蒲原鉄道そのものかもしれない。もはや、ヒト、カネ、モノを 投じて商売をするのではない。僅かな隙間需要を担保に、そこで成り立つだけの最小路線 と最小人員と最小設備で極小化経営を模索するほかはない。それすら怪しいことだけれど も・・・。  五泉で降りて、JRに乗り継がなかった乗客は、やはり私一人だつた。隙間需要も巨大 なレールに繋いでこそやっと意味がある。駅通りを歩いた。五泉も村松も、私の住む沿線 町と同じく昼間は用事のない町だった。僅かな商店街にも絶えて人通りはない。侑子のこ とを想った。このような町でも暮らしたいと望み、現実には生まれなかった侑子との時を 想った。私は胸ポケットに手を差し入れ、もう一度それをいつでも取り出せるように確か      18
めた。その小さな紙箱には、パールのネックレスが入っていた。二十年前、侑子にプロポ ーズして侑子の首にかけるつもりで、そのまま機を失ってしまったものだった。いつか、 もう一度、本当にかけることのできる日がくるかもしれないと、温め続けてきた私の夢そ のものだった。今度は侑子に渡さなければならなかった。そのために、私は侑子に逢いに 来た。  路地には黄昏が降りていた。「すし勝」の暖簾は、もうすっかり居住まいを正して客を 待っていた。玄関先にはほんのりと明かりが点いていた。一度私はそのまま店の前を通り 過ごした。どのような顔をして入って行けばよいのか、まだ私は謀りかねていた。突然、 男声で、恐らく客の一人が上げたに違いない賑やかな笑い声が聞こえてきた。それで私は      19
踏ん切りがついた。踵を返し、暖簾をかき分け戸を引いた。「いらっしゃい!」と言う威 勢のいい声がかけられた。侑子の姿はない。店の中は三軒四方もあろうか、左手にカウン ター、右手に座敷になったテーブル席が四席ばかりある。カウンターの向こうには、男手 が二人、頭に白髪も見える年配の方が間違いなく主人で、もう一方の随分と若そうな方は、 雇い人なのであろう。賑やかな声が聞こえてきた割には客は少なく、カウンターには年配 の男客が一人いるきりで、あとは座敷のテーブルに一組の男女客があった。私は入り口に 近い座敷に席を取った。私はネクタイを締めてきた。その方が出張中のビジネスマンとし て無難に映るであろう。「お客さんだ」と、奥に呼びかける声がして奥の方から人の動く 気配がした。テーブルの上についていた両手が小刻みに震え出した。煙草を取り出して火 を点けた。ライターを持つ手も震える。紛れもなく、侑子は近づいて来る。昼間見たとき      20
と同じ格好だ。目と目が合ったとき、私たちには実に微妙な間があった。二十年間温めて きたやっとの思いの邂逅と、場所柄殺さなければならないものとが絡み合った。 「こんばんは、お久しぶりです」  その瞬間、私の口を突いて出た言葉だった。 「お元気でした?」と彼女は返した。 「ええ、何とかやってます」  私たちは、当たり障りのない会話を交わしていた。 「ご注文は?」  侑子はすぐに聞き返した。このまま彼女を引き留めるわけにはいかなかった。私は、取 り敢えずビールと盛り合わせを注文した。それを聞くと、侑子はすぐに引き下がった。       21
 カウンターの客はしきりと主人と話している。私の向かいの男女客は、一見してすぐに それと分かる関係を思わせたが、さしてそういうことを気にする風もなく堂々たるものだ った。連れの女性と何やら話しているかと思うと、突然大きな声で主人にも同じことを聞 き返したりしていた。常連中の常連なのであろう。私の聞いた笑い声は、この男のものに 間違いはない。六十歳は優に越えていると思われた。日に焼けた赤ら顔は妙に脂ぎってい た。髪の毛は両側に僅かに残されている。彼をこの世で臆させたり、逡巡させたりするも のなどはどこにもなさそうだった。連れの女の方は男からするとまだ随分若そうで、派手 な赤いスーツを着て、服に負けないぐらい濃い化粧をしていた。肩先まで伸ばした髪は細 くきれいに梳かされており、それが首筋に絡むあたりは、妙に艶めかしく色気があった。 顔立ちとスタイルも良く、実際は四十歳を越えているかもしれなかつたが、そうは見せな      22
い矜持のようなものが感じられた。だが、この場では、愛人と名乗っているも同然だった。  このままやり過ごすと、私だけが宙に浮いて三十分と居られそうになかった。この中の 誰かと臨時の関係を作らなければならなかった。  侑子が注文した品を運んで来た。 「お待たせしました」と言って、下の土間から身を乗り出すように腕を伸ばし、私の前に 差し出した。半袖のTシャツから侑子の白い腕が肩先までも覗いた。それは、私のすべて でもあった。慌てて私はそれを両手で受け取った。私の左手が侑子の指先に微かに触れた ように思ったが、侑子の表情は、一糸たりとも乱れそうになかった。 「今日は、造りは何がいいですか?」  ただ侑子に声をかけるために訊ねた。侑子は言葉を返さず、後ろを振り返った。         23
「鯵なんかどうですか?」  俯いて手を動かしていながら、主人の突っ慳貪な声がすぐに返ってきた。私はいっそう 臆すことになった。侑子と主人の絶妙の呼吸でもあったし、何よりもこの店の主人は、客 の話をあまねく聞くともなく確かに聴いているのだ。 「じゃあ、それお願いするよ」 「はい、わかりました」  ただ事務的に侑子は答えた。侑子が常あらぬことを口にしたり、仕草を見せたりするこ とはできないことだと察した。今在る侑子を少しでも長くこの目に留め、今度こそ、もう 二度とこの目にすることはないかもしれない、今も変わらぬ侑子の姿をこの目にしかと焼 き付けるために、とにかく、私はここに少しでも長く居ようと、ただそれだけに心を砕こ      24
うと決めた。 「お一ついかがですか?」  私は思い切って身を乗り出し、男にビールを勧めてみた。豪放と見えたその男は、一瞬 虚を突かれたように私の方をしげしげと見つめた。 「これは、いきなり失礼しました。仕事ではじめてこの村松へ来たんですが、袖擦れ合う も何とやら・・・です。まあ、どうぞ・・・」  男はわかったとでも言うようにグラスを片手に取った。そのグラスになみなみと注いだ。 「ほう・・・旅のお方か。なかなかできんことをなさる御仁と見受けた。これも何かのご 縁ですな」  ぐうっと一息に飲み干してしまつたグラスをテーブルに置くと、男は胸ポケットから名      25
刺入れを取り出した。 「失礼をしました。私はこういう者です」  差し出された名刺を私は両手で受けた。 「すみません。あいにく名刺を持ち合わせませんので・・・村上と申します」  名刺には大きな文字の毛筆体で末長土建、代表取締役、大山一と記されてあった。なる ほどと思わせた。誇張と顕示欲は並外れていそうだった。 「景気の方はいかがですか。私の方は鉄道関係の仕事なんですが、地方では車に押されま してねえ、売り上げは激減する上に、経費は嵩む一方ですよ」 「そうか・・・そいつは大変だ。ところでお酒の方はいける口とお見受けした。おい、大 将、銚子をつけてくれ、例の奴だ」                              26
 次第に有無を言わさぬ論法になってきた。筋書きは私の思惑をはるかに越えて、もう一 人歩きをはじめていた。 「私らの仕事というものにはねえ、景気も不景気もないんだよ。治山事業も河川事業も道 路事業も仕事は作ろうと思えばいくらでも作れる。要は政治家がどれだけ国から予算をせ しめて帰れるかだよ。不景気と言やあ、都会かぶれした政治家どもが、やれ目的がどうの 投資効果が薄いだのと、お利口ぶることをはじめた時よ」  これを機に男の口を衝いて出る言葉は、待ってましたとばかりに堰を切って流れはじめ た。愛人も眼中を消えたかと思わせた。物語は延々と過去に遡りはじめた。切れる度に、 侑子は酒をせっせと運んできたが、会話に口を差し挟むことも耳を傾けることもなかった。 いっこうに増えそうにない客足を後目に、一人何するでもなくレジに立ち、後ろの壁に凭      27
れる侑子が私は気になった。潮時を見計らなければならなかった。私はトイレに立った。 トイレの中で手帳の紙をちぎり、その上に大きな字で私は書いた。 「明日、五分でもいい。二人きりで話したい」と・・・。宿の電話番号も書き添えた。帰 り間際、レジでの伝票と金の受け渡しが最後の勝負・・・賭けになる。  そのときが来た。いつしか時計の針は十一時、侑子から聞いていた閉店時刻に差し掛か ろうとしていた。その一歩手前で踏ん切りをつけなければならない。盛り上がった座にも 疲労感が漂い出していた。酒を一杯注いでから私は話の腰を折った。 「いやあ、すっかりごちそうになってしまいました。あまりいいお話で時間も忘れてしま いましたよ。明日が早いものですから今夜はこの辺で失礼します」 「なんだ、まだ早いじやないか」と、男がさらに言いかけたのを連れの女が「あなた」と      28
腕を小突いて制した。後があるのだろう・・・。 「お世話かけました。おいくらですか?」  そう侑子に言って、多分それで足りるだろうと思った一万円札二枚にその紙切れを添え てレジ台の上に置いた。一瞬だけ侑子の目がそれを捉えた。そしてすぐに侑子は事務的に 素早く計算をはじめた。私はもう侑子の一挙手一投足も見逃さなかった。いかなる小さな サインも見逃してはならない。 「八千円いただきます」と、侑子は言って、キャッシュボックスからお釣りの千円札を二 枚取り出すと、私の差し出したそれから一万円札を一枚だけ取り、残された一万円札と私 の託したその紙切れに二千円を添えて私に返してきた。 「どうもありがとうございました」と、そう言ったきり、もう侑子は何も言おうとしない。     29
「これだけでいいんですか?」  侑子は黙って頷いた。 「とてもいい時間だったよ。ありがとう」  それだけ言い置いて店を出た。あたりの家はもうすっかり灯りを落とし、店の外は闇の 中に没しようとしていた。もう振り返らず私も歩きはじめたそのとき、突然背後からすた すたと駆け足に近づく足音がした。 「待って、村上さん」  侑子だった。店の灯りももうそこまでは届かず暗闇の中だった。はじめて侑子が私の中 に伝わってきた。あの日と変わらぬ侑子の匂い・・・。 「これを・・・」と、言って侑子は小さな包みを私に差し出した。                30
「これは・・・?」 「お店のね、十周年の記念に作った湯飲みなの」 「わざわざこれを・・・?」 「何も報いてあげられないもの。せめてこんなことしかできないわ」 「ありがとう。すまなかった。突然あんな形で押し掛けてしまって・・・迷惑だったかも しれない」 「ううん、うれしかった。やっぱり村上さんなんだって、よくわかった。今までで一番う れしかった」 「あまり長居すると変に思われる。来て良かったよ」 「明日の午後二時から一時間だけなら時間がとれるわ。町外れに公園があるわ。中にレス      31
トランがあるの。そこで待っててもらえる?」 「もちろん、必ず待っている。」  それだけ聞けば、私は何もいらなかった。侑子を早く返さねばならない。私は早足に歩 きはじめる。通りに出て角を曲がるとき、暗闇を振り返った。侑子はまだそこに立ってい た・・・。  さっきから、公園のベンチにひとりぽつねんと腰掛けている制服姿の少年がやけに気に なった。金曜日の昼下がり、まさに学校で授業の時間だ。やがて少年は鞄の中から弁当を 取り出すと食べはじめた。なまなましい光景を見ている気がした。学校の先生から突然電 話があって学校に呼び出されたのは、つい二ヶ月ほど前のことだ。「このところ、ずっと      32
お子さんが週に二三度しか学校に来ない」と、言うのだ。最初は何のことかよくわからな かった。息子は、毎朝きちんと学校に出かけ、夜家に帰ると息子は部屋にいた。弁当の空 き箱も毎日台所にちゃんと出してあった。表面的には学校を休んだという記憶はなかった。 心の中を風が吹き抜けた。息子は変化していたのだ。入り口と出口の姿は変えず、中で息 子は姿を変えてしまっていた。息子の心の中を覗こうとしたことはなかったのかもしれな い。それは、私の心の中の闇に分け入るも同然だった。そんなことを息子が望んでいると は思えない。息子が求めて得られなかったもの、その心の空白は何だろう・・・。妻はお ろおろするばかりだった。「どうして?どうしてなの・・・?」と、ただそれを繰り返す ばかりだった。終いには自分を責めていた。私にも妻にも息子を抱きしめてやれるほどの 力はない。へとへとに疲れていた。表面的に穏便に生きることで精一杯だったのだ。        33
 私は車を降りた。何気なく声をかけてみたい衝動に駆られた。車から降りてそのまま少 年に向かうのではない。遠回りに公園を散策し、さりげなく自分のことを何か訊ねるのだ。 話をするだけでよい。約束の二時にはまだ三十分以上も時間はあった。私はネクタイを外 した。弁当を食べ終わるのに十分やそこらはかかるだろう。そう広くはない公園の外れま で歩き、そこからゆっくりと散策をはじめた。近づいたとき、もう少年は食べ終わって雑 誌をめくっていた。はっとさせるような口の利きかたをしてはいけない。 「ちょっと、道を教えてほしいんだけど、いいかな?」  少年はさして驚いた風も見せなかった。 「いいよ」と言って顔を上げた。悪びれた様子もない。弁当を食べていたのだから高校生 に違いないのだが、中学生としか思えない。                          34
「たしか、この町に魚の電車が走ってるって聞いたんだけど、駅にはどう行けばいいのか な?」  少年は少し怪訝そうな顔を見せた。不思議なものを見る目だ。 「おじさん、どこから来たの?」 「島根県・・・日本地図のどこにあるか、わかるのかな?」 「あまり、興味ない。まあ遠くの人ということだね」 「面白い言い方をするね。世の中のことはあまり興味がないんだ?」 「興味あるものなんて世の中に限らず別にないよ」 「なるほど・・・ところで道を教えてくれないかな」 「そうだったね。公園を出てその大きな道を左にまっすぐ行けばいいよ。この町に通りは      35
一本だから、誰でもわかるよ」 「そうか、それはどうもありがとう。何ね、仕事で視察に来たんだ。こう見えても鉄道マ ンなものでね。魚の電車きみはどう思う?」 「興味ないって言ったろう。どっちだっていいよ」 「でも、乗ったことはあるんだろう?何か聞かせてくれよ。大事なことなんだ」 「大事なことだって・・・?」 「そう、大事なことなんだ。おじさんの町にも同じような電車が走っているんだけど、客 足が落ち込んでいてね、経営が苦しいんだ。ところがこの町の電車には、結構たくさん人 が乗ると聞いたんだ。どこが違うかわからないんだ」 「なあんだ、そんなことか。昼間は誰も乗ってないよ」                     36
「へえ、そうなの。じゃあどうしてやれてるんだろう?」 「通勤と通学電車だよ。みんな新潟まで出るんだ」 「車やバスには乗らないの?」 「電車が一番速いからだろ。村松から四十五分で行く」 「なるほどね、きみの意見は単純明快だ。いい話しを聞かせてもらったよ。ありがとう。 ところで、きみは通学には乗らないの?」 「乗らない。ぼくは新津だから・・・」 「今日はどうしてここに?」 「絵を描きに来た」  とても写生の授業とは思えない。                              37
「そうか、絵が好きなんだ。じゃあ今日はあの電車に乗ってここまで来たんだ。もしかす ると、あの魚の絵はきみが描いた可能性があるわけだ」  少年はびっくりした目で私を見上げた。 「あんな絵は大人では描けないからね」  少年は否定も肯定もしなかった。何かあるのだろう。 「おじさんも絵を描くのか?」 「いや、描かない。描きたいと思ったことはあるけどね。きみの方がずっと夢があるかも しれない」  腕時計を見た。いつの間にか約束の時刻は迫ってきていた。 「もうひとつ、きみと見込んで教えてほしいことがあるんだけど、いいかなあ・・・」       38
「ぼくにわかることならね」 「おじさんにも、きみみたいな息子がいるんだけど、最近学校へ行ってないらしいんだ。 何が心の中で起きているのかわからないんだ。何をしてやればいいんだろうか?」  少年の表情はぴくりとも動かない。 「おじさんにも何もできないよ」 「どうしてだい?」 「人間嫌いになってしまってるんじゃない。みんな信用はできないさ」 「自分も含めてかい?」 「さあ、それはどうかな」 「きみは・・・?」                                     39
「だったら、とっくに死んでしまってるよ」  時計の針は二時を指した。行かなければならない。 「どうもありがとう。とてもいい話を聞かせてもらったよ。来た甲斐があった。きみの夢 が叶うといいな」  少年は、めくっていた雑誌にもう目を落としながら、私の言葉に右手を軽くひょいと挙 げて見せた。  二時を十五分が過ぎても侑子は現れなかった。公園の入り口からこのレストランまで道 は真っ直ぐ延びている。レストランの駐車場からは、遠く入り口までも見渡せる。その距 離が私の不安をいっそう強くする。さらに十五分が過ぎた。すでに車の中の灰皿は一杯に      40
なっている。私は半ばあきらめかけていた。ふと、少年のことが気になった。彼はまだあ の場所にいるのだろうか?私はもう車のシートを倒し、目を瞑っていた。かすかに自転車 のペダルを勢いよくこぐ音が聞こえ、その音は私の方にぐんぐん近づいて来る。私は跳ね 起きて外に出た。前屈みになって自転車をこぎこぎやって来る侑子をはっきりと捉えるこ とができた。急いでいるのが遠くからでも見て取れた。横縞のTシャツにやはりジーンズ を穿いている。私の車の横に自転車を止めたとき、もう侑子の顔は汗だくだった。化粧は 引いていない。薄化粧をした侑子は後にも先にもあのとき一度きりだ。 「ごめんなさい。待ったでしょう」 「とにかく中に入ろう」  昼下がりの公園のレストランには客は一人もいなかった。だだっ広い空間の窓辺のコー      41
ナーに私たちは席を取り、二人ともコーヒーを注文した。私は侑子を今更ながらしげしげ と見つめた。午後の陽射しがブラインドの隙間を射し込んできて、汗ばんだ侑子の横顔を 輝くほども照り返していた。私の中で、二十年という重い歳月が今何ほどもなく費え去っ ていた。 「聞かせて、村上さん」 「何から話せばいい。もう混乱していて何がなんだか訳がわからない。あと三十分で時間 はもとにもどってしまう」 「家族よ、子供さんのことを話して。あなたはもう一人ではないわ」  侑子はせき立てるように次から次へと質問を繰り出した。私の方には訊ねるいとまも与 えない。侑子はいつもこのような調子で日常のただ中を走り続けているのかもしれない。      42
「きみはいったいいつ躰を休めているのだい?」  訊ね続ける侑子を堰き止めて私はやっと聞き返すことができた。店を閉めて後片付けを 済ませて床に就くのが早くて一時だと言った。朝は主人が早くから仕込みに出かけるので 五時頃一緒に起きるのだと言った。お昼も店を開けるので、家事を終えると今度はまた店 の準備だと言う。午後も遅くなると夕方の店の準備や家事があるので、唯一この時間が店 を空けられるのだと言った。この時間、主人の方は昼寝をするらしい。 「よく躰が持つねえ・・・」 「丈夫だからね。今のところは・・・。それに、こう見えたって間でけっこう気を抜いて うまく怠けているのよ」 「そうも見えないけどな・・・」                               43
 信じられなかったほど唐突に「わたしには、やっぱり村上さんしかないんだってことが よくわかったの・・・」と、電話口で呟くように囁いた侑子は、今はもうどこにもいない。 心の中のどんな隙間が侑子にあんな途方もない殺し文句を口走らせたのだろう・・・?そ れを聞き出す術も隙も今はない。それが、仮にも私への思いを温めていた証ではあったに しても、それ以上、なにがしかの違う道へと侑子を向かわせるだけの、動機足り得ないこ とも明らかなことだった。それが侑子だった。二十年前もそうだったが、縁と言う言葉だ けでは片づけられないものがあった。  私は侑子に用意してきた写真を一枚見せた。私を真ん中にして、二人の子供が日に焼け た顔に白い歯を覗かせ笑っている写真だ。私の両手は、左右それぞれ子供たちの肩に置か れている。今では失われた光景でもあった。侑子はそれを何度も食い入るように見つめて      44
いた。 「この写真どうしても欲しいわ」と、言って侑子はポケットから小さなハンカチを取り出 すと、中にそれをしまって、ひとつひとつゆっくりと丁寧に折り畳みながら包み込んだ。 その仕草を私は忘れることができない。  侑子はいつまでも私にしゃべらせ続けた。身を乗り出すようにして私の話す言葉に肯い ている。さっきから侑子は出されたコーヒーに口を付けることもしない。三十分ほどの短 い時間、私たちはすべてを忘れて、日常の断片を拾い集めては語り続けていたと言ってい いだろう。心の中の闇には立ち入らなかったと思う。昔も今もそういう突き合い方をして きた。湯気のたゆたっていたコーヒーカップも動かないまますでに冷たくなった。そして 時間が来ていた。私はポケットから二十年間温め続けてきた紙箱を取り出す。           45
「これを今日受け取って欲しいんだ。二十年前に渡しそびれた・・・」  侑子は私を見ていた。二十年間、私に送り続けた眼差しだった。 「開けていいの?」 「もちろん、そうして欲しい」 「浦島太郎になりそうね」と、笑いながら侑子は、蓋を開けて中のパールのネックレスを 覗き込んだと思うと、顔色が曇った。 「わたしには、これを受け取る資格はないわ」 「そうじゃない。これをやっと渡せる日が巡って来たと思ってる。黙ってぼくを受け取っ ておいて欲しい。ぼくときみとの二十周年記念だ」 「そうね・・・ありがとう。素直になるわ」と、言って箱に納めようとした侑子を私は制      46
した。 「少しだけ、かけていて欲しいんだ」  横縞のTシャツの上から侑子はそれをかけた。侑子にふさわしいと思った。化粧もしな い、着飾りもしない侑子にそれは一番ふさわしいと思えた。私は、満ち足りていた。午後 の陽射しは、今侑子に降り注いでいる。 「そろそろ時間だな・・・」  侑子を促した。侑子は慌てて腕時計に目を走らせた。 「行かなくちゃ」  侑子は何かに反応したようにすっくと立ち上がった。時計の針はすでに三時を回ってい た。レジで、それまで暇そうにしていたウエイトレスの娘は、私たちのいたテーブルをさ      47
も怪訝そうに見遣りながら、会計のキーを勢いよく叩いた。  私たちは連れ立って外に出て、そのまま駐車場であっけなく別れを告げた。街角で、旧 知の知り合いにふと出会って、懐かしさのあまり少し立ち話をして、そのまま立ち去る者 同士に似ていた。帰りのやや下りになった道を、自転車をこぐ侑子の後姿が、来たときよ りもずっと速く、見る見る遠ざかって行き、公園の入り口の門の前でぷっつりと消えた。  私は、しばらくそこに立ちつくしていた。陽はまだ私の上にあったが、すでに頭上を離 れ、斜に射し込もうとしていた。私は急に眠気を覚えた。車の中に戻れば、夕暮れまで、 こののままここでまどろんでしまうかもしれない。侑子と出逢うまでの二十年、侑子と出 逢ってからの二十年、そして今、侑子を送ってからの二十年がはじまろうとしているかの ように思われた。車には戻らず、また公園を歩きはじめた。先ほどの場所には、すでに少      48
年の姿もない。額に汗が噴き出してきた。少年が腰掛けていたベンチに今度は私が座る番 だった。煙草を取り出して火を点けた。火は風に煽られすぐ消えた。私は何度も何度も繰 り返し火を点けた。考えてみれば、そんなことを繰り返してきたのかもしれない。私の前 を幼子が駆けてきてすぐ目の前で転んだ。後ろから母親が駆け寄ってきて泣き叫び出した 幼子をあやすことに懸命だ。 「おいくつですか?」 「三歳になったばかりなんですけど・・・どうもすみませんね」 「そりゃあ大変ですね。よかったらここを使ってください。私はもう行かなくちゃなりま せんから・・・」 「すみません」と、何度も頭を下げる若い母親の額にも玉の汗が光っている。           49
 私は歩きはじめた。小高い丘の上には忠霊塔が立っていた。その下にはコートがあって、 白い帽子をかぶった数人の老人たちがゲートボールに興じていた。漂流者のように、時間 は流れるともなく流れていた。夕暮れまでにはまだ随分時間はありそうに思えたが、気が つけば、傾いた夕陽にこの物憂い午後の日も、たなびく雲もろともに、ひとたまりもなく 吸い込まれてしまうだろう。  私は車まで戻るとエンジンのキーを強く押し回し、アクセルを噴かした。脇目も振らず また走り続けることをすれば、明日の朝まだき頃家に着くだろう。公園を出て通りを抜け、 侑子の店に入れる路地道の前で、またいったん車を止めた。それでほんとうの最後になる。 昨日と同じように、暖簾はまだ軒に巻かれ、すでに玄関先には、そのまわりだけ涼しそう に水が張ってあった。挫けようとしない侑子の匂いがここまで伝わってくるようだった。      50
見届けると、私は再び車を走らせ、スピードを上げた。三条燕のインターから高速に入っ たとき、すでに向かう西の空は真っ赤に燃え上がろうとしていた。陽はまだ空の外れに僅 かにかかっていた。スピードメーターは、100Kmを大きく越えた。私はどこまでも夕 陽を追いかけた。それは、どこまでも果てしがなく、私は今にも力尽きるには違いなかっ た・・・。                             (1998年8月22日)      51